御講話(昭和28年7月27日)

「御教え集」24号、昭和28(1953)年8月15日発行

昭和28年7月27日

医学については、分かるようにいろいろな説き方をしてますが、「医学革命の書」に出す原稿で、これはまた別の面から説いてみました。人によっては、かえって分かりよいと思って書いてみました。

御論文「科学で病気は治らない」

固苦しくて学校の教科書のようでしたが、少しおもしろいのを読ませます。

御論文「御守から出る光波」

これは科学的にいっても分かりますが、最初に読んだのにあった微粒子というものが、科学で証明できるといっても、科学の理論です。しかし理論でも、なお分からないことがありますが、それについてこれを読むと、なお分かります。

御論文「超科学」

これは大学以上の講義です。今読んだとおり、今の科学というものは実にお粗末なものです。他の科学はだいぶ進んでますが、特に医学に限っては、まるっき り子供瞞しくらいなものです。それに貴重な命を任せるのですから、その危ないことといったら、実にヒヤヒヤします。大本教のお筆先に“今の世は井戸の端に 茶碗をおいた如くで、危なうて神は見ておれんぞよ”とありますが、うまいことを言ってます。それで今の医学は黴菌説で、あらゆる病原は黴菌としているので す。それで黴菌というものは非常に小さいものと思っていますが、医学で見ているのは非常に大きなもので、まだまだどこまでも小さいものです。さっき読んだ とおり至大無外(しだいそとなし)、至小無内(ししょううちなし)というので、小さいも大きいも無限なのです。大空にたとえてみれば、大空の大きさという のは限りがありませんが、これは科学者も分かっているとみえて研究しませんが、しかし顕微鏡の研究のことを考えると、顕微鏡で黴菌を研究するというのは、 大空の囲いがどこかにあるに違いないと研究しているのと同じです。ただ黴菌の小さいのを発見すればよいと思って顕微鏡でやっているのですが、どこまで行っ ても発見されるはずがありません。それは大空の壁と微生物の小さいのと同じことなのですから、無駄なことを命がけでやっているのですから、もったいない話 です。つまり掌から出す光はレントゲンが通らないということは、光が細かいからです。レントゲンの方はもっと粗いのです。そうして力というものは細かいほ ど強いのであり、粗いほど力がないのです。ですから何馬力といって、馬力というのは、馬の力ですが、馬というあんなに大きなものの力ですから知れたもの で、それがだんだん細かくなるに従って強くなります。ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。それでレントゲンの方は粗いから して通すことができないのです。つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。だからうまいことを言ってますが、素粒子といって、「素」というの は粗いということです。素粒子というのは細胞の小さいものです。それで物性子というのは、物の性質の原になるもので、これは目に見えないものです。これを 見ようとして実験科学をこれからやるのですが、これをつかまえることはできようがないのです。だからどうしてもこれをつかまえるには、顕微鏡で見えない世 界にはいるよりしようがないので、その世界というのは宗教の世界です。この宗教の世界といっても、今までの宗教というのがごく下の世界なのです。だから今 までの宗教は科学よりかもっと粗いのです。科学が素粒子を発見したとすると、今までの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。なぜといって、各宗教 では今病院を造ってますが、ということは、もう科学にお辞儀をしているのです。科学との戦いに負けているのですから、負けた方は粗いのです。つまり宗教の 方は素粒子まで行ってなかったのです。結局科学との戦いで、科学が今までのように進歩してないうちは、宗教の方が勝ったのです。昔からの古い宗教はとにか く多くの人を救えたのです。

ところが今は宗教の方が力がなくて科学の方が力があるから、そこで無神論者が増えるのです。それは科学をやれば無神論者になります。科学を勉強した人だ と無神論者になりますが、それはそうなるのがあたりまえです。そこで科学をやっつけられるのは救世教よりないのです。これは素粒子よりずっと細かいので す。レントゲンで通すことはできないのです。それでレントゲンの光線を作るのにたいへんな苦心をしてます。先日新聞に出てましたが、レントゲンを扱ってい る技師は、何十年とやっていると、レントゲンのために命までがなくなっているのです。とにかく四十年やれば駄目だと言われてます。そういうように命がけで 作る光線より強いものですが、それをさっき読んだとおり裸で七秒間で書いて、レントゲンより以上のものを作るのですから、こっちの方は、ちょうど軍備で言 えばアメリカと朝鮮よりもっと違います。そこで科学でも哲学でも、ちょうど今は物性子、目に見えない世界の手前に来ているのですから、どうしてもその先を 分からせなければならないのです。それでこの論文ができたら湯川博士に送ってやろうと思ってます。湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、結局科学も 窮極は神だということを言っている人ですから、割合に分かると思いますが、そうかといって、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、体面上具 合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、これからの窮極に対するヒントを与えるということになりますから、よけいな無駄をしなくて すむわけです。そのヒントを得るということはどういうことかというと、研究を変えるということです。しかし研究を変えるということは、医学は科学では駄目 だということです。他のことは科学で結構なのです。いろんな機械にしろ、原子科学とかはどこまでも進歩させなければならないのです。ただ人間は他の物質と 違うということが科学ではまだ分からないのです。というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすということは、人間以上の力を 持たなければできないのです。ところがそこらにある物質上の発明、電気や動力というものとは、ぜんぜん段が違います。ところがそういうものと人間の体、人 間の病気、生命を同じに見ているところに、たいへんな間違いがあります。その認識さえできれば、科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやればそ れでよいのです。そして救世教の浄霊ですが、浄霊で治すということも、ある期間までです。つまり浄霊とは薬毒をとる方法ですから、薬毒を入れないようにな れば浄霊の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえ分かればよいのです。と言ったところで、そう簡単に薬毒を抜くこともたいへんです。あなた方 が疥癬などで随分膿を出して、もう毒はないと思っても、それからまだまだウンと毒が出てくるのです。それはどんな人でも、自分であきれるほど毒が出てくる ものです。私などもそうで、ここ(側腹)に固まりがあって始終浄霊してますが、これが五十年前の肋膜の薬毒です。それから始終頭が痛くなりますが、これが 三十七年前の歯の薬毒です。ですからどんな人でも薬毒をとるとしても、一生涯でとりきれる人はまずありません。三代目くらいでようやくとれるくらいです。 すなわち薬が毒であることが分かってから、孫の代になってすっかりなくなるくらいなものです。しかしすっかりとれなくても、働くのに差し支えないくらいに 健康になればそれでよいです。私などもそんなに毒がありながら、ふつうの人より健康で働いているのですから、そう悲観することもありません。そこでこれを 知らせ信じさせるのが大仕事なので、それが救世教の第一番の仕事なのです。

それで今言うレントゲンを通さないすばらしい光が簡単な文字から出る、その元はいったいなにかというと、これも意外な所にその元があります。その元は太 陽の黒点なのです。太陽の黒点というものが宇宙の中心で、力の根原です。それで太陽は非常なたいへんな熱い光ですが、この光の元というのは太陽の黒点にあ るのです。ですから○ヽ(ス)のヽは黒点を書いてあるのです。これは黒点といっても一つではないのでたくさんあります。望遠鏡で見るとたくさん見えます が、この粒々がたいへんな意味がありますが、それはいずれ発表することがあります。またこの粒々が救世教の仕事に非常に関係がありますが、そういうことを 言うと、あまり飛躍し過ぎて、フラフラになってしまいますから、分かりやすい程度の話をするわけです。そういうようなわけで、黒点というのはあらゆるもの の一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。ですから一切を支配しているのです。それから宇宙の中心と言ったらよいでしょう。それで太陽の熱度とい うものはたいへんなものです。ところが滑稽なことは、このごろ日本でもそういう会ができるようですが、宇宙何々会というのがあって、これの最終の目的は月 の世界に行くことだそうですが、月の世界は学者には本当に分からないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。だからロケッ トを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。月の世界というのは氷の固まり ですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分かりません。ぜんぜん熱がないのですから、もし行けたとしても、 行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍りついてしまいます。そういう馬鹿げたことをまじめになって研究しているのですが、ちょうど今医学者が薬で病気 を治そうとして研究しているのと同じことで、テンデお話になりません。だからとにかくさっきも読んだように“未開人と同様だ”ということは本当に間違って はいません。ありのままを書いたわけです。そういうことも、そうつき詰めるほどのことも必要ありませんが、大体を知っていれば、場合によって恐ろしいこと も、科学の進歩にのぼせている人を相手にした場合にも、本当の根本を知っていると、へこます道具によいと思って話したわけです。これからだんだんに書きま すが、そうなると宗教とか科学とかいうのでは限られます。大体宗教というのは宗祖の教えです。人間はよいことをする、悪いことをしてはいかん、親に孝行を 尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。それはやはり神様があって、神様の教えに基づいてのそうい うやり方をするのですが、ただ神様といっても、今までは最高の神様は出なかったのです。二流、三流の神様です。それで科学に負けるようなことになったので す。だから釈迦、キリスト、マホメットといったところで、私からみればまだまだ小僧くらいにしか思いません。今度の歌に書いてあります。そういうことを言 うと、知らない人が聞くと、あんまり大き過ぎるので、誇大妄想狂で頭がおかしいと誤解されますが、信者はただ知っていればよいのです。

話は違いますが、このごろ信者の女の人で化粧品をだんだん使わないようになってきました。ところで化粧品中毒がいかに恐ろしいかということをちょっと話 してみます。今日来ているかもしれませんが、その人は歯がグラグラするのですが、これは歯医者に行けばすっかり抜いて総入れ歯というところです。この原因 はどこにあるかというと、この人は顔に始終熱があるのです。浄霊して熱をとるのですが、なかなかしつこいのです。この熱がとれるに従って歯が締まってくる のです。この熱というのが化粧品中毒です。よく昔から逆上(のぼせ)症と言いますが、これは逆上というのですから、血が下から上るように思いますが、そう ではないのです。昔は昔でオシロイをつけます。これは鉛毒と言って鉛が元になってます。これが皮膚からしみて行って、皮下の中毒になって、そこに浄化が 起って熱が出て、それで顔が熱くなり、逆上せるというのです。これは男にはないので、ほとんど女です。これは昔のオシロイ中毒です。今はクリームとかいろ んな物ができて、それにいろんな新しい薬を入れるために薬毒が強くなってます。それに舶来の物は大いに薬を使います。よく新聞の広告に、アメリカではやる 化粧品とか言ってますが、薬毒のあるのを知らないから、日本人はアメリカ製ならきっとよいのだろうと、ありがたがって高い金を出して使いたがりますが、と ころが今アメリカでは、女の顔が荒れるというので、たいへんな問題になっているそうです。荒れないようにと思いつつ、ますます強い薬を使って逆をやってい るわけです。やっぱり肺病の薬と同じことです。ところが実際において化粧品をやめると、一時は真っ黒な渋皮みたいな顔になりますが、それを我慢すると、そ れは非常にきれいな顔になってきます。本当の肉色になります。それに信者は血がきれいになりますから、よけい自然の美が現われるわけです。もっとも今の人 は顔ばかりでなく、体にも薬を入れるから、そのために顔が汚くなったり、色が悪くなってます。だから化粧品を使わなければならなくなるのです。そして一番 顔色が悪くなるのは漢方薬です。顔の青い、艶気のない、カサカサした人に聞いてみると、必ず漢方薬をのんでます。それから女で真っ黒な顔の人は漢方薬中毒 です。その点においては西洋の薬は顔色にはあまり影響しません。ただ西洋の薬は顔がカサカサになるのです。だから今の女の顔というのは必ずカサカサしてま す。滑(すべ)っこくありません。そこで化粧品をすぐにやめろとは言いませんが、だんだん少なくして、ある時期に行ったら、大いに勇気を出して全廃するこ とです。そうすると第一、この中毒が抜けると化粧したよりかきれいになります。それからあらゆることが非常にプラスになります。化粧品代はいらないし、そ れから時間が節約になります。特に若い人などのこれに対する時間というものはたいへんなものです。それこそ少しお洒落な人は二時間や三時間はなんでもあり ません。これは一種の執着です。しかし、これもはっきり話さなければ分からないが、花柳界にいた人はそういうことはなく早いです。素人に限って遅いので す。それは花柳界にいた人は営業上お座敷がかかってくるとすぐに行かなければならないので手早いのです。ところがそうでないお嬢さんとか、少しお洒落な人 になるとたいへんなものです。それから外では、劇場などで便所に行って、少し長いと思っていると、手洗い所でこうやっているのです。だからそういう人に芝 居などを見せても、最初の幕などはちょっと分からないでしょう。始終中途ばかりを見ていることになります。そういうようで、ただ化粧をやめると顔が汚くな るという一つの迷信があるために一生懸命にやってますが、そうではないということを教えるわけです。この中毒がすっかりとれると、前に化粧していた時より きれいになります。それを知ったら安心して化粧迷信から逃れるようにすることです。これも一種の救いの一つです。