資料「国常立尊様について」

『観世音菩薩の御本体』

「大光明世界の建設」、昭和10(1935)年9月15日

天照皇大御神は、主神の表現神で被在られ最尊最貴の御神格を具し給ひ、一あって二無き大神で被在られ、(中略)天地経綸上、国津神たる国常立尊に審判の権を与へ給ひ、同尊は幽界の主宰神として、閻魔大王となられたのである (後略)

 

『見神に就て』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

(前略)彼女「最初、先生が祝詞を奏上なさるや、自分の後の方からサーッという物凄い

音がしたかと思うと、私の横へ御座りになった御方がある。見ると非常に大きい人間姿で

髪を垂らし、白布(シロヌノ)のようなもので鉢巻をされてゐる。よく視ると、衣服は木の葉を

編んだ如きもので、その木の葉の衣服は五色の色に輝き、燦爛(サンラン)として眼もまばゆい

美しさである。御身は非常に大きく、座ってゐて頭部は鴨居に届いてゐる。その御方が自

分の身体へ入ると共に無我になった」--

というのである。実は私は最初「神じゃ」と言はれた時に、前々から神にも贋神があるといふ事を聞いてゐたので、警戒してゐたが--右の話によって贋神ではなく真正の神様である事を知ったのである。其後それが国常立尊という神様で、軍神(イクサガミ)の時の御姿である事も判った。国常立尊という神様は最高位の古い神様で、各所に祭られておらるるのである。

其後も私は此神様から種々の奇蹟を見せられ、且つ私に御懸りになり、種々の事を教へられ、御守護を受けた事も一再ならずであった。

 

「御講話」昭和10(1935)年7月1日

天照皇大神様は世界統治の権を天皇にお委ねされた訳で、皇祖の御遺訓として「豊葦原瑞穂国は我子孫の王たるべき地なり、汝皇孫ゆひて治めよ」といふ事は統治の権を授け給ふた事なんであります。

その他に救ひの権を与へられた。それが観音様で審判の権は国常立尊に与へられたそれで国常立尊は艮へ押し込められ、幽界に於て閻魔大王となられ審判をせられた

統治の権と救ひの権と審判の権を定められた。でありますから、お観音様は救ひの権をもたれ、どこまでも大慈大悲、善悪を問はず救はれる。此点は悪人も善人も同じ様に救はれる。丁度日月の光が遍ねく照るのと同じ事なんであります。その様に救はれる、それを大慈大悲といふのです。

国常立尊は善悪を絶対に立分け審判される。丁度閻魔大王と同じ事なんでこの点を明らかにしておけばよろしいと思ひまして、一寸お話致しました。(後略)

 

『宗教の根源と救世主の出現』

「観音講座㈡」昭和10(1935)年7月25日

地上の御経綸については、初め国常立尊が善一方の世界を出現させるべく御経綸遊ばされたが、余り厳格なりし為諸々の神様が非常に煙たがり反対された為に是は失敗し、いよいよ善悪二通りで進む事と今後なるのである。二千六百年以前神武天皇に御神勅ありて日本統治をなされた。

素盞嗚尊は西洋にてイスラエル民族を造られたのである。それがユダヤ民族であって、学問を以て世を開発することをお始めになられたのである。(後略)

 

『観世音の本体』

「観音講座㈢」昭和10(1935)年8月5日

aaaaaaaaaaaaa+-左守  国常立尊
天照皇大御神-+
aaaaaaaaaaaaa+-右守  素盞嗚尊

国常立尊は忠義というより、実に誠忠無比の神様で力のある神様である。

国常立尊が天下平定の御経綸を申附けられたが、最初は良く治ったが、余り厳格な神様故人民が窮屈になりし為、どうしてもやり切れん様になった。そこを見て取ったのが盤古神王の子天之若彦命である。この命が国常立尊を排斥する運動を起したのである。これに共鳴者が非常に多かった。そして盤古神王を押立てんとしたが、盤古神王は善良でおとなしい神様で力がないから、此の神を立れば楽が出来るからと、看板に盤古神王を立て、実権は天之若彦命が握り世界統治をやられたのである。此の為国常立尊は隠退遊ばされたのである。この御隠退は東北へなされたと成っているが、世界から見ると日本であり、日本からすれば東北である。日本の東北、即艮へ御隠退された為に此の神様のことを艮の金神と申上げるのである。日本の艮は何処か、北海道の芦別山に御隠退になられたのである。又一方幽界では閻魔大王となられたのである。神様は霊分身が御自由である為、幾柱にも別れることが出来るのである。(中略)

豊雲野尊は国常立尊の妻神様であるが、夫神様の犠牲となられ坤の方へ御隠退になられた。坤の方とは鬼界ケ島の事である。日本の西南に当る処である。此の神様が思兼尊様である。

又一方別れて木の花咲耶姫命になられて印度に行かれて釈迦となられたのである。木の花咲耶姫命の木の花は桜の花の事である。(後略)

 

「御講話」昭和11年(1936)1月21日

(前略)此大審判が始まると、滅びる人間がいくらあるかしれぬ。兎に角、一ケ国で何千万人、世界中で何億万人か判らぬ。そうして、之は新しく、何千年間の掃除をされるんであります。

之は、いつか話しましたが、昨年の九月に閻魔大王が此世に表はれられたとお話しました。その閻魔大王が総大将となってやられるんであります。之は天照大神様が国常立尊に審判の権を委ねられ、伊都能売之大神様には絶対慈悲を以ての救ひの力を与へられたといふ事になってをります。

それはそういふ訳で、国常立尊といふ神様は、非常に力のある神様で、寧ろ絶対の力をもつ神様であります。又、善悪に対して裁かれるのが、非常に厳重で一歩も仮借(カシャク)しないといふ神で、閻魔大王となられて、長らくの間霊界で審判をなさってをられたのです。所が、今度の大掃除に就て出現されたのであります。(後略)

 

「御講話」昭和25(1950)年8月1日

(前略)国常立尊はメシヤであられ、閻魔大王であられる。「神は此世の閻魔と現はれるぞよ」ともある。教祖は稚姫君尊である。梅の花は五弁、五月八日暁の大捕物で、私の仕事の一番重要なる所五ケ所を襲った。(中略)

メシヤといふ神は国常立尊といふ審判の神様で、之は永久的のものでない。或時を限られたお働きで、長い。

一厘の種はメシヤとは違ふ。神様のやられる事、計画は非常に深く絶対判らぬ。経綸は最高の神たる国常立尊様でも判らぬと仰せられる。経綸の主体は大彌勒の神で、此神が経綸の中心である。キリストや釈迦も全然判らぬ。必要だけの事しか判らぬ。神秘である。最高の神でも判らぬ。お筆先に「神界の事は判らないと思ふ人は判ったのである」と。(中略)

キリストはイエスより一千年前に生れたそれが再臨する訳である。キリストは救主で、罪の赦し主がメシヤで、日本でいふ国常立尊である。(後略) 

 

「御講話」昭和26(1951)年9月21日

(前略)ここに伊弉諾尊の子供で五人としてあるがもう一人ある。もう一人と言うのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。息子に国武彦尊と言うのがありそれが一番長男になる。当時大将軍と言い勇猛で可成り勝手な事をやって居たその罪によって言はば地獄に行かれた様な事になる。一番末が初稚姫尊と言い之が天理教祖の中山みき子となる。そうゆう様に幾度も生れ変ってゐる。大将軍の妹になる。そこで霊界で地獄と言っても普通の人間と違ひます。修行するんです。修行した結果大いに世の中の為になろうと言うので天理教祖の中山みき子に憑った。それで中山みき子に最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。そうゆう因縁なんです。(中略)

それからもう一つ書こうと思って止した事がある。今の稚姫君尊ですね。之がこの次に書きますがお釈迦さんですね。ですから釈迦、阿彌陀と言うのは伊都能売神皇が印度に行かれて観自在天と言ふ御名前になられ、霊は釈迦と阿彌陀となった。阿彌陀は素盞嗚尊です。そこで稚姫君尊は釈迦になる。そこで釈迦は変性女子と言はれたと言うのは稚姫君尊だから女になる。それで彌勒三会にあります「鐘の音」と言うのがありますが、三人の彌勒と言うのは釈迦が報身、報いると言う字です。阿彌陀が法身彌勒、観音は応身彌勒、之が三尊の彌陀になる。処が彌勒三会と言うのは大本教になる。大本教はその為に出た宗教です。大本教祖出口直と言う方は釈迦の稚姫君尊です。大本教のお筆先にあるが「直の御魂は半分は国常立尊、半分が稚姫君尊である」と言うのはそうゆう事です。出口王仁三郎聖師様この方が阿彌陀になる。それで自分は月の神様で、瑞月と言う名前をつけたんですね。(中略)そんな様な訳で、大本教の教祖さんが釈迦になる。そうして聖師さんが阿彌陀となる。そこの二人に生れたのが私です。私が応身彌勒ですね。この三人が会った。之は誰も知らない。私は知らせたくないと言うのは、大本教の信者がこっちに来て了うからね、だから書きたいが書かないんです。分ったら大変だからね、そんな様な訳で応身の彌勒と言うのは観音です。そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。つまり大本教は天理教と姉妹教になる。それで大本教では天理教の教祖を祀ってやってる。教祖さんの出口直の妹になる。で、その親が伊弉諾尊-国常立尊になる訳です。中々ここの処は不思議です。すっかり分れば何でもないが、中々ね。それで仏と言うのは神の化身です。化身と言う事は印度は大自在天が支配していた時、バラモンと言うのが印度ですから、そこに仏教を弘めなければならないと言うので、最初稚姫君尊と素盞嗚尊が行って仏教の基礎を作った、そこに伊都能売神皇が行った。それを化仏化神と言う。 (中略)

私が大本教に居る時、(中略)聖師さんから私に電報が来て直ぐ来て呉れというので行った。今羽藤が気違いになって私の処で治らないからあなた治してくれ、どうもあなたが原因らしいと言うので、兎に角会いましょうと言うので会った。皆がいる処では話が出来ないと言うので別間に行った処、普通の精神病とは違う、真面目です。私に御魂はこう言うんです。「私は世の中をもち荒した邪神の頭目じゃないが、邪神の頭目にすっかり瞞されて世の中をもち荒した。それでどうしても霊界に行かなければならない。そうして今迄の罪を贖罪しなければならない。然しあなたは霊界で長い間苦しまれていたが、私と交替になるのでしっかりやってもらいたい」と言うんです。気違いどころじゃない。つまり神様は気違いにさせて置いて知らせるんです。だから神様は中々うまい手段で知らせると思った。国常立尊が閻魔大王で三千年の間霊界で観てゐられた。それが今度出たお筆先に、今度は国常立尊が此の世の閻魔になり世の建替えを致すぞよと言うのがあり、建替とは審判です。だから今度は俺を使って国常立尊が審判をするんだと思った。

 

「御教え集2号」昭和26(1951)年9月11日

(前略)メシヤ教が本当に開くにも、東北の端からが本当なんです。それで、神様が腕を揮はれると言いますか、それが国常立尊と言う神様で、之は丑寅の金神で、その神様が之から腕を揮はれる。そうすると、やつぱり、丑寅の一番端からと言う事になる。それから段々西の方へ西の方へと行く。講演行脚もするし――そう言う順序で開いて行く。それが本当の開き方です。今迄は基礎的のものですね。(後略)

 

「御教え集16号」昭和27(1952)年11月6日

(前略)それで九州というのは大事な処でして、あれが一つの地球の型の様になっているのです。日本では九州、支那では満州ですが、之は非常に神秘があるのです。之は段々分って来ますが、そうして太平洋は腹になっているわけです。日本海の方は背中なのです。それから越後あたりが腰になる。それであれは「コシの国」と言うのです。それで何ういう訳で龍の形になったかと言うと、之は大本教のお筆先にありますが国常立尊が龍神になって働いた時が、日本と同じ龍の形”という事がありますが、之はそれには違いありません。そうして尾が北海道から樺太の方に繋がっているのです。それでソ連が樺太を取ったという事は、尾を一寸つまんだ、取ったのです。併し今に放さなければならないのです。(後略)

 

「御教え集31号」昭和29(1954)年2月4日

(前略)節分というものは“福は内、鬼は外”で、鬼の災いを避(ヨ)けるという、昔からの行事があるのです。そのために方々の神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話した事がありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。(中略)

事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。尤も三千年という事になってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違った事は許さないというために――大本教のお筆先などを見ると分りますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういう喧(ヤカ)ましい神様は押込めなければ楽はできないというわけで、押込められたわけす。押込めた方の神様は天若彦神というのです。これはよく天邪鬼(アマノジヤク)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、何んでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌(イ)み嫌(キラ)ったのです。尤も忌み嫌うわけです。人間の方が間違った事をすれば、そういう喧ましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけす。そうして鬼門除けと言って、いろんな事をやったのです。そういうわけで、三千年押込められたとしてあります。(中略)

その艮の金神という神様は、押込められて肉体の方は無くなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁く御役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直(シセイシチヨク)の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういう事を言ってました。それから心の善い人がゆくと非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これは面白いです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、“この世の閻魔”という事は、現界の審判をなされるという事です。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。“この世に現われて”というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、凡て現界的になるわけです。

では、それは何時かと言いますと、大体明治二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄って来るのです。それでいよいよ最後の段を済まして直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持って居れば有難いのです。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件が目茶々々(メチヤメチヤ)に現われて来ました。よくもそういった不正事件が出るという事は、今までに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったという事を現わしていると思います。それで、艮の金神様が表に現われるという事は、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明かるくなるのです。だから今まで隠(カク)していたり隠蔽(インペイ)していたものが現われるのです。目に見えるわけす。そこでいろんなそういう事が出て来るのです。(中略)

あっちの人が偉い、上等だと思っているのです。ところがナンゾ知らん、日本人が一番上等なのです。そこで、艮の金神様のお筆先にそういう事を非常に残念だという事が、よくお筆先にあります。ですから霊的レベルは、日本人は地平線より上にあるのです。日本人以外は全部下なのです。ところが日本人があっちの人を崇拝すると、やっぱり下に落ちてしまいます。ですから、これも――艮の金神様という最高の神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手な事をしている――「神も残念であるぞよ」という御言葉があります。それはそういう意味なのです。それがとに角現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関が救世教です。そこで救世教が今年からいよいよ世界的に知れて来るわけです。これは神様はチャンとそういうふうな仕組になってますから、そうなる事は分ってます。(後略)

 

「御教え集31号」昭和29(1954)年2月5日

(前略)最初大本教を開いた神様は国常立尊という神様です。この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押込められたという事になってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまり喧ましい……と言うよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他の沢山の神様が艮(東北)に押込めたわけです。その神様は三千年の間隠退(インタイ)されて、その間霊界に居て閻魔大王(エンマダイオウ)となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という事と「今度は炒豆(イリマメ)に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。

節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、その時に“炒豆に花が咲いたら再び出て来い。それまでは出られないように押込める”という事なのです。ですからしてあの豆まきという事はそういう意味なのだそうです。これは信じられない事はないです。ところが、それに対してお筆先には“今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ”というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それが何時かというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日に大変な神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という“艮の金神の世になりたぞよ”という事は、自分が世界の支配権を握るという事です。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様は凡て型でやり、型を見せるという事になってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。

(中略)その結果どういう事になるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるという御働きです。それがこれからはっきり現われて来るわけです。その点から大いに変るわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。ですから、つまり霊界が明かるくなるわけです。明かるくなるという事は、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。(後略)

 

「御教え集31号」昭和29(1954)年2月5日

(前略)ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠(クウバク)たるものでなくて、神格を得た人間が住んで居た時代で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違った事は許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様――八百万の神――から、その時分でも輿論が、どうもあんまり喧ましすぎてとてもやりきれない、だから押込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押込められたのです。それで艮(東と北の間)の或る地点に押込めたのです。そうして、再び世の中に出て来られないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出て来てもよい”と……尤も、炒った豆が芽を出すはずがないのですから……それを条件のようにして押込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向って越したり、いろいろな事をすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それで何事も、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。ところが事実は反対で、大変な良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういう事になったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。

そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならない事になるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と……出るについてはいろいろな……お筆先には三千世界の大芝居という事になってます。この押込めた系統の神様……総大将は天若彦尊という神様で――これはよく天邪鬼という事を言いますが――その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。その押込められた時には僅かな部下を連れて隠退されたが、それから命が無くなって、死んで霊界に行って、三千年の間閻魔大王になったという事になっているのです。お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」とあります。という事は、審判をされるという事です。今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするという事です。つまりもう悪は許さないという事になるのです。そのために大本教というものをつくったのです。私が大本信者になって、そういう事をいろいろ……表面的の事も、裏面━霊的の事もすっかり分ったので、大本を脱退して、観音教から救世教というふうにつくったのです。

お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」というような事が書いてあるのです。“三千世界一度に開く梅の花と言って、梅というのは非常に重要な事になっているのです。それで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。観世音菩薩は兄(コ)の花姫になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊都能売の神になるのです。これは兄の花姫と木の花咲爺姫とありますが、兄の花姫というのは兄(アニ)の花と言って梅になるわけです。梅が先に咲くから兄(アニ)の花になるわけです。それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。この場合は仏界のお働きで、木の花咲爺姫は観音様になるのです。富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。それであそこで絵姿を買う事になってますが、あれは桜の枝を持ってます。その富士山の木の花咲爺姫は頂上の真中に祭ってあります。頂上の上り口の右側にあるのが、久須志神社としてありますが、これは九頭龍権現と言って、木の花咲爺姫の守護神になるわけで、龍で守護しているわけです。これが最初私に憑った龍神です。それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。ですから兄の花姫は神様の働きになるのです。それで木の花咲爺姫は仏の働きだからして、最初インドに出られたわけです。ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそういう因縁になるわけです。

そこで今年の節分は、いよいよ艮の金神様がこの世の閻魔と現われるという最初になるわけです。ですから、これから審判が厳しくなるわけです。けれどもこれは最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまりだんだん育つようになって行きます。(後略)

 

「御教え集31号」昭和29(1954)年2月7日

(前略)古い時代に国常立尊という神様が世界を支配していたという事になっているのですが、その時分の事だから、世界と言ったところで全部だかどうだか分りませんが、まず日本を中心にして相当広範囲に支配していたに違いないのです。それで神様と言ったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終りぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢(ケガ)れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。それでよく「天神七代、地神五代」という事がありますが、天神時代というのは、天の神様……神道の方で言うと「天津系」「国津系」或いは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。大体日本民族は天系なのです。その天系だった頃は天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。それで、これは何時かも言いましたが、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、それよりか前に国常立尊という神様が支配されていたのです。その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しい事でないと許さない、というような事のために――これも神道の方にもありますが――大勢の神様が一致して押込めたのが節分の晩としてあるのです。その押込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押込めたとなっているのです。そうして、艮に押込めたからして艮の金神という御名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。

そうして節分の晩に豆をまきますが、“炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押込めてしまう”というわけで、それから炒豆をまいたのです。それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様が再びこの世に現われるその機関として出来たのが大本教です。ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」という事を教祖は獅子吼したわけです。最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違い扱いされて警察に留置された事がありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。それが明治二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、梅というのは、花は五弁になってます。これは五大洲を形取(カタド)ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くという事なのです。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。ところが今度は現界がそうなる。という事になったのは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言う事はできません。一年ぐらいは言う事はできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備していた事ですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるという事と、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」という事があるのです。というのは、御隠退になっている時は、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。閻魔大王というのは要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった……裁きの最高の地位です。ところが“この世の閻魔と現われた”というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。(中略)

それでこの節分から非常に浄化が強くなるという事を言いましたが、やはり合っているわけです。そういうようなわけで、今年から又非常に霊界が明かるくなるわけです。明かるくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しい事になります。(中略)

そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌(キラ)って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様という事になるからして、実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それで面白いのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまく時には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うという事は、人間が正しい人がなかったからです。大抵穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、若し方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常に盛んで、むしろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないという事は、そういう根本的の理由があるからです。

 

「御垂示録6号」昭和26(1951)年5月1日

「国常立尊と伊都能売の神との御関係に就いてお伺い申し上げます」

『つまり、国常立尊様の子孫と言う訳ですね。そうして位から言うと、伊都能売の神が上なんです。(親と子の例をおあげになられ)そうして自分が監督するんです。国常立尊の息子だからね。大本教の教祖様は国常立尊が憑られたんですね。時代はあるんです。国常立尊と言う神様は造物主なんだからね。その時は大国常立尊と言い、森羅万象を造られた。その次に人間となって、それが単に国常立尊と言う。その時に素盞嗚尊が――そう言う神様が生まれた。然し、そう言う神様は、伊弉那岐、伊弉那美尊からで、伊弉那岐伊弉那美は国常立尊の子孫です。天照天皇と言うのは全然隠されているんですね。(後略)

 

「御教え」昭和24(1949)年1月18日

 「立春の意義について御伺ひ申し上げます。」

『 節分は大体二月四日ですがね、その日で冬が終り、二月五日から春になるので立春といふのです。それから、昔、国常立尊といふ神様が輿論によって押し込められたのが節分の夜で、今度世に現れるのは立春の日だと云はれてます。之は大本教の方の説ですがこれは本当です。観音様の裏は国常立尊ですから。――といふのは、国常立尊は霊界で閻魔になったが、厳格一方の神様で善悪をきびしく分けられた。之では可哀想だといふ訳で仏に化けられたのが観音様なのです。だから観音様の御働きは大慈大悲で善悪を裁かず無差別に救はれるのです。御讃歌に「いかならん罪も赦(ユル)させいかならん罪も尤(トガ)むる天地の神」といふのはそれです。神様には半面がある。実篤の言葉に「神の如く強く、神の如く弱し」とありますがその通りで、神様には非常に強い面と、非常に弱い面とがあるのです。

 

「御教え」昭和23(1948)年2月28日

(前略)今迄は乙姫が財宝を握ってゐた。神様の話は虚々実々だがマンザラ作り話でもないんです。乙姫は物質に執着して竜になり、丹後の竜宮海といふ海に沈んだ。時期が来ると三寒三熱の苦しみにあひ、遂には国常立命にお詫びする様になる。国常立命とは以前世界の実権を持って居られたが、節分の夜鬼門の方に押し込められ艮金神となられた神様です。国常立命が伊都能売大神になる国常立命は霊界で閻魔大王になり、裁きの役をやるが、それが苛しくて可哀想だといふ事から半分は閻魔大王に半分は観音になる。神は厳格だが仏といふのは慈悲だから、伊都能売大神は、仏界で観音様になったんだ。即ち善悪無差別の慈悲である。本地垂跡説も今迄のは間違ひで、日本へ再び帰って来られて衆生を救ふことの意味である。神様は霊的に分裂する。精神分裂ではないがね。(中略)

 

「御教え」昭和24(1949)年4月4日

「観音様が逐次高い御位に御戻りになられるのと同様に、国常立尊も亦、逐次高くなられるのでせうか。」

『さうですね。之は確かにこの通りですよ。』

「さう致しますと、御名前も別になってゆかれるのでせうか。」

『之は仏と神様との違ひですね。神様の名前は変りませんよ。仏ってのは神様の化身ですからね。いろいろあるんですが、天照大御神ってのは昔も今もその御名前ですよ。仏様の方は神様が一時御働きを変へられてゐるに過ぎないんですから違ふんですよ。仏様はこれから神様になるんだから変る訳ですよ。観音様は特に救ひの為にいろいろな段階を経られる訳ですね。』

 

「御教え」昭和24(1949)年

(前略)『つまり、主神(スシン)の下に陰陽の神がこういふ風にあるんです。(御煙草三本で―〈の形を御示しになられる)こっちが善で、こっちが悪ですね。そうしておいて地上の経綸をなさるんです。だから「主神に善悪なし」で善悪無差別、正邪一如って言ひますがね、ほんとに正邪が判らないんです。所が、之一方だけぢゃ又いけないんで、はっきりと厳しく、善をすゝめ、悪をしりぞける面もなくてはいけない。そこで観世音菩薩っていふ御方は悪を咎めず、善悪無差別に救はれるんですが、観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、閻魔大王ともなられて審判をされるといふ厳正司直な神様なんです。つまり経(タテ)ですね。観音様の善悪無差別の方は緯(ヨコ)ですよ。その一方だけに片寄ると仕様がないんです。この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。』

 

「御教え」昭和24(1949)年5月23日

(前略)この至聖先天老祖っていふのはエホバですね、日本で言へば国常立尊になるんです。つまり最高の神様ですね。(後略)

 

「御教え」昭和24(1949)年5月23日

『妙智力ってのは観音力ですね。金剛力ってのは国常立尊といふ神様の力です。絶対力はつまり主神の力、至高絶対なものですね。それから大自然力ってのは絶対力が自然界全体に遍満した有様ですよ。』

 

「御教え」昭和24(1949)年9、10月

「観音様の御本体は国常立尊と伺って居りますが、その御関係について。」

国常立尊といふ神様は厳正至直で、いかなる間違ひも許さず、ずっと昔人間として御生れになり、死んでから閻魔大王になられたんです。然し、閻魔大王は裁きを司り、なかなかきびしくて、霊になったものゝ汚れを取って救って下さるんです。そうやって地獄を救はれるんですね。それが仏界に現れたのが観音様で、観音様は善悪無差別に御救ひになり、決して罪を尤(トガ)める事はなさらないんです。だから観音様の信者は決して人の罪を尤めちゃいけない、そういふ事をすると観音様の御意志と違って来てしまふんです。罪を尤めず、善悪無差別に救ふのが大慈大悲なんですからね。(中略)

国常立尊は裁きをなさるけど、人間がよくなれば裁かないんです。国常立尊は仕事がなくなってしまふ。まあ、何ですね、検事総長を辞職する様なもんですね。罪人があるから警察なんかゞあるんですからね。丁度、病人がなくなれば医者は要らなくなってしまふのと同じです。だから私はよく言ふんですよ、医学の発達なんて事はないってね。本当の理想は世の中から病人をなくしてしまふ事であり、従って医学がなくなってしまふ事なんです。然し、現在それが全く反対なのは医学がその天職を尽してない為か、或は医学の行き方が間違ってるからです。故に、医学は宜しく辞職したらいゝんですよ。』

 

「御教え」昭和26(1951)年5月20日

(前略)『飾り七五三縄の由来は、神代に国常立尊を艮(ウシトラ)へ押込め、その系統の神々をも押込め、再び此世に出られぬ様にという意味でシメを張つたものだという事になつている。その他柊(ヒイラギ)はトゲトゲしているから悪魔除けの意味、ぞう煮は尊の臓腑を煮て食うという意味で、小豆粥は血と筋を食う意味、又煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よという事等で鬼門を非常に恐れた。昔から良い事を反対に解した事は沢山ある。』(後略)

 

「御教え」昭和24(1949)年

「恵方詣りには大将軍を避ける様ですが、大将軍について御伺ひ申し上げます。」

『大将軍ってのは国常立尊の息子で、ま、長男ですね。○○(天理)教は大将軍が神懸ったと言はれてますが、それに違ひないでせう。大将軍は神代の頃は余り性質がよくなかったんです。今でいふドラ息子的だったんで、親父から勘当されてしまったんです。(笑声)然し、後になって改心していゝ事をしようとして開いたのが○○(天理)教だといふことですね。○○教ではこの事を知ってるかどうですかね。まあ、知ってゐたって言はないでせうね、値打ちがさがっちゃふから。(笑声)

で、大将軍ってのは国常立尊のあととりだから、やっぱりおっかない方の神様なんです。国常立尊は始終私を守護してくれてますし、それから又、観音様の御本体は国常立尊ですからね、だから邪神共が怖がって世に出ない様にしてるんですよ。新聞なんかゞ盛んに観音教を悪く書き立てゝるのもこの為なんですね。そして又、今迄鬼門が悪いといはれてたのも同様の意味ですよ。』

「大将軍の方角は三年づつとか申しますが――」

『いや、一年でせう。』

「朝鮮や支那でも大将軍といふ事を申す様ですが、これは同じでせうか。」

『えゝ、同じですね。』

 

「御教え」昭和25(1950)年3月18日

「国常立尊は現界に御出ましになられた由承りましたが、それでもやはり鬼門に便所や台所がありますのはいけませんでせうか。」

『これはね、艮から「艮の金神」の霊気が流れて来る訳ぢゃないんですよ。そういふ霊気が艮から発生する様に出来てるんです。つまり、地球の上の汚いものを浄化する気が艮から来るんですよ。だから矢張り鬼門はどこまでも清浄でなけりゃいけませんよ。便所や台所が鬼門にあるってのはいけませんね』。

 

「国常立尊のお働きの現在」年代不明

国常立尊は今迄は霊界で、閻魔大王になられ、審判の神様であった。厳粛な、善悪を差別し、悪人は承知せぬといふようなお働きで、善悪無差別で、慈悲を賜ふ観音様とは反対のお働きである。

国常立尊は、相当以前から霊界をやめて、外の神様に任せて、現界でお働きになられ、いつも私を守護して下さる。力のあるのは一番で、如何なる悪魔でも国常立尊には敵はぬ。お浄めなども、先に、力のある悪魔をする場合は国常立尊の御守護を願ふのである。鬼門の神様とは此神様で、悪神といい、鬼は外福は内などといふ鬼といふのも、此神様で、大本教でも御嶽教でも、此神様を祭っている。丹波の綾部地方では、「鬼は内福は外」といふ。綾部は国常立尊様の地場といい、昔はその御座所があった。

 

「天地律法制定の神と天若彦」昭和23(1947)年7月4日

一夫一婦制は国常立尊様がお決めになった。厳格な神様である。最初に之を犯したのが天若彦、之が世を乱したと書いてある。非常に女好きで、国常立尊を押込めた張本人で、世に天の邪鬼といふ。

 

「国常立尊と観音様」昭和23年

国常立尊は、神々より押込められた。厳格で悪を許されぬ。厳格の為に辛いといふ多勢が相談して御隠退を願った。そして霊界へ行かれて閻魔大王となられ、審判の役をされた。現界の罪を審判(サバ)かれる。 一方では救いの為化身され、仏界で救の業をせられた。観音行は決して人を尤めぬ。善悪無差別に救はれる。観音様の御言葉を守らず霊界へ行くと審かれる。

 

「御教え」年代不明

「北海道の芦別は観音様と関係がありますか。又、芦別の地方の神社は天照大神が御祭りしてあります。何か関係ありますか。」

『北海道の真中、中心になる。ここに北海道を支配する国魂の神があり、日本の真の艮は芦別の方角になる。芦別の山は国常立神様が御隠退になられたといふ。非常に厳格な神様で、地獄へ下りて閻魔大王となられ、仏界へ表はれて観世音になられ、悪人も善人も差別なくお救いになる。であるから、関係がある。観音様は日水土の神様であり、天照大神は日の系統の神様で、大日如来になられる。故に、御関係がある。』

 

「御教え」昭和24(1949)年5月23日

妙智力は観音力、観音の御力。金剛力は国常立尊の神の力。(強い力)絶対力は主神の力、至聖先天。大自然力は自然界全部へ遍満された力である。

 

「御教え」昭和23(1948)年

「天津神、国津神に就いて――」

『天津神とは天系の神で、神世に於て殆んど隠退されたが、今度はお出ましになる。 国常立尊は天系の神である。大本教のお筆先に「天より高く咲く花」といふ事がある。 国常立尊の半分が観音様になられる。それを産んだのが西王母で、之は阿弥陀の化身である。斯うもいえる。国常立尊が奇魂、和魂の如き慈悲の霊を以て観音様と現じ、人間を使って救いの業をなされたが、これは日本ではいけないので、印度でなされたといっていい。それで南海大士になられた。』

 

「御教え」昭和23(1948)年10月12日

「大将軍様と申す神様に付いて御説明を御願ひ致します。」

『之は神道でいふので、国常立尊様の御子様といふ事になっている。天理教では天の大将軍といふ。国常立尊の長男、行いがよくなく、後に悔改めて大将軍となられた。武を司った神。

お烏神社は稚姫君尊で、素盞嗚尊と恋愛に陥り、素盞嗚尊が朝鮮へ帰られ、恋しさのあまり烏になって行き会った。それを祭った。

 

「御教え」昭和24(1949)年5月12日

(前略)国常立尊は現界のお働きをなされ、おとなしい大国主尊が後継ぎになっている。之は二級程度の神で、全然交替ではない。審判さるるは国常立尊以外にない。

 

「御教え」昭和23(1948)年6月23日

(前略)金剛界は国常立尊が御支配せられている所である。金剛界とは国常立尊の神が出て支配される。その時に弥勒が出る。下生は下へ生れる事、下層階級へ生れる。これを下生といふ。真相を説く事は出来ぬ。

 

「御教え」昭和23(1948)年12月9日

神仏によって役目が違ふ。審判の神と救いの神と違ふ。国常立尊は審判の神、善悪無差別に救はるるのが観音様である。(後略)