「自転車の事故にご守護」

御陰話 山口県M.M. (昭和二六年八月二一日)

明主様、日々御守護を頂き、有難うございます。私は昭和二三年一月入信させて頂き、御神徳の忝さに日夜感泣して居ります。

私の頂きました数多い御恵みの内、特に記憶に新たな御守護の一つを、御報告させて頂きます。

忘れも致しません昨年の一〇月、私がまだS商業高校在学中(目下M外語大学在学)友人Aと授業の終了後、自転車で遊びに出かけ、途中傾斜二〇度位の坂で五、六百米位ある所にさしかかった時の事でございました。当時を振返って見ますと、全く身の毛もよだつ様な思いでございます。若い学生の常として、茶目気分も手伝ってAは自転車の荷台に掛けて居りましたのが、急に立ちあがりました。

私はびっくりして「若し巡邏(パトロール)にでも見付かるといけないから坐れ」と言いますとAは「いや平気だょ」といって聞き入れません。再三注意しても聞き入れず、私も困ってしまい、遂に怒って大声でどなりますと、急に私の首を締めつけました。ふと見るとその時丁度、 前方には野菜類を満載して牛車が通っていました。あっ危い!と直感しましたが、如何する事も出来ません。下り坂の上でしかも自転車に二人乗りスピードも加わって居ます。どうしようかと思いましたが、どうする事も出来ません。首にまつわりついたAの手は益々力がはいり、私は意識不明となってしまいました。急にふと気が付いてみますと、自転車は牛車の側面から衝突し、自転車は目茶目茶、二人共撥ね飛ばされてしまい、私は地面に 四つ這いになり、右手は後輪の寸前にあるではありませんか、アッ牛が?と思った瞬間「明主様!」と思わず心の中で御念じ致しました。牛は私の悲痛な気持も知らぬ気にゆうゆうと牛車を曳いていきます。夢中で明主様をお念じ申し上げ、再び目をつむりました。この間、実際に一秒か二秒だったでしょうが、私にとっては全く一刻千秋という言葉がありますが、千刻の思いでございました。後輪が完全に手を引き終った時、ハッと手に力を入れ、引込めました。

見るとどうでしょう、手頸の表にも裏にも何等異常は認められず、かすり傷一つないではありませんか。手を振って見ても、手頸を廻して見ても少しも痛みは感じません。ああ有難い!と思わずぐっと熱いものが胸にこみあげて来たかと思うと、熱い涙がぽろぽろと頬を伝って参りました。気が付いて見ると、Aは足腰を打ち、立ち上る事も出来ず唸って居るではありませんか。同じ条件の下に事故を起し、私は無傷Aは重傷を負ったのです。この歴然とした御守護に今更乍ら明主様の御神恩の広大無辺なのに感謝させて頂きました。

その時、Aに有難いお道の事を色々お話して御浄霊を奨めてみましたが、無神論者で頑固な彼は頑として聞き入れず、医者よ薬よと大騒ぎをし、治療を続けたそうですが、未だに完全に治り切らず弱って居るとの話を聞き、今更の様に身の幸福をしみじみと味合わさせて頂いて居ります。幸い今は夏休みでもあり、せめてこの期間中でも受けた御神徳の万分の一にも届きませんが、少しでも御報い申し上げたいと中教会に御奉仕させて頂いて居ります。御讃歌中より

讃へても称へ尽せぬ御恵に酬はむ術のなきぞ悲しき