研鑽資料no.27(2019年11月)

12月に向けての学び

はじめに

責任者:

11月も中旬に入り、やっと初冬らしくなってまいりました。皆様にはお変わりありませんでしょうか?先週末は、「天皇陛下の御即位をお祝いする国民祭典」と「祝賀御列の儀」が私達の祝福と共に行われ、テレビの映像を視聴しながらいよいよこれからが、御名の意味している“徳”によって治めていかれる令和という新時代への幕開なのだなぁと感じさせていただきました。

さて今回の学びも、引き続き「教祖の精神を現代に求める」というテーマを持って、「景仰」に収められている「メシヤ様の実像」から、楳木先生の御教示を基に「神様の御心」を求め、引き続き「御教えの体系化」を図り『伊都能売思想』の構築に努めて参りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

「メシヤ講座・特選集no.61(平成18年2月分)」より抜粋:

「景仰」を如何ように拝読するか(2

はじめに

楳木先生:

信仰生活は「追体験」によって深まりを見ることができます。

御教えや逸話を自らのところへ下ろして考え、日常的にどのようなことを心掛けてゆくのかを明確にし、そして実践する―という反復を重ねることが大切です。」

 

『観山亭の屋根葺き』の項

≪本文≫

昭和二十一年のことですが、観山亭の土台が出来、柱も立ち、屋根を葺(ふ)く段取りになりました。

その日は、葺き始めてから三日目ぐらいでした。あと四、五十センチで、全部葺き終わるという時、空が急に暗くなって、真っ黒な雲が現われて来ました。

「困っちゃった。降らないうちに葺き終えてしまわないと、柱にシミがついてしまう。明主様(メシヤ様)になんとか申し上げて下さいよ」と屋根屋はあわてています。

「そうか、ではちょっと待ってくれ。明主様(メシヤ様)に申し上げてくる。だが、あと葺き終わるのに、時間にしてどのくらいかかるのか」

「三十分か四十分です。だが、一時間をみていただきたいです」と屋根屋。

私は早速、側近奉仕者を通して、このことを明主様(メシヤ様)に申し上げました。

明主様(メシヤ様)はかけ出して見えました。

『どうしたんだ』

「実は、いまにも雨が落ちて来そうで・・・・・・」

『よろしい。どのくらいかかる?』

「あと一時間あれば葺き終われます」

『うむ、しかし、ギリギリにして、どのくらいか』

「四十分です」

『そうか』と明主様(メシヤ様)はおっしゃって、五分ぐらい空を見上げられていましたが、(五分と思ったが、ほんとうは二、三分だったでしょう)『これでよろしい。早く葺いてしまいなさい』と言われました。

ふたりの屋根屋が、いそいで全部を葺き終わり、そして梯子(はしご)を降りようとした時、凄(すご)い抜けるような雨です。大豆ぐらいの雨足です。

私は入信したばかりで、半信半疑で、明主様(メシヤ様)が天の一角をにらまれたが、果して大丈夫だろうかと思っていましたが、観山亭のまわりだけが降っていないのです。その先は大雨です。私は全くびっくりしてしまいました。(工芸家)

 

≪解説≫

楳木先生:

この一文は、非常に臨場感あふれる内容です。工芸家が記述したものらしさを感じます。

メシヤ様は空を見上げられて何をされたのか。

さて、「空を見上げられていましたが、・・・」とありますが、その時にメシヤ様は何をされていたのでしょうか。

私は、以前の教団で二十代半ばで祭事講習に臨みました。その折り、祭事担当の総本部幹部から「天気を司る龍神に指示されたのである」と聞かされました。

しかし、メシヤ様であろうとも天気を変更するということは、余程のご事情がなくてはなさいません。それが、『ギリギリにして、どのくらいか』というお言葉になります。そして、そのことを告げられる時間が(二、三分だったでしょう)という記述になるのです。

その直後に追体験

私は、そのお話の直後に追体験をする機会に遭遇いたしました。

高知県でまだ土葬をする地域がありまして、葬祭の祭主を担ったことがあります。いよいよ埋葬式を執り行うことになり、墓地に着くとまだ仕上がっておりません。土地の人が懸命に穴を掘っていました。そしてこの時雨粒がポツンポツンと舞ってきたのです。

空を見上げると、真っ黒な雲が現われていました。テントなどもない中で今降られると穴が塞がり、埋葬式自体ができなくなり、神霊に対して申し訳ないことになってしまいます。

私は思わず「あとどのくらいかかりますか」と尋ねました。埋葬し、墓標を立て善言讃詞を奏上し、家まで帰るには最低35分はかかるとのことでした。

私は、土地の名称を冠して龍神名を付け、空の一点を見上げ天津祝詞を奏上しました。そして、埋葬式の旨を奉告し、天気の祈願をいたしました。周辺は大雨になりましたが、そこだけ雨粒が舞ってくる程度で何とか埋葬式を無事終えることができました。

家に走るように帰りまして、最後尾の人が玄関に足を踏み込むと同時に抜けるような雨が降りだしました。埋葬式に引き続き帰家祭を執り行い、ご遺族の方々へ景仰のお話しをいたしました。メシヤ様へのさらなる感謝の念が育まれた瞬間でした。

そうして、こうした事象と対処の取り組みを重ねることを通して、更に御教えに対する深みのある理解を得ていったのです因みに、私は、今日まで天気についてお願いしたことは、この時と他の地で執り行なった地鎮祭の際にしかありません。それ程、特別な時にしかお願いしてはならない、という弁えを持たねばなりません。

神様は正しい願いは叶えなければならない

神様の座にあられるメシヤ様は空を見つめるだけで事足りるのですが、人間ではそうはゆきません。神格に対して礼を尽くさねばなりません。その一つが天津祝詞奏上です(資料「天津祝詞について」へ)。そして願いが理に叶っているかということが重要です。『最低限の時間』ということがそれに当たる訳です。

これは私達のお世話でも非常に大切になってまいります。神様という存在は、人間の正しい願いは叶えなければならないことになっています。そこで、先ほどのように‘正しい願い’かどうかということが大変重要になってまいります。御教え『守護神』全文へ

自分に都合の良い願いが‘正しい願い’とは限りません。厳しい内容の方が正しいということもあります。そこで、願いの内容の吟味が必要になります。それがお世話です。

だからこそ、お世話というものは大変に意義があることなのです。お世話を通して人様の願いが叶えられるばかりではなく、自らも学びを得ることができ、自然と幸福の道を歩むことが許されてゆくのです。

メシヤ様の行なわれたことは、私達にとっては奇蹟と思われることですけれども、ただ「全くびっくりしてしまいました」という記述だけでは信仰というものは育ちにくいところがあります。私の場合、祭事講習で知り得ることができたので、想念と作法を会得できたのです。そうした逸話は無数にあったと思われますので、それらを普遍化するような編集が望まれるところです。」

 

責任者:

ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎上記の楳木先生の実体験のように、私達の信仰生活は、御教えや逸話(体験談)などを自らのところへ下ろして考え、日常的にどのようなことを心掛けてゆくのかを明確にし、そして実践する(反復を重ねる)ことが大切であり、そうした「追体験」をすることによって深まりを見ることができるのだということ。

◎御教は、自らのまわりで起こる事象と、それに対する対処の取り組みを重ねることを通して更に深く理解することができるのだということ。

◎私達は御祈願する上に於いて、神格に対して(天津祝詞奏上などの)礼を尽くさねばならないし、御祈願の内容が理に叶っているかどうかの吟味が必要になるということ。

 

「メシヤ講座・特選集no.62(平成18年3月分)」より抜粋:

「景仰」を如何ように拝読するか(3

はじめに

楳木先生:

信仰生活とは、いったいどのようなものでしょうか。

どのような心を持ち、どのような言葉を口にして、どのような行動を取ってゆくことなのでしょうか。人として真の幸福を得てゆくには、どのような生活を積み重ねたら良いのでしょうか。

メシヤ様は絶対的な真理をお説きになられながらも、『それを採用するかしないかは相手のご随意である』という姿勢を貫かれ、無理強いをされませんでした。これは絶対的な自信に裏付けられたお姿であり、そこにこそ、メシヤ教における信仰生活の規範を拝することができます。」

『みんな光だ』の項

≪本文≫

いつでしたか、何をしている時か忘れましたが、明主様(メシヤ様)は、『日常生活の小さい事柄でも、私に関することは、みんな光なんだから、なるべく多くの人に話してやりなさい』とおっしゃられたことがあります。(側近奉仕者)

≪解説≫

楳木先生:

『何時だったのか、何をしていた場面だったのか、を忘れてもらっては困る』というお声が聞こえてきそうな文章です。

今回は、この文章の前掲『御教えの実行者であられた明主様(メシヤ様)(全文ヘ)』(側近奉仕者)と併せて学ばせていただきたいと思います。

『わたし自身に守れているかどうか』

この項には『おまえたち側近者は、出来るだけわたしの日常生活を信者に知らせる義務がある。なぜなら、わたしがつねに信者に言ったり、教えたりしていることが、わたし自身に守れているかどうか、おまえたちの目でたしかめて、ありのままを書けばいいのだ』というお言葉が出てまいります。

メシヤ様ご自身が御教えの実践者であられ、しかも結果的に自信の塊(かたまり)のようなご日常を送られていたことがよく判ります。御教えの拝読の仕方が別項に出てまいりますが、そのことをご自身が率先垂範されていたのです。

『みんな光だ』と仰ったことは、ここにあると拝察されます。ご自身がお説きになり、ご自身が第一の実践者であられた。そのことが天国天人のお姿であり、真の幸福者像であり、日常茶飯事が『光』そのものなのです。

そういうことから、信仰生活の規範を求めることにおいて「景仰」は実践事例の宝庫です。その宝を私達は生かしてゆかねば、勿体ない訳です。私達が読み違いをしたり、取り違いをしたりしてしまいますと、宝の持ち腐れになってしまいます

その意味では、前回も指摘したように編集の工夫が必要だったのですが、今となっては拝読の仕方を工夫するしかありません。そして、鏤(ちりば)められた輝きを我が物としていただきたい、と願います。」

 

責任者:

ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

◎メシヤ様ご自身が、ご自分で説かれた「御教え」の第一の実践者であられ、そのことが天国天人のお姿であり、真の幸福者像であり、そのことによってメシヤ様の日常茶飯事は『光』そのものだったのだということ。

○「景仰」は、信仰生活の規範を求めることにおいて実践事例の宝庫であり、その宝を私達が生かしてゆかねば、(読み違いをしたり、取り違いをしたりしてしまうと、宝の持ち腐れになってしまい)勿体ない訳なので、その中に鏤(ちりば)められた輝きを我が物とできるような拝読の仕方を心掛けていただきたいのだということ。

 

「メシヤ講座・特選集no.62(平成18年3月分)」より抜粋つづき:

「教・論・律」の範を示されている

楳木先生:

私達が『みんな光なんだから・・・』というお言葉の字面(じづら)に囚われてしまうと、取り違いをしてしまいます。ここでは、『私は時に応じて説く。まとめるのはきみたちだ』(教会長)というお言葉を重ねて考えておきたいと思います。

メシヤ講座の中で「教・論・律」について触れてきましたが、この考え方は実はここから来ております。

メシヤ様は、御教えを口述筆記されました。その模様は『スイッチを入れたテ-プコ-ダ-のように(全文へ)』(側近奉仕者)と記述されております。生き神様だからこそ、あり得ることであります。そしてその内容は「神様のお言葉」そのものです。

口述筆記されたお原稿は、『多い時は二十回以上も推敲に(「ご自身執筆の原稿の扱い方」の項へ)』(管長)とありますように、何度も朱を入れられ、原稿用紙は真っ赤になっていたそうです。『どう表現したら、もっと信者にわかってもらえるだろうか(「より平易な表現へ」の項へ)』(側近奉仕者)と心を砕かれたそうです。

口述された内容そのものは「教」です。そして、推敲されて人々に解り易くするために何度も手直しされてできたお原稿が「論」です。その時代に生きる人々が理解し易くなるように時代性を加味されて、添削されたものです。

そして、御自らが御教えの実践者であられたのです。その実践が「律」なのですそれこそが、私達における信仰生活の鑑そのものなのです。ですから、時の指導者は、絶えず「論」の展開に心を注ぐことに懸命に取り組み、尚且つ自ら実践者たるべく努めなければならないのです。

信者は、その後ろ姿を見て、共に実践に取り組むのです。」

 

責任者:

ここで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。

○拝読する上で、お言葉の字面(じづら)に囚われて、内容の取り違いをしないように心掛けるということ。

◎メシヤ様が、口述された内容そのものは「教」であり、私達に解り易くなるように何度も手直しされてできたお原稿が「論」であり、メシヤ様御自らが御教えの実践者であられたのが「律」なのだということ。そしてこのことが、私達の信仰生活における鑑そのものなのだということ(メシヤ講座の中の「教・論・律」の考え方はこの部分から来ている)。

 

 

「メシヤ講座・特選集no.62(平成18年3月分)」より抜粋つづき:

教団帰一が自然に生まれる道

楳木先生:

こうした組み立てを積み重ねてゆくことが、後人の役割なのです。岡田茂吉教祖を戴く教団は、大きいもので十五教団ありますが、お互いがこうした取り組みを重ねてゆけば、やがて自然と一つになってゆく道が生まれると思われます。そうなれば楽しみなことです。」

 

編集後記:

責任者:

今回は、先ず「御教え」や「景仰」は読み違いをしたり、取り違いをしたりしない拝読を心掛けるということが大切なのだということ、そして「御教え」は、自らのまわりで起こる事象と、それに対する対処としての取り組みを重ねることを通して更に深く理解することができるのだということを学びました。

更に、私達が真の幸福を得てゆくには、メシヤ様が御自らなされたように“御教えの実践に努めるという生活を積み重ねてゆく”ということが大切なのだと学ばせていただきました。

そして私達がこのような組み立て(御教えの体系化)を積み重ねてゆくことによって、やがて自然と万教帰一に繋がってゆくのだろうと思わせていただきました。

今更なんですが、「御教え」や「景仰」の拝読は、本当に奥が深いものなのですね!

有難うございました。

 

※責任者より

引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。

 

引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。

メシヤ講座・特選集no.61(平成18年2月分)

メシヤ講座・特選集no.62(平成18年3月分)

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