御教え『霊主体従』

「世界救世教奇蹟集」 昭和28年9月10日

『現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触るる形あるものを対象として研究し、進歩したものであるから、あらゆる物象の表面だけが、ある程度分かったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要なある物に気づかなかったのである。このある物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名づけて霊という。この霊なるものこそ、あらゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、どれほど科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛 行的でしかない以上、正しい文化の生まれる筈はないのであるから、この事が明らかになって初めて、今まで不可解とされていたあらゆる問題も、容易に解決されるのである。何となれば、一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例をあげれば、人間が四肢五体を動かすのも、目に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。故に奇跡といえども本源は霊に起こり、体に移写するのであるから、この理をまず確認する事である。それには病気がもっとも分かりやすいから、これによって説明してみよう。

元来病気とは、肉体に現われた現象であり、結果であって、勿論本源は霊にある。即ち、最初霊の一部又は数ヵ所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、この曇りさえ払拭すれば治るのは明らかである。このように病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。しかもこの無知の結果、いかに多くの犠 牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。ところが喜ぶべし、ここに神の救いは現われたのである。即ち、この誤れる医学を革正すべき大任を、神は私にゆだねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。あらゆる文化面にわたっているのであって、今一つの例をあげてみよう。それは多く の犯罪である。これも病気と同様、表面に現われた結果であり、その病原は霊、即ち魂にあるにかかわらず、それに気がつかないため、これも医学と等しく対症療法、即ち刑罰をもって解決しようとしているが、これも一時的膏薬張りでしかないから、どれほど骨をおっても犯罪は依然として浜の真砂である。故にこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気づかねばならない。以上の如き二大事実によっても明らかな如く、原因は霊を無視するところにあるので、これを徹底的に知らせる手段としての奇跡である。』