御教え『本然の道』

「光明世界」3号、昭和10(1935)年5月21日発行

観音様を信仰すれば、病貧争が無くなるばかりでなしに、未だまだ重大な御蔭があるのであります。それは何かと云うと人間としての「真の道」が判るのであります。

あらゆる階級――あらゆる職業、すべての老若男女は、各々天から定められた「本然(ほんねん)の道」があるのであります。例えば、民は君に対し、国家に対し、忠の道があり、子は親に対し孝の道があり、親は子に対する道があり、夫は妻に対し、妻は夫に対し、自ら尽すべき事、行うべき道が、ちゃんと定められてあるのであります。そんな判りきった事さえ、今日は判らなくなっている、それが、はっきりと判って来るんであります。

判ると共に、強制されたり誨(おし)えられないでも、自然に行う人になるんであります。それが、いささかも、克己的でなく、進んで快く、行(や)ってゆけるのであります。

ここが実に、妙不可思議力であります。職業にしても、商人は商人としての、官吏は官吏、軍人は軍人、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家としての、それぞれ、天賦の道に適(かな)った行いがある、それさえ行っておれば、失敗もなく苦情もなく、必ず成功もし、栄えもするんであります。裁判所や、警察の御厄介になる様な事が、全然起らないのであります。折角、大臣になっても、市ヶ谷の別荘へ送られるような事はないのであります。

そういう事は、大臣は大臣とし、政治家は政治家としての、正しい行(や)り方が、ちゃんと規(きま)っているに関わらず、それを越えてしまうから、苦しむ事が出来るんであります。罪を造ったり、争ったり法律に触れたり、借金に苦しんだりするのであります。

天から与えられた道、定められてある範囲から、なぜ人間は、脱線するのであるかと言う事を、お話し致しますと、本来人間には、神より与えられたる本霊――即ち善霊と、動物霊たる副霊即ち悪霊と、この両様の霊が、必ず内在しておって、この両者が、絶えず闘争しつつあるのであります。随って副霊が勝った場合は、悪の行為として顕れ、本霊が勝った場合は、善の行為となるのであります。

かように、闘い争っている為に、反ってよく調和がとれて、種々な仕事が、出来て行んであります。ちょうど、自動車の運転と同じ様なもので、自動車は、左へも右へも行く故に、いかなる道でも、自由に走れるんであります。

しかし、いかなる場合でも、本霊が勝って行く事が、原則なんで、人間の本来の道なんであります。しかし副霊が勝てば、それが脱線になって悪となり、範囲を越えるから失敗をし、苦しみをする事になるんであります。それですから副霊は、悪でありますから、どこまでも人間を脱線させようと、絶えず骨を折っているのであります。

ところが、観音様の御光を与えられると、副霊は、弱って行く――副霊が弱くなっただけは、本霊が強くなって行きます。本霊の判断は、正しい判断でありますから、そこで、何事を行っても巧くゆく、間違いがないのであります。

一番面白いのは、お酒の好きな人が、私のところへ度々来られますと、嫌いになるんであります。それはなぜかと言えば、酒を呑ませる先生は、副霊でありますから、この副霊が、私の身体から放射する「観音光」の為に力が弱り本霊が勝って来るからで、その本霊は酒が嫌いだから、酒が不味くなってしまうのであります。

こういう様な訳でありますから、観音様を拝めばどうしても、いい方へ変って行くのであります。今日までの世の中は、人間の娯しみの大部分は、悪を娯しむ、――娯しみというものは、どうも悪に属するものが、多かったのであります。

それがつまり副霊が、勝って居るからであります。ところが、本霊が勝って来ると、善を娯しむ、善い事をする事が、とても面白いのであります。

かく善い事をする面白さを、本当に知った時は、あんなに面白いと思った、悪の娯しみは何とつまらない事であったんだろうと、不思議に思われて、来るのであります。こういう様に、悪の娯しみよりも、善の娯しみの方が、何層倍、上だという事が、判った人が、真に救われた人なのであります。しかも善の娯しみを、続けれぼ続ける程、そこに、健康と幸福が生れ発展があり、成功があるんであります。