『こんな眼病でも訳なく治る』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

眼病が治る実例は枚挙に逞ない程だが、左の御蔭話など実にハッキリしているのである。本教浄霊がこれ程素晴しい効果を挙げる事を知らない世間には、数限りない眼病の人達があり、これを見るにつけても実に居ても立ってもいられない程の思いがするのは勿論、若しこれ程の素晴しい効果が医学の方であったとしたら大問題である。早速医師会へ報告、新聞には二号活字でデカデカにかかれると共に日本医学の誇りとして世界的に発表するであろう。処がこれが宗教であるが故に、一顧だも与えられないのであるから、実に残念であるどころではない、その為不幸な人が教われず、日本の世界的名誉といってもいい位のこの浄霊法がいつまでも埋れている事である。これが本当の百千人の世の中で仕方がないが、先ずこの盲の眼を一日も早く開けたいものだと思っている。

併し絶対力を有たれる神様の事であるから何れは世界中に拡がるに決っているから、それを待てばいいので、何事も時節である。

 

御蔭話 静岡県T.H. (昭和二七年一一月一七日)

私の孫A(五歳)は生まれて間もなくから眼が悪く、二歳の時から医者通いを続けている内、いくらかの眼のヤニが、少くなつたかと思うと、今度は顔一面にオデキが出来るという状態をくり返している内、段々悪化して眼に薄雲がかかって来ました。そして医師から「梅毒性の眼だから中々容易に治らないので、転地でもして治療すれば良くなるかも知れない」と言われて今年の一月静岡に居る私のところに連れて参りました。

Aの父は東京新橋で酒商を営んで居りましたが、母は胸を煩い長らく入院して居りましたので不欄さは一入増し、どうしても私が治してやらねぱと、今度は一心に雨の日も風の日も厭わず丸六カ月静岡市の00病院通いを続けました。が、その苦労は容易なものではありませんでした。七月初旬一寸の明るさにも眩しがって眼を向けられず、私の背に顔をすりつけては泣く孫をおぶって病院から帰る途中親戚の者と逢いました。そして言うには「前々から奨めて上げたいとは思って居たが、する丈の事をしなければ諦めがつかなくて駄目だろうと思って、今日まで話さなかったけれども救世教の御浄霊を頂けば屹度良くして頂けると思うから」と色々治った実例や有難いお話を聞かせてくれましたので、矢もたても堪らず早速近くのYさんに御浄霊をお願いに上りました。Yさんは「沢山薬の入っている人は長くかかる事」と予め浄化の話をされ「その時迷ったり止めたりしないでお縫りする様にして頂きたい」と誠心こめてお話し下されました。そして一週間余り通っている内顔のオデキは段々かせて取れ、下痢があったり、びっしょり頭全体汗をかいたりして気持もおとなしくなり、大変良くなるのを見て喜びに溢れました。この子のお父さんもどんなに喜ぶか知れないと、励みに励んでお願いする内、丁度三週間目頃から三九度の高熱が続き、眼は全く固く閉じてしまい、折角綺麗になったと思ったオデキが又一層ひどく吹き出し、二、三度も着替えさせなければならない程の盗汗をかき、うわ言を言い、夜昼苦しみ通すのでその心配は一通りではありませんでした。一〇日程経ちましても薄目も開きません。近所隣からは見舞に来て「そんな事をしていては潰してしまう」と囃し立てられます。はては私の子供達までが私を気違い呼ばわりをするのでいたたまれず、どうなるものかとN先生をお願い致しました。先生に「眼だけはどうか潰さない様にして頂きたい」とつい御浄霊で悪くされたかの様な事を申し上げますと、先生はお笑いになって、いとも軽げに「八月の末には細目を開きますね。もう少しの辛抱ですからお纏りしなさい」と励まされ、その折Yさんばかりに頼って自分では少しも浄霊出来ない事を申訳なく思い、早速お守様を頂きますと今までよりは何となく心強く、もう少し頑張らして頂こうという気になって参りました。そして仰言る通り八月二七日の夜Aをおぶり庭を見つめていますと突然「あっ、おばあちゃん、あかりが見えた見えた」と庭に510うつる電灯の光線を指差してうれしがります。私も思わずうれしさに泣いてしまいました。それから一日一日御浄霊を頂く度毎にはっきりし、明るいところも平気で眼を開けて遊べる様になり、顔のオデキも全く治って生まれ変った様に綺麗にさせて頂きました。この様を見て近所の人々も唯不思議だと言って眺めて居ります。丁度三カ月経つた今日では眼の曇りも殆んど判らなくなりました。そしてAも子供のお守様を頂き、それは大事にしてみんなに御浄霊の有難い事を知らせて居ります。

明主様誠に有難うございました。拙文ではございますが薮にありの侭を御報告御礼申し上げさして頂きます。