御教え『光の活動』

「光明世界」3号、昭和10(1935)年5月21日発行

私が書いた、御神体は、観音様が直接に、お拵(こしら)えになられると、言ってもいいのでありますから、この御神体の強い光に遇えば、一家の暗黒即ち曇は、どんどん解けて、明るくなるんで、実に簡単なんであります。

それで、一生懸命念じますと、その念願が、御神体を通して、観音様のところへ届くんであります。すると、観音様の家来は何億でもありますから、直ぐに家来に命じて、救われるのでありますが、事柄によっては、一瞬間に救われるのであります。又、御神体の文字なり、お姿なりが、観音様の御意志のままに、活動をするのであります。どういう訳かという事は、とても幽玄微妙なんで、口では、説明し難いのであり、又、たとえ説明をしても、人間は、今までの学問や、唯物的智識で固っている為に、非常に解り難いのであります。

ちょうど、アインス〔シュ〕タインの相対性原理が、判る者は、日本に一人か二人位しか無い、と言われるのと同じ様なもので、実に解り難いのであります。

霊界にも、縦横に、平面と立体が、層を成して、無限大から無限微に及んで「無限の速度」を以て「無限極」に活動をしているのであって、一次元、二次元、三次元、四次元所ではないのであって、これを本当に、説明するには、相対性原理よりも難しいと思うのであります。

これを識るには、観音の光に浴して、真に智慧証覚を磨き、不言不語の裡(うち)に覚る、つまり仏教で言う「大覚者」にならなければ、真相は判り難いのであります。いつか、金高さんのお宅に、掛っております「大経綸」という額の文字が、一つ一つ「大」の字から消えて、次が「経」の字、次が「綸」の字という風に、順々に消えては又、元へ戻り、何回も繰返すという話が、ありましたがこれは、その文字が、活きて働くんであります。大なら大の字が、額から抜け出るが否や「無限の速度」と、「無限の拡がり」と、「無限の活動」を起すのであります。

そして「大経綸」という文字通りの「意味の働き」を、東京、日本、世界という風に拡がって、霊的活動をするんであります。ツマリ無機的な文字が、有機的に化し、文字の意味通りな活物的意志が発生する、否、活物そのものになるのであります。

又、画像の観音様を、先日、ある婦人が礼拝しておりますと、眼搏(まばた)きをされ、眉毛を動かされ、口を開かれて、お笑いになり、歩行される所を、有々(ありあり)と拝まれ、大いに、驚かれたのであります。こういう事は、数限りなく日々(にちにち)に、あるのであります。こういう話をすると、そんな馬鹿な事があって堪るもんかと言われるに、決っておりますから、実に話が第三者の方へは、仕難いのであります。だからして、真の観音力の発現は、到底現在の人間の頭脳や智力では、想像も出来ないので、昔から観音力の事を、妙智力と言うてありますが、実際、妙と言うより言葉が無く、全く玄妙不可思議力なのであります。

さて、一軒の家に、まず「光の活動」が起きるとすると、その家の暗黒が、解けて行きますから、悪魔の活動力が、弱って行きます。

悪魔の弱るのと正比例して、悪い事が、段々無くなって行き、善い事が、増えて行きますから、自然自然に、一家は栄え、ついには天国になるのであります。ですから悪魔は、光を恐れる事、実にはなはだしく、先刻の松久氏のお話にも、観音様をお祭してから、借金取りが来なくなったと、言う事がありましたが、それは、金は貰いたいのでありましょうが、その借金取に、善からぬ霊が憑いているので、観音様の光が、恐しいので、来られなくなったんであります。ですから、観音様をお祭りすると、悪い人は段々来なくなり、反対に善い人が、段々来るという事になります。

こういう実例は、沢山あるのであります。又、強い光に遇う時は、悪魔の霊は、溶ける性質がありますから、恐ろしくて側へは、寄れないんであります。弱い光だと畏縮するんであります。そういう訳でありますから、光明世界を作るには、理屈や議論は後からでいいんで、まず第一に、御神体を、お祭りすれば、いいんであります。そうすれば、朝夕拝んでいる裡に、魂が、お光に照らされて、どんな悪人でも、不良でも、善道に立還り、どんどん救われて行くんであります。

それから一軒の家へ、観音様を祭り、信仰を熱心にしておれば、その家が救われるばかりでなく、黙っていても近親が、段々救われてゆくから面白いのであります。こういう事を見た時、その御霊徳の洪大無辺(こうだいむへん)なる事は、到底――言葉では現わせないのであります。

はなはだ悪口を言う様で、申訳がありませんが、徹底させるには、致し方がないので、他の宗教の事を、少々お話するのであります。今までの信仰は、一種の取引関係の様な事が、往々あると思います。信者の方では、これ程信仰するのに、どうしてもっと、御利益をくれないんだろうか、こんなに長く信仰していても、こんなに苦しみがあると言う様に、思う嫌いがある様でありますが、これは実際、不純な信仰でありますが、又止むを得ない、同情すべき点もあると思うのであります。罪があるから病気が治らぬ、その罪を除るには、これこれの事をしなければならない等と言われる事が、能くありますが、これらも一種の脅喝的であり、交換条件的で、面白くないと思うのであります。