研鑽資料no.1(2018年8月)

責任者:

今年も災害が多発しておりますし、お盆の時期でもありますので、御教えとメシヤ講座特選集から災害と慰霊について学びたいと思い資料を作りました。資料作りにあたりこの度の西日本豪雨で被災なさった方々に心からお見舞いを申し上げ、一日も早い復興をお祈り致します。

次の御教えで、霊の存在を認識して魂を磨いていれば正守護霊が守護してくださることがわかります。

 

御教え『悪と守護霊』

『ところでまず人間というものの発生であるが、言うまでもなく妊娠である。これを唯物的にいえば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎する。これを霊的に言えば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生まれるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、ここに三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一つは副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依する。今一つは正守護霊といって直接憑依はしないが、絶えず身辺に着き添い守護の役をする。もちろん右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言わば人間は三者共同体といってもいい。そのような訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言い、神性そのものであり、これこそ良心でもある。昔から人の性はなりというのはこれを指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘っているのは誰も自分の肚の中を思えば分るはずである。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断にその人の身辺に付き添い、守護の役目をしている。例えば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、すべてその人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違い、間が悪いなどというのがそれである。また何かの事情で汽車に乗遅れたため、危難を免れる事などもそれであり、悪に接近しようとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘っており、本霊が勝てば善を行うが、副霊が勝てば悪を行う事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神のごとく、堕落すれば獣のごとくになるのは世間を見てもよく分るであろう。(『文明の創造』昭和27年)』

 

責任者:

  • 本守護霊―――神性そのもの・良心・善
  • 副守護霊―――動物霊・悪そのもの
  • 正守護霊―――身辺に付き添い守護―――祖霊中から選抜

災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、その人を不幸に導く原因を防止

 

  • 本守護霊 ←<常に戦っている>→② 副守護霊

 

最大の災害は戦争であろうと思いますが、メシヤ様は浄霊により魂を磨けば戦争が始まっても御守護を頂けると御教え下さっております。

 

御教え『安心立命』:

本教浄霊によればほとんどの病苦から免かれる以上、病の不安は解消し、貧乏も争も解決するのみならずたとえ米ソの戦争が始まってもある程度魂が磨けた者は、御守護により災害を免れ得らるるのである。(「救世52号」 昭和25年3月4日)』

 

責任者:

災いも浄化であることが納得できるならば、感謝でき安心立命の境地になれます。

 

御教え『本教に迷信はない』:

『ところが本教の信者になると、実に不安というものがなくなる。これはお蔭話に沢山出ているから読めば分るが、現在の世の中で本教信者くらい安心感を得ている者はあるまい。といっても禍いは絶無とは言えないが、それは世の中に罪穢の全然ない人はないからである。しかしたとえ禍いがあっても、その原因がハッキリ分り、禍いは浄化であるからそれが済めば幸福が増すという楽しみがあるので、反って感謝の念さえ湧くから、結局不安のない人間となるのである。仮に家を探す場合などもそうで、神様の御守護で思った通りの家が見つかるか、もし見つからなければ、まだ時期が早いから待てという意味で、いずれは予期以上の家を与えられる奇蹟は常にある。万事がそうであるとしたら、文字通り安心立命の境地に住し、迷いなど起るはずはないのである。すなわち標題のごとく、本教には迷信がないと言う事が分るであろう。(『栄光』143号、昭和27年2月13日)』

 

責任者:

正しい精神で正しい行為をおこなっておれば恐れるものはない。ありがたい御教えです。

 

御教え『神と悪魔』: 

『そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。ちょうど、子に対する親の愛の一層拡充されたものといえるのである。故に、罰をあてるという事は正神には決してないのである。しかしながら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷うか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるというその事が、罰が当ったように見えるのである。

しかしこういう事もあるから注意すべきである。それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。それらは全く罰が当ったと同じ意味であるが、これらは脅迫信仰に多いので、そういう事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するにおいて邪神は手を引くから、その後は何らの障りはないのである。要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行を為すにおいて、天下恐るべきものはないのである。(『明日の医術』第三編、昭和18年10月23日)』

 

責任者:

災害は天災だけではありません。法律に無知であると思わない災害を被るので法律についても心得ておかなければならないことを、御法難の経験から、メシヤ様自ら警告して下さっております。

 

御教え『帰宅後』:

『実に今日の社会生活上法律に無知なるため、思わざる災害を被る人も世間には、すくなからずあるであろうから、たとえ宗教人といえども、一通りの法律は心得ておかなければならないと、思わざるを得なかったのである。(「法難手記」昭和25年10月30日)』

 

責任者:

災害についての御教えを検索していて『苦集滅道道法礼節』の御教えがヒットしました。これは昨年も学びました。

 

御教え『苦集滅道 道法礼節』:

『次の道法礼節であるがこの事も現代によく当はまっている、道法とはいうまでもなく道であり法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れるために人間同士の悶着(もんちゃく)や、家庭の不和、社会秩序の紊乱(びんらん)となるのである、法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあってこれは目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、人間諸々(もろもろ)の災は、ことごとく神の律法を犯すための刑罰である事を知らねばならない、実はこの刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである。もちろん、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等すべて神律を犯したための刑罰死である。そうしてあらゆる物にも法がある。すなわち法とは一切の規準であり、秩序である。判り易く言えば、人間の為(な)すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、いかなる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。昔から法(のり)を越えるなというのもその意味である。(『栄光』102号、昭和26年5月2日)』

 

責任者:

メシヤ講座で代表より災害についていくつかの御教導を賜っておりますので紹介いたします。

 

メシヤ講座no.185三重(平成28年7月)」より抜粋:

楳木代表

そして、世界救世(メシヤ)教が復興した時に、今度は世界に浄化が・・・、今でも目を覆いたくなるようなテロをはじめとした災害が起きておりますけれど、もっと驚くような事が起きて来るので、その時には世界救世(メシヤ)教として、世界に出て行って浄霊によって大勢の人を救っていってメシヤ様の御事を認識させないといけないのです。そういう事をしたら、地球上は地上天国ができる可能性が大だという事ですので、まずはメシヤ様の認識を皆さん方にして頂くという取り組みを今後より一層取り組んでいきたいと思います。」

「メシヤ様の御教えによると『地表がさらに固まっていけば地震が無くなっていく』ということでありますので、こうした被害を少なくするためにも、私達の霊性を高めて、そして、その霊性の高まった人に繋がる霊線を通して大勢の方々が浄まっていって、“被害の少ない日本にしていかなければいけない”と強く思うところでございます。」

また、

『家屋の構造も泥棒が亡くなるから締りは要らんから明るくなり、光線が射し込む。又大風、大地震、大雨が無くなるから、窓を大きくして危険なく、明るくなって良い芸術の発達により娯楽がたくさんとなる。(『観音講座』第六講座、昭和10年9月5日)』

 

責任者:

楳木代表は。このように光明世界になった時の様相をお知らせ頂いております。

 

まとめ

責任者:

これらの内容を整理すると…、

〇浄霊によって一人でも多くの人を救っていく。

〇災害も浄化と受け止められる御魂に向上を許されたい。

〇世界浄化となってきたときに浄霊によってメシヤ様のことを認識させていく

このようなことを学ばせて頂けるのではないでしょうか。

他にも様々な受け止め方があろうかと思いますので、各自で学びを深めて頂ければと

思います。そして以下に「災害」に付いての御教えを全集より抜粋させて頂きます。

 

御教え『大三災と小三災』:

『昔からいわれている風水火の大三災、飢病戦の小三災とはいかなるものであるか、これについてその根本義をかいてみよう。

風水の原因は天地間の浄化作用であって、なぜ浄化作用が発生するかというと、霊界における曇りすなわち眼に見えざる汚濁が堆積するのである、それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される、それがための暴風雨である、しからば右のごとき曇りとはいかなるものでいかにして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである、すなわち想念の悪に属するものとして不平、憎み、呪い、嫉(そね)み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が、霊界を曇らせるのである。

次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、人に対する非難攻撃、怒号罵声、秘密欺瞞、咎め、愚痴等、すべて悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである、それら種々の曇りの堆積の量がある程度を超ゆる時一種の毒素が発生し、人間生活に支障を来すことになるので、その自然浄化が発生する、それが天地の法則である、前述のごとく霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に草木特に農作物にも悪影響を与える結果凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである、ゆえに今日日本各地における松や杉を枯死させる害虫の発生もこの理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、これを防ぐ事は難しいのである、言い換えれば日本人自身の過が、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の悪念と言霊は大いに慎まなければならないのである。

右の天災に引換え人災もまた怖るべきものがある事は何人も知る通りである、特に最も人間に被害を与えるものとしては彼の戦争であろう、私はこの戦争の原因について、破天荒(はてんこう)ともいうべき新説をかいてみるが、あまりに意外であるから、読者は心を潜めて読まれたいのである。

戦争とはもちろん集団的闘争であって、今日までの人類は平和を好むよりも争いを好むかに見える傾向が多かった、それがひとり国際間のみではなく、国内各方面を見渡す時、争いのない所はほとんどあるまい、一役所、一会社、一組合等、いかなる集団の内部にも必ず絶間ない暗闘があり、互いに相手を非難し排斥し合う、また同業者間の争い、家庭内の争いすなわち夫婦兄弟親子等の争い、友人間の争い等々、実によく争いを好む、電車汽車内、道路上においてすら通行人同士の争いはしばしば見受くるところである、全く人間生活の中で争いの面のいかに多いかは今更言う要はない、とすれば一体人間のこのような争いを好む性格は何に原因するかを説いてみるのである。

いかなる人間といえども、先天性及び後天性に種々の毒素を保有している、それらの毒素は人間が神経を使う個所へ集注するという、私の唱うる説に従えば、神経を最も使う局所としては首から上である、頭脳を初め眼鼻口耳等で手足は休むことがあっても右の機能は覚醒時中は一刻の閑さえなく活動している、従って、毒素はこれらの付近に集溜するのは当然で、大多数者がいつも訴える首の周り肩の凝り等もそのためである、この集溜毒素は時日を経るに従い一旦固結するが固結がある程度に達すると、反対作用すなわち溶解排除作用が発生する、これを吾らは浄化作用というのである、その際必ず発熱を伴うが、それは毒素排除を容易ならしむるための固結の溶解作用で、それによって固結は液体化するのである、この自然浄化が感冒であって喀痰鼻汁汗等の排泄物はその表われであるが、感冒の極軽微な浄化作用は、大抵の人は平常といえども持続しているのである、これはほとんど気の付かない程度であるから、本人は健康と思っているがこの程度の人といえども決して真の健康的感覚はない、何となれば精密に診査すると、頭脳全体から肩部にかけて必ず微熱があり、軽度の頭重、頭痛、眼脂(めやに)、鼻汁、耳鳴、歯槽膿漏、頸肩の凝り等の自覚症状は必ずあるものであるから、これがために絶えず一種の不快感がある、この不快感こそ曲者である、すなわちこの原因によって怒りとなり、怒りの具体化が争いとなり、争いの発展が戦いとなるのであるから、人類から闘争心を除去する手段としては、この不快感を除去する以外他に方法は絶対ないのである、この理によって誰しも感ずる事は、同一の事柄であっても爽快感の時は何とも思わないが、不快感の時は憤怒を禁じ得ないので、この経験のないものはほとんどあるまい、この例として次のような事がある。

よく泣癖の赤児がある、それは虫気のためとか虫が強いとかいうが、こういう赤児を診査すると必ず頭脳及び肩部に微熱がある、赤児で肩の凝っているものも沢山ある、これらを本教浄霊によれば、毒素は軽減し無熱となって泣癖は全く治癒するのである、また児童で怒りやすく、親に反抗する性質のものも必ず右の赤児と同様の症状で、これまた浄霊によって治癒し従順となり、争いを嫌うようになり、学校の成績も可良となるのである、夫婦仲の悪い原因も同様で、浄霊によって親和するようになるのである。

以上のごとく、争いの根源は頭脳と首肩付近の毒結の浄化熱とすれば、それを全治させる事こそ唯一の解決の手段である、とすれば、本教浄霊こそ世界広しといえども唯一無二の根本的争闘除去の絶対法といっても過言ではあるまい、また今日戦争以外の苦悩に属するあらゆる問題といえども同様であって、彼の破壊的思想や階級的闘争等の思想は、不快感による不平不満が原因である、その他不快感から免れんがため、不知不識(しらずしらず)強烈な刺戟を求めようとする、それが飲酒、淫蕩、怠惰、争闘等の犯罪発生の結果となるのはもちろんである。

以上の理を悪用し、その時代の唯物的野心家が不平不満を助長させ、戦争を起し、悪質の社会革命を起すのである、従ってこの地球上に永遠の平和を樹立するとすれば、まず人間一人一人の不快感を祓除し、爽快感を充実させる事である、その結果として闘争を嫌忌し、平和愛好者となる事は一点の疑いない事実である。

以上のごとき原理を把握させ、実際効果を挙ぐる力は本教以外にない事を知るべきである。(『光』22号、昭和24(1949)年8月13日発行)』

 

 

御教え『台風の霊的考察』:

『今度の九州の大風水害は、いかに惨憺たるものであったかは、新聞ラジオで詳細報告されたから、ここでは略すが、では一体台風というものの原因は何かという事は、誰も知りたいだろうが、科学では今のところ全然分っていないから私はかくのであるが、何しろ科学はいつもいう通り、浅薄極まる表面的物の見方であって、内在せる根本には触れていない以上、いかに進歩しても分るはずはないのである。そうして台風といえども人間の病気と同様、それ自体科学の分野ではない。霊の分野に属しているのである。それなら宗教で分りそうなものだが、実は分り得る程の高度の宗教はまだ出ないから致し方がないので、そこで私は神から教えられた真の原因を説くのである。

以前もかいた事だが、この世界における森羅万象一切は、絶えず汚穢が溜ると共に、それに浄化作用が起って浄められるのが法則となっている。従って地上の霊界、現界共に絶えず汚穢が溜り、ある限度を越えるやここに浄化作用が発生する。それが台風であって、つまり風で吹き払い、雨で洗い浄(きよ)め、天日で焼くのである。この理によって今回のごとく田畑百数十万町歩(ぶ)も水底に沈んだという事は、全く人肥金肥の肥毒によって土壌が汚され切っているからで、それを洗い浄めなければ農作物に影響を及ぼし、減収になって食糧難に陥る憂いがあるからである。そうなるとここに浄化担任の神々はその活動を開始されるのである。

また破砕(はさい)され流されたりする家屋は、その物の霊に汚穢が充ちたためであり、溺死した人間はやはりその人の霊に罪穢が溜って、生存の資格が失われたからである。これで大体分ったであろうが、ついでだから今一つの事をかいてみよう。それは火災である。これも知らるる通り、年々増加の趨勢にあり、国としての損害は軽視出来ないものがある。これらもやはり浄化であって、それぞれの建造物に罪穢が溜っているからである。それは今日どんな家でも土地購入、建築等に費(ついや)した金が汚れていると共に、使用の場合その家屋を大なり小なり間違った事をするからで、これも現代生活上ある程度は止むを得ないが、それでも神仏の信仰者か余程善徳を積むとしたら、それだけ穢れは消されるからいいが、そういう人は滅多になく、ほとんどは罪の溜め放題であるから、どうしても火で焼き浄めなければならないからで、それが火災の原因である。火災の多いという事は無信仰者や悪徳者のいかに多いかを物語っている訳である。また山林もよく焼けるが、これも購入費やその目的に含まれている不正や邪念の汚れのためであるのは言うまでもない。

以上のごとく現代人は神を信ぜず、霊的智識なく、ただ物質のみを頼りにする以上、災害の多いのも当然であって、これが厳正なる神律であるから致し方ない。それに盲目なるがため末梢的手段のみで防ごうとする以上、根本的でないから、結局賽(さい)の河原の石積と同様である。従って結論としては人事を尽くすと共に、神を本位として罪穢を溜めないようにする事で、それ以外万全の方法はない事を心得べきである。(『栄光』219号、昭和28(1953)年7月29日発行)』

 

御教え『一切の災は浄化作用なり』:

『世の中のありとあらゆる災いは、浄化作用である事は常にいっているが、これについて現在国民全体が直面している主なる悩みについて詳しくかいてみよう。まず第一は病気であり、第二は食糧不足であり、第三は汚職問題であろう。その中で第一の病気については、私は常に余すところなく説いているから省くが、第二第三を説明してみよう。

この第二も今までに相当かくにはかいたが、まだかき足りない点もあるのでここにかくのである。これもいつもいう通り凶作の原因が肥料によって土を汚し、地力を弱らすためであるとしているが、もちろん風水害並びに冷害もこれに起因している。風水害としては言うまでもなく、昨年のごとき洪水と高潮による稲の冠水であるが、この原因は以前もかいたごとく、ヤハリ浄化作用の現われであって、つまり肥料によって土を汚し、地力が弱体となった結果、自然はそれを洗い清めて健康土壌にするのであって、これが神の摂理である。ちょうど病気の原因が薬毒であり、それが人体を弱らすから、快復させるため自然浄化作用が発生するのと同様である。

では一体右の理由は何かというと、この大地はその中心の地熱から放射されている地霊すなわち窒素によって、あらゆる植物を健全に生育させるのであるから、土が清浄でなければ地力が衰弱するからである。この理によって土壌の不純物を掃滅する、それが自然浄化すなわち風水害である。すなわち水害の方は大地の汚れを水で洗う作用で、風害の方は空間に溜った汚濁を吹き払うのであるが、この汚濁にも二つの原因がある。一は右のごとく地霊が放射される場合、地表にある不純物が邪魔するからと、今一つは人間が発する言霊(ことたま)である。すなわち悪口、不平不満、愚痴等々、つまり悪に属するものは霊界を汚濁させるための浄化である。また冷害は肥毒の壁になっている地表が地熱を遮断するからと、害虫を死滅させるためであり、今一つは農民の愛が欠除している反映でもある。すなわち愛は熱であるからである。

次は今騒がれている汚職問題であるが、これももちろん不正行為によって国民の血税を浪費するからで、実に怪(け)しからん話である。それが原因となって、その人の霊が曇るからこれを清浄にすべく浄化作用が発生する。つまり因果応報である。ところが面白い事には、その浄化の場合は享楽に相当するだけの苦しみであり、しかも利子が付くので、それだけ大きくなるので、これが神律であるから、至公至平一厘の毫差(ごうさ)もない。この点人間の法律との異(ちが)いさは天と地であるから、絶対免れ得ないのである。従って一日も早くこれに目醒めて心から悔い改め、その償(つぐな)いをするより方法はないのである。償いとは世のため、人のため大いに善徳を施す事であって、そうすれば浄化も軽く済み、再び立ち上る事が出来るのである。ところがほとんどの人はそれに気付かず、一生懸命誤魔化そうとするのであるから、結果において益々罪は重なるばかりで、一生涯不遇な境遇とならざるを得ないのである。何よりも喚(よ)び出し状が来てても、何だかんだと日を延ばそうとするが、これは疾(やま)しい点があるのを表白しているようなものである。たとえ罪状を否定しても駄目であるのは知れ切っている。しかもこういう卑怯な態度は国民思想にいかに悪影響を及ぼすか判っているはずで、結局罪の上塗りという事になる。いつかも言った通り、「愚かなる者よ汝の名は悪人なり」の言葉もよく当てはまる。

以上のごとく現在社会の人間ことごとくといいたい程、不幸な運命に喘ぎ苦しみ、地獄社会の有様は、全く間違った想念と行為によって、人間自らが作っているのであるから、その愚及ぶべからずである。ところがこの理を諭(おし)える役目の宗教でさえはなはだ冷淡であるのは不可解といってよかろう。以上のごとく何から何まで間違った世の中であればこそ、神は私をしてこれを諭(おし)え救い給うのである。(年代不詳 著述篇12巻P.361)』

 

お盆について

責任者:

次に、お盆が近づいておりますので、メシヤ講座・特選集より慰霊に関することに付いて代表から御教示頂いたことをまとめてみました。

 

お盆の意味 

メシヤ講座・特選集no.19(平成14年8月分)」より抜粋:

― お盆の意味について教えてください。

楳木代表

「今月はお盆についての質問が多いので、メシヤの教えをそのまま紹介致しましょう。

『釈尊の大慈悲から盂蘭盆会(うらぼんえ)というものを作り、毎年一回日を決めて、地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くというが、兎に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知っていて待っているのである。

元来祖霊は常に全部仏壇にいる訳でなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集まるのである。その際仏壇にはある程度救われた霊だけしか来られない。つまり八衢(やちまた)以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。

お盆には種々の儀式を行って霊を迎えるのであるが、‘おがら’を焚くのはここからお入り下さいという目印である。(昭和24年3月1日)』

また、地方によりお盆の日が違いますが、その土地の風習のままでよいということです。『霊界では、伝統や習慣のままにしてくれる』という教えもありますから、それぞれに伝わることに誠を込めていくということが大切ですね。」

 

仏壇の内部は極楽浄土の形

― 地獄は無くなる、というように伺っていますが・・・。

楳木代表

「そうですね。ただ、今は過渡期ですから、天国建設と平行して無くなりつつあると解釈したらよいと思います。また同時に地獄を維持したいという、天魔羅刹、夜叉龍神の働きも侮れません。私も命を狙われたくらいですから。やはり基本を知り、極当たり前のことを心掛けるように致したいと思います。少し長くなりますが、メシヤ様の教えを紹介しておきます。

『仏壇の意義を概略説明するが、仏壇の中は極楽浄土の型であって、それへ祖霊をお迎えするのである。極楽浄土は百花爛漫として香気漂い、常に音楽を奏し飲食裕かに諸霊は歓喜の生活をしている。それを現界に映し華を上げ、線香を焚き、飲食を饌供するのである。

又鐘は二つ叩けばよく、之は霊界に於る祖霊に対し合図の意味である。之を耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。然し此事は何十何百という祖霊であるから、小さな仏壇の中へ如何にして併列するか不思議に思うであろうが、実は霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際は其場所に相応するだけの小さな形となるので、何段もの段階があって、それに上中下の霊格の侭整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対しては諸霊も恭しく会釈さるるのである。』

 

地獄からの脱出

『そうして飲食の際は祖霊はそのものの霊を吸収するである。然し霊の食料は非常に少なく、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊に施すので、その徳によって祖霊は向上さるるのである。故に仏壇へは出来るだけ、平常と雖も初物、珍しき物、美味と思うものを一番先に饌供すべきで昔から孝行をしたい時には親はなしという諺があるが、そんなことは決してない。寧ろ死後の霊的孝養を尽くす事こそ大きな孝行となるのである。

勿論墓参法事等も祖霊は頗る喜ばれるから、遺族又は知人等も出来るだけ供養をなすべきで、之によって霊は向上し、地獄から脱出する時期が促進さるるのである。

世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、之は大きな誤りである。何となれば両親が生きているとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇又は寄付けさせないとしたら、大いなる親不孝となるではないか。そういう場合霊界におられる両親は気づかせようとして種々の方法をとるのである。その為に病人が出来るという事もあるから注意すべきである。(昭和24年8月25日)』

 

楳木代表

「ここにご紹介致しました教えは、昭和20年代のものであるということを踏まえて接していただきたいと思います。霊界の様相が変化していることは勿論のこと、時代背景は著しく変わっておりますからね。それから、地獄が徐々に無くなるということを最も実感しているのは、他ならぬ地獄にいる霊です。自分達が向上した後無くなれば言うことはないのですが、そうではない場合は非常に困ります。やはり焦りも出る訳ですね。

そのことを現界にいる私達が理解し、可能な限り徳を積ませていただくことが大切なのですね。教えに触れると、‘徳’というものが如何に大切かということが解りますね。現界で生活している私達は、祖霊が霊界で徳を積むことができるように尽くしていくことですね。また、私たち自身が徳を積む道は限りなく多くありますから、日頃の心掛けが非常に大切です。」

 

お彼岸、礼を尽くすことの大切さ

― お彼岸についてはいかがでしょうか?

楳木代表

「メシヤ様の教えでは『彼岸の時は太陽が冬至と夏至の真中を廻る時で、丁度いい時なんですね。で、この丁度いいという事が天国、極楽になるのです。つまり理想世界の事ですね。彼方の岸というのは‘理想郷’の意味でしょうね。でその時御墓参りをするという事で、別にはっきりした意味はないのですが、まあ丁度いい時に先祖を祀るという訳で之は理屈なしにいい事ですね。』とあります。

これは天国の型づくりですね。ご神体を迎えたご家庭には、ご神前に入るときに靴下を履くようにお願いしています。それは、清浄な神域を保つために礼を尽くすように心がけるということです。その家庭の聖域をより清らかに保つことにより、天国化が進むのです。私自身、暑い日でも朝から就寝時まで靴下を履いているというのは、何時でもご神前に入室できるようにしているからです。

これは祭事の作法にも通ずることです。‘左進右退’の神律を心掛けるということも、やはり天国化のリズムです。人体では左が上座で、右が下座になります。ですから浄霊も相手の左から右へとしていきます。

 

お盆について

メシヤ講座no.197三重(平成29年8月)」より抜粋:

支部長代理:

最後にお盆ですので、お盆の意味合い、お盆の意義について御教えを学ばせていただきます。

『毎年一回日を決めて地獄にいる霊を子孫の家へ還らしてくださるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くと言うが、とにかく地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知っていて待っているのである。(『妙智の鍵』 昭和24年7月10日)』

 

御教え『祖霊と死後の準備』:

『鐘は二つ叩けばよく、これは霊界における祖霊に対し合図の意味である。これを耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。しかしこの事は何十何百という祖霊であるから、小さな 仏壇の中へいかにして併列するか不思議に思うであろうが、実は霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際はその場所に相応するだけの小さな形となる ので、何段もの段階があって、それに上中下の霊格のまま整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対しては諸霊も恭(うやうや)しく会釈さるるのである。』

 

支部長代理:

ということですので、仏壇の前で鐘を叩くと祖霊様がブワーっと寄ってきます。そして順番に整列されるそうですので順序が大切ということですね。霊格の順序です。

 

『そして飲食の際は祖霊はそのものの霊を吸収するのである。しかし霊の食料は非常に少なく、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊 に施すので、その徳によって祖霊は向上さるるのである。』

 

支部長代理:

ということですので、山盛りお供えしてあげると良いですね。

 

『故に仏壇へは出来るだけ、平常といえども初物、珍しき物、美味と思うものを一番先に饌供すべきで昔 から孝行をしたい時には親はなしという諺があるが、そんな事は決してない。』

 

支部長代理:

霊界へ行ってからの供養の大切さ、それで霊が向上していきますのでそのことの方が喜んでいただけると思います。

 

『むしろ死後の霊的孝養を尽す事こそ大きな孝行となるのである。もちろん墓参法事 等も祖霊はすこぶる喜ばれるから、遺族または知人等も出来るだけ供養をなすべきで、これによって霊は向上し、地獄から脱出する時期が促進さるるのである。』

 

支部長代理:

それと仏壇ですね、皆さん自分の家のことを考えてみて下さい。

 

『世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はない』

 

支部長代理:

人間世界ではそういうところが多いように思います。

 

『これは大きな誤りである。何となれば両親が生きているとして、長男だけが好 遇し、次男以下は冷遇または寄付けさせないとしたら、大なる親不幸となるではないか。そういう場合霊界におられる両親は気づかせようとして種々の方法をと るのである。そのために病人が出来るという事もあるから注意すべきである。(祖霊と死後の準備 自観叢書 昭和24年8月25日)』

 

だから長男のところで祀っているからいいわ。でなくて、特に先祖代々之霊というのは次男のところであっても祀っていくべきですよ。供養していくべきですよ。ということを言われています。祖霊が霊界で徳を積むことができるように尽くしていくことが大切ですね。

 

支部長代理:

 

楳木代表が青年布教時代に先達の子息に聞き取り調査をしたらしいです。それによりますと、

「初めて信仰に入ったことを実感したのは、家から急に家財道具が消えてゆき仏壇が届いた時だ。御神体がご奉斎された時ではないのですね。(メシヤ講座・特選集 平成十九年七月分)」

ということですので、信仰を実感するのはまず霊界を整えた時だということなのですね。

 

「過去の教団(メシヤ様を教祖と仰ぐ)の取り組みを批判するだけではなく、一つひとつ整えて差し上げねばならないと考えております。今後資格者へ仏壇設置方法や「遷霊詞」奏上方法を教授して、多くの方々が信仰生活の本来のあり方を歩むことができるように、努めたいと考えております。八月度は、お盆の月でもありますので全国で確認してまいります。すでに教授して取り組んでいる方々もいますが、「遷霊詞」を配布しつつより充実を目指してまいります。[メシヤ講座・特選集 平成十九年七月分]」

 

支部長代理:

「遷霊詞」をご存知の方もおられると思います。お坊さんにしっかりやってもらえれば良いのですけども、ぜひ自分たちでという時に「遷霊詞」を奏上します。お位牌を拵えた時に霊にお位牌に移っていただきます。普段は善言讃詞ですね。お盆の時はお盆の間中3日間、仏壇であげていただきたいと思います。これはやられた方が良いと思いますよ。

時間になりましたので終わらせていただきますが、何か質問ありますか。

 

参加者

お盆の三日間お供えを午前にさせていただくことが筋だと思うのですが、出来ない場合は夜とかでも大丈夫でしょうか。

 

支部長代理:

お盆の間は普段来られない霊も来ておりますので、その人たちに先祖のみなさんが自分たちが戴いたあまりを分けてあげられるくらいのものをお供えしてあげると良いと思います。だからそういった餓鬼道に落ちた霊も来ておりますので『善言讃詞』をあげるということが非常に大事なわけです。

 

参加者

お膳を作れたら作ってあげると良いですね。

 

支部長代理

そうですね。

 

参加者

今までズーッと○○宮のところでおまつりをさせていただいていましたので。仏壇は父だけみたいな(笑い)

 

支部長代理:

仏壇は大事なのにね。お位牌があるのだから。

 

参加者

(仏壇)無視していました。

 

支部長代理:

そうだね。今回しっかり整えたのだから。今年のお盆は待ちに待っているよね。

習慣とかは地域の事情にあわせていただけるということですので、地域にあわせてやっていただけたら良いかと思います。要は『善言讃詞』をあげていただきたいということとお供えをしていただきたいということです。

では、時間もきましたので終わらせていただきます。ありがとうございました。

 

まとめ

責任者:

お盆の間中、『善言讃詞』をあげてあげると良いと教わりました。「お盆は地獄の釜の蓋が開く」ので先祖供養のチャンスですので、山盛りの供物と共に善言讃詞をおあげしましょう。