資料「天津祝詞について」

 「天津祝詞は天津神が作られた」

(御教え、昭和24年12月20日)

「天津祝詞は何時頃、誰によって作られたものでせうか。又、言霊学上どんな意味がありませうか。」

『これはね、作られたのは神武天皇以前でとても古いんですよ。之は日本が素盞嗚尊に征服された頃作られたんです。そして天津祝詞は天津神が作られたんで、ま、大和民族の系統の神様ですね。この祝詞は非常に言霊がすぐれてゐるからいゝんです。大祓ひの祝詞ってのもありますが、この方は天津祝詞よりあとで出来たんです。』

 

(御教え、昭和24年9月3日)

『神武以前、素盞嗚尊に征服された時に造られた。神秘がある。これは天照大神の方で、大和民族系の神が造った。日本の言霊は優れている。つまり天系の神―天津神が造った。大祓は其後に造られた。素盞嗚尊は国津神である。(地系)』

 

「天津祝詞は、天地浄化の言霊」

(御教え、昭和25年4月26日)

『天津祝詞は、神式以前の言葉で綴ってある。浄める。天地浄化の言霊である。解説は殆どコジツケである。或程度解釈出来る。何れはなくなるものである。新しい祝詞形式のものが出来る。大祓祝詞は、素盞嗚尊が罪犯し、世を曇らしたのを浄めの言葉である。もう必要はない。』

 

「天津祝詞の意味」

(御教え、昭和23年7月21日)

『「高天原に神留り座す」神様が一杯いられる事とは違う。そこの地域の一番良い所をいう。

人間の高天原は天庭、天。腹は地の高天原である。頭の掛りと腹の掛りと相談し合っている。 前頭部は考える。考えるとか覚えるとかの働き。後頭部は喜怒哀楽、勇気は肚で、頭で指導し、実行するのは腹である。一町村では産土神、日本では伊勢神宮になる。之は少し落ちたんで、今日本では国の高天原はない訳であるが、あれを復興するか上げるかである。』

『 皇御祖、字の通りいえば皇室の御先祖、つまり大統領とか主権者、主脳者の先祖という事。伊邪諾尊である。

伊邪諾、伊邪冊尊は霊体の神である。伊邪冊尊、之は汚す方で、伊邪諾尊は掃除する方で、大浄化する。』

『「筑紫の日向の橘の小戸」之は土地の名で、九州であろう。神様は型で行かるる故、そこをすると全部を掃除する事になる。お浄めは、伊邪諾尊の御仕事である。』

 

『「命もちて」御命令で。「祓戸の大神等」その時に四柱の神が生れた。 みんな総動員で大浄化する。此言霊により、光が出て浄まる。兎に角、之によって霊界は浄まる。言霊の働きである。』

 

「高天原の意味と所在について」

(御教え、昭和24年6月27日)

「高天原は何県にあるのでせうか。御教示下さい。」

『高天原をタカマガハラといふが、マガの言霊は面白くない。アマが本当である。昔から学者が何処にあるとか言ふが、之は何処にでもあるのである。天といふのは、人間でいへば頭であり、部屋なら床の間、箱根なら神山荘、国なら伊勢の大神宮であり、天理教では大和である。つまり一番良い場所の事で、清い尊い所をいふ。 又、仏教なら高天原の事を都率天といふので、何処にあるといふのはおかしい。』

 

(御教え)

『高天原には種々な説があるが皆本当ではないので、実は凡ゆるものに高天原がある。人間でいえば頭、即ち之を天庭という。一軒の家では床の間になる。又床の間へ神様を祭り朝夕礼拝すればその床のある部屋全体が高天原になる。又一府県なり、一地方なりでもその一番清浄なる所が高天原で、それはこれから本当にそういう高天原が出来るのである。』

 

「光明世界」5号、昭和11(1936)年1月25日発行

『「世にタカマガハラ、と言ひますが、あれは間違ってをります。高天(タカアマ)と書いてあるんで、天と言ふ字をマガと言ふ事はない。天(アマ)の岩戸と言ふ様にアメとかアマとか読むのであります。何時の頃からか、マガと読んだのは邪神が、自分に都合のいいやうに、そう読ませたんだと思ふのであります。然らば高天原とは一体どこにあるかと申しますと、以前から、学者や宗教家達が研究してゐるんですが、今以て判らぬのであります。中には、希臘(ギリシャ)とか、又は印度のヒマラヤ山とか、又は日本の伊勢だとか、信州にあるとか言ふ人もあって、高天原争ひは、今以て決定しないのであります。

所が実は、高天原は、何処にでもあるのであります、小にしては人間の体内即ち心の中であります。頭と腹にあります。頭は天の高天原であり、腹は地の高天原であり、頭と腹は天地になってゐるのであります。心の中にも高天原があって、神仏を拝むといふ、此心が高天原で、信仰心のない人は、曇ってゐて、未だ高天原が開けてゐないのであります。「高天原に神留ります。」と祝詞にもありますけれど、信仰のある人の心には、確かに神様がおいでになるのでありますから、先づ人間は、心に高天原を築かねばならぬのであります。

一家にしますと、神様や仏様が祭ってある所が高天原であります。仏の方で極楽浄土、神道の方で高天原であります。観音様は、神仏両方面のお働きになりますから、極楽浄土にも、高天原にも、御出でになる訳であります。神や仏を祭ってないのは、その家には未(マ)だ、高天原がない訳であります、又一地方とか一町村の高天原は何処かといひますと、それは産土神社であります。

高天原に神集(ツド)ふなど言ひますがそれは土地の神々が、産土神の御社へ集まられる事で、人間でも、信仰のある人達が、その神社などへ集まる、特に昔はそういふ風に、何事も、神社(オヤシロ)へ集まっては相談をしたものであります。今は、産土様といふても、ほんの名前丈で、一年に一度祭礼の時、お神輿(ミコシ)の相談に集まる位のものであります。(後略)』

 

「神前結婚式の祝詞は・・・」

(御教え、昭和23年11月18日)

「神前結婚式の祝詞は天津祝詞でせうか善言讃詞でせうか。」

『 之は善言讃詞が本当です。天津祝詞は浄めであり、善言讃詞は浄められた後にいゝ世界が出来るといふ事ですから。勿論両方でもいゝですよ。献饌、玉串奉奠してから祝詞を奏上したらいゝ。玉串は榊か松ですが松がいいでせう。玉串は左手に幹右手に葉の方を持ち神様には幹の方を向ふにして差し上げます。左に幹が来て「一」の字になるのです。』

 

「葬儀の際は・・・」

(御教え、昭和23年12月8日)

「葬儀の際、帰幽した御霊(ミタマ)に上げる祝詞は天津祝詞でせうか、或は善言讃詞でせうか、又は両方上げるべきでせうか。」

『之は両方が本当です。が、神道には別にその為の祝詞があるからそれを上げればよい。普通は式が神式なら式のあとで天津祝詞、仏式なら御経のあとで善言讃詞を上げれば宜しい。この道の信者が集った時は皆で上げるのが本当です。』

「それは神様に上げるのでせうか、亡くなった御霊に上げるのでせうか?」

『神様ではなくて亡くなった霊に上げるのです。』

 

「霊的浄化の場合に祝詞を奏げる」

(御教え、昭和24年11月26日)

「天津祝詞を奏げて浄霊する場合及び  善言讃詞を奏げて浄霊する場合、如何なる病人、如何なる浄化の時に致しますか。御教示下さいませ。」

『普通は祝詞を奏げる要はない。霊的の場合に祝詞を奏げる。その時は天津祝詞は強い、善言讃詞は弱い。人霊は善言讃詞の方がよい。動物霊は天津祝詞の方がよい。』

(御教え、昭和24年6月3日)

「礼拝及び祝詞奏上に就て、一、霊的の病人に天津祝詞を上げてよいと承りましたが、祭事の際、御神体にも天津祝詞を奏上して宜しいでせうか。」

『よござんすよ、祝詞を上げて。それから拍手を打ってもいゝけど、もっと静かに打ちなさい、あるかないか位にね。あの強く叩くのは騒々しくていけない。信仰の深い人は静かに拍手を打つし、信仰の薄い人は強くやるっていふ――妙なもんですが、こういふ傾向がありますね。大勢で拍手を打つと大きな音になりますからね。矢張り、近所が稠密(チユウミツ)な所なんかでは近所の人の耳障りになりますからね、軽くそっと打つ様にしなくちゃいけない。そうするんなら打っていゝですよ。』

「二、霊的症状の時は天津祝詞だけで宜しいでせうか。」

『そうですね、――天津祝詞だけでいゝですよ。(後略)』

 

「龍神、狐霊には天津祝詞を聞かす」

御論文『狐霊に就て』、昭和24年9月25日

『(前略)よく狐霊が言ふには、法華経の読経を聞くのが一番好きだといふ。何故かと聞くと、神通力が増すからだとの事である。それに引き反へ天津祝詞を聞くのは一番嫌だといふ。それは苦しいからだといふが、之は誤りではない。何故なれば、日蓮宗の行者は狐を使ふものであり天津祝詞を聞くと狐霊は苦しみ萎縮するからである。』

「御垂示録」6号、昭和26年5月1日

『(前略)狐の場合は天津祝詞。善言讃詞は柔らかいから、祖霊の場合です。動物霊と、はつきり判らないが――感じで、龍神とか狐と思つたら天津祝詞ですね。御神前の場合はお願いしてやる。霊の手榴弾を投げつける様なものです。(後略)』

「御垂示録」2号、昭和26年9月8日

『(前略)霊的と言うと狐ですね。あの先生が天津祝詞を非常に恐がる。善言讃詞の方は軟らかいので、祖先の方が非常に喜びます。その区別は中々分らない。人間に聞かせるのは非常にいいです。浄まりますからね。』

「天津祝詞を人間に向つて奏上するのは、人間の方が上になるとの事ですが。」

『その人がそう言う判断をするんで、間違つてます。そうすると狐には幾度やつても良いですからね。そうすると狐の方が上になるかと言うと、そんな事はない。』

「動物霊等は、幽世大神様に――。」

『そんな訳にはいきません。動物霊は的はずれです。死霊ですね――人間のね。それは意味がありますがね。決して悪いと言う事はないが、必要ないのです。』