滑稽阿呆文学『南無諦め宗』

「光明世界」5号、昭和11(1936)年1月25日発行

 

日進月歩の世の中も、阿呆の眼玉で睨んだら、辻褄(つじつま)合わない事ばかり、偉い御方が高慢な、顔して真理がどうだとか仏教哲理がどうだとか、四角い活字を並べたて、鼻をオヤかしチョビ髯を、捻って己は直々に、阿弥陀や釈迦から聞いた如(よ)な、事を偉そにぬかしたて、盲千人の世の中で、一端大家を気取ってて、巧く世の中渡ってる。利口な人が相当に、あるとは娑婆も広いもの、どんなに理屈を難しく、捏(こ)ねても詮じ詰めてみりゃ、南無阿弥陀仏の六文字を、称えりゃたとえ悪人でも、救われ往生出来るという、その上未来とやらへゆき、極楽浄土で暮されると、言うそれだけの話で御座る。

腰が曲ったヨボヨボの爺さん婆さんならイザ知らず、この世は火宅じゃ厭離穢土(えんりえど)、たとえ難病に罹ろうが、貧乏しようが悪い奴が、蔓(はびこ)り善人が苦しもうが、仕方なく泣く諦めるのが、本当の悟りで御座るとは、意気地なしにも程がある。こんな悟りが増えたなら、まずは印度の二の舞で、亡国思想というものじゃ。

こんなはかない信仰が、躍進日本に未だ以って、相当幅を利かしてる、とは厄介な話で御座る。

生来皮肉なこの阿呆、イカサマ物は一皮を、剥いでみたいのが好きな癖、依ってこれからチョッピリと、書いてお笑い草までに、御眼にかけると致すで御座ろう。

今から二千何百年、天竺とやらで生れたという、法蔵菩薩という御方、これが未来の阿弥陀仏、その御姿に金箔を、ピカピカ塗りたて拝ませる、ただ有難いの一点張り、御姿だけは勿体なく、有難そうであるけれど、魂は藻抜けの伽藍堂、それが証拠にゃ拝んでも、いくら御願したとても、病気は治らず一切衆生、救う所か肝腎の、大本山が親子争い、までするというその揚句、檀家の方からアベコベに、救われ給うという次第、まことに以て情ない、どう買被ってみたとても、現当利益はテンデ零そのテレ隠しに世の中の、現当利益の宗教は、インチキ邪教とは白々しい、こうなりゃどちらがインチキか、説明するより読む人の、御推量に任す方が、いともはっきりするので御座る。

いくら老舗(しにせ)の品じゃとて、役に立たない物を売る、方が余ッ程インチキじゃ、新店じゃとて気の利いた、便利な物を売る方が、確な店と言えるはず、まった未来で百万円、くれるというより現世で、一万両を貰う方が、ずっと結構では御座らぬか、こんな下らぬ事を言い、社会事業でお茶濁す、時代遅れの宗教は、インチキ宗を通り越し、トンチキ宗という方が合っているかも知れぬわい、現当利益は与(や)りたいが、持合せのない苦しまぎれに、現当利益はインチキじゃ、現当利益は欲しがるな、未来の浄土をアテにしろ、それが本当の悟りじゃと、ただ諦めの一点張り、これが見出しの南無諦め宗の、いわれ因縁かくの通りで御座る。

チット味噌かは知らないが、観音様は過現未の、三界万霊の救主、あの世この世の区別などと、吝臭(けちくさ)い事は仰有(おっしゃ)らぬ、仏の中の親玉じゃて、現当利益も極楽浄土も、両方満足したいという、御方はどしどし遠慮なく、さあ入らっしゃい、入らっしゃい。
(明烏阿呆)