御教え『日本人種の霊的考察(上、中、下)』

『日本人種の霊的考察(上)』

昭和26(1951)年3月25日発表

此問題を説くに当たって断っておきたい事は、以下の所説は史実にもない事柄ばかりであるから、その心算(つもり)で読まれたいのである。然(しか)し日本人なら、是非知っておかねばならない事なので、茲(ここ)にかいたのである。それなら何故今迄にかかなかったかというと、何しろ事柄が事柄なので、終戦前迄は誤解され易い点が多々あるのでかかなかったのである。

そうして先ず、日本の神代史から検討してみる時、周知の如く、殆(ほと)んど神話的御伽噺(おとぎばなし)的で、常識では到底考えられない事が多いのである。人も知る如く、天照大御神が最高最貴の神とされており、而(しか)も日本天皇の御祖先ともされており、日本に於ける神宮中の、最高の神位として伊勢神宮に鎮座されているに見ても、如何に崇敬されていたかが肯(うべなわ)れるのである。

之に就(つい)て色々の説があるが、其(その)中の比較的真を措けると思う説は、大神は最古の時代から丹波の国元伊勢という処に、鎮座しておられた処、今から千百年以前、現在の伊勢の山田に遷宮されたというのであるが、其時大神の神霊を御輿(みこし)に遷(うつ)し参らせ、数人の者が担いで元伊勢の外れに流れている、五十鈴川という川を渡らんとした時、急に御輿が重くなり、どうしても渡る事が出来ず、引返して元通り鎮祭される事になったというのである。処が、不思議にも其時から同神社の後を流れている谷川の、数丈上にあった三間四方位の角形の大石が、突如落下し、谷川の岸の辺に行儀よく座って了った、之を御座石(ございし)と名付けて今尚そのままになっているのを、私は先年元伊勢参拝の折見たのである。又その直ぐ脇に相当大きな洞穴(ほらあな)があるが、之は岩戸という名だそうで、之も面白いと思った。

次に神代史によれば、初め伊弉諾、伊弉册尊の御夫婦の神が、天照大神と申す女神を生み給い、ついで神素盞鳴尊という男神を生み給うたとなっている。そうして天照大神に日本の統治を任ぜられ、素盞鳴尊に朝鮮の統治を任ぜられ給った事になっている。斯ういう訳で天照大神は女神であるに拘わらず、天皇の御祖先となっておるばかりか、蛭子命(ひるこのみこと)という男児まで生み給うたとの史実もあるが、これが本当とすれば、どうしても夫神がなければならない筈である。然し今日迄それに疑いを起した者もないし、此謎を解こうとする者も勿論なかった。尤も終戦以前は、其様な批判をするなどは不敬に当るかも知れないので、誰も触れるのを恐れた為でもあろうが、今日となっては、そういう懸念もなくなったから、私は茲に筆を執ったのである。

 

先ず古代史によれば、天孫民族は天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)を擁立して、九州の一角高千穂の峰に天降られたという事になっていて、其御孫神武天皇、又の御名神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)の代になり、尊の御歳四十五歳の時、東夷征伐の軍を起こしたのである。之は史上明かな如く、最初先ず大和に軍を進めて、干戈(かんか)を交えたが皇軍利あらず、而も皇兄五瀬命(こうけいいつせのみこと)は討死された等で、天皇は敗戦の原因を、東方即ち日に向った為として策戦を変え、大きく迂回(うかい)して、今度は日を背にし、西に向って進撃する事となった処、果して勝つには勝ったが、敵を降伏させる迄には至らなかった。というのは当時敵の本拠は、大和より程遠い出雲国であったからでもある。勿論其処は出雲朝と言って、当時の日本全土を統治していた中心で、恰度今日の東京と同様、中央政府の所在地であり主権は大国主命が握られていた。

そのような訳で天皇は、勧降使(かんこうし)を二人迄遣したが、第一の使者は目的を達しなかったので、第二の使者を遣したが、之も又失敗に終った。二回迄も失敗したというのは、どういう訳かというと、敵の採った手段は、酒と女で骨抜きにして了ったからである。之を知った天皇は大いに怒り、今度は必勝を期して、最も強行手段を採った。即ち陸軍の総大将としては建甕槌命(たけみかづちのみこと)、海軍の総大将としては経津主命(ふつぬしのみこと)を選び、陸と海から挟撃しようとしたので流石の大国主命も大いに驚き、戦わずして降伏のやむなきに至ったのである。其結果国土奉還という事になり、日本の統治権は、茲に全く出雲族から天孫民族の手に移ったのである。之は余談だが、二代の綏靖(すいぜい)天皇の皇后として、大国主命の息女を娶(めと)はしたという事になっているが、察するに大国主命は将来を慮(おもんばか)り、両者の融和手段として執った結婚政略であった事は言うまでもない。

今一つの面白い事は、右の建甕槌命は、大きな軍功により、死後鄭重に祭られたのが、彼の茨城県にある鹿島神社であって、日本の神社としては最古のものである。処が後代に及んで、武人が戦争に赴く場合、命を尊信の余り、必ず此神社に詣でてから出立したので鹿島立ちと言う言葉が、できたという事である。茲で注目すべきは、此時の統治権変革が因をなし、後に到って両者の天下争奪戦が起った。之が戦国時代の始まりであるが、此事は霊界の動きであるから、人間には判らない。人間は只表面に現われた経緯(いきさつ)を歴史としてかいたに過ぎないもので、それが先般の終戦時迄続いたのである。従って私は霊的事実を基礎とし、現界の事象を證拠として照合せつつ筆を進めてゆくのであるから、先ず正鵠を得ていると言ってよかろう。

茲で最初に戻るが、前述の如く天孫人種が天から天降って高千穂の峰に暫(しばら)く屯(たむ)ろしたという事は、余りに馬鹿々々しい話で、荒唐無稽も甚だしいと言わねばならない。而も神武天皇の父である鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の、其又父である天孫瓊々杵尊が、伝説の如く天照大神の勅命によって、此国を治めよとの事であるとしたら、之も可笑しな話になる。というのは若(も)しそうだとすれば、それ迄の統治権は天照大神が掌握されていた事になる。すれば天照大神はそれ以前の主権者から受継いだ訳になるが、それ以前の歴史は漠として判らない。今一つは瓊々杵尊いう御方の出生地も経歴も、又何故主権を譲られたかという理由も全然不明になっている。尤も天降ったとしたら何をか言わんやであるが、そればかりではない。最初にかいた如く神武天皇以前の日本の統治権を握っていたのは、大国主命であったことは確実であるから、天照大神が瓊々杵尊に主権を与えたという事は理屈に合わない話だ。若しそうだとすれば神武天皇は既に統治権を譲り受けている筈であるから、出雲朝に対し国土奉還など要求する必要はない事になる。でなければ何れの日か余程以前に、素盞鳴尊に統治権を委任されたか又は強奪されたかの何れかで、其点も全然不明である。それに就て最も確実性のあるのは出雲朝の歴史であるから、それをかいてみよう。

私は先年出雲へ参拝の折、同神社の裏手の海岸に日の御崎という処がある。神官の説明によれば此処から毎年十月初め神様は故郷にお帰りになり、一ヵ月を経てお戻りになるとの事である。之でみれば出雲の神様は日本生え抜きの神様ではなく、外国から移住された神様に違いない。昔から十月を神無月と言っていたのは、右(上記)の行事によったものであろう。そうして大国主命の父親は素盞鳴尊になっている。古事記によれば素盞鳴尊は、朝鮮の曾尸茂梨山(そしもりやま)へ天降られた事になっているから、朝鮮に生誕された神様である。そうかと思うと伝説にもある通り、出雲国簸(ひ)の川上に於て、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し櫛稲田姫(くしなだひめ)の生命を救うと共に妻神として迎え、夫婦生活をなさるべく、今日の出雲神社の位置に、須賀宮という新居を作られた尊は、新築の家へ初めて入居された時、「あなスガスガし」と仰せられたので、須賀宮と名付けられたという説もある。そうして余程琴瑟(きんしつ)相和したと見えて、其気持ちを表わすべく詠まれたのが、彼の“八雲立つ出雲八重垣つまごめに、八重垣作るその八重垣を”という歌で、之が三十一文字の嚆矢(こうし)という事になっている。としたら和歌の先祖は素盞鳴尊となる。

又、単に素盞鳴尊と言っても、三つの神名がある。神素盞鳴尊、速(はや)素盞鳴尊、竹速(たけはや)素盞鳴尊であるが、私の考察によれば右(上記)の順序の如く、三代続いて次に生まれたのが大国主命であろう。茲に注目すべき事は、出雲神社では古くから今日に至る迄不消(ふしょう)の火と言って、燈明を点け、其灯を移しては取変えて、今日迄決して絶やさないそうである。それを二千年以上続けてきたという事は、何か余程の意味がなくてはならない訳で、考えようによっては、再び復権する日迄血統を絶やすなとの意味かも知れないと想うのである。

之も余談であるが、大国主命に二子があった。長男は事代主命(ことしろぬしのみこと)、次男は建御名方命(たけみなかたのみこと)である。処が長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗した為、追われ追われて、遂に信州諏訪湖の附近に迄逃げ延び、湖に入水して、あえない最後を遂げたという事で、それを祭ったのが、今日の諏訪神社である。

茲で、話は又最初に戻るが、右(上記)の数々の史実は、神示によれば斯うである。初め神素盞鳴尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。処が当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇(いづのめしんのう)で、此神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。先ず、大和民族の宗家(そうけ)といってもよかろう。処が、大和民族の性格としては、闘争を極端に嫌い平和愛好者なるが為、素盞鳴尊が武力抗争の態度に出たので、無抵抗主義の為生命の危険を慮り、海を渡って某国に逃げのびたという事である。それで後に残ったのが御世継である天照天皇と其皇后であったが天皇は、或(ある)事情によって崩御されたので、皇后は其大権を継承される事になったが、事態の切迫はやむなく素盞鳴尊の要求に応じない訳にはゆかなくなり、一種の講和条約を締結したのである。其条件というのは、近江琵琶湖を基点として、西は素盞鳴尊が領有し、東は天照皇后が領有するという事になった。之が古事記にある天ノ八洲(あまのやす)河原の誓約(うけひ)である。今日琵琶湖の東岸に野洲という村があるが、其処であろうと思う。何故其様な講和条約を作ったかというと、素盞鳴尊が一旦国土平定をしておいて、次の段階に進もうとする予備的前提条件であって、結局日本全土の覇権を握るのが狙いであった。というのは当時と雖(いえど)も一挙にそうするとすれば、国民の声がうるさい。今でいう、輿論が承知しなかったからであろう。そんな訳で、時期を待っていた素盞鳴尊は、機を得て遂に萌芽を表わすに至った。即ち天照皇后に対して、日本の東方の主権をも渡すべく要求すると共に、若し応諾せざれば皇后の生命をも脅かすので、茲に皇后は決意され、潔ぎよく全権を放棄し、僅かの従臣と共に身を以て脱れ、逃避の旅に上ったのである。之を知った尊は、尚も後顧の憂いを断つべく、追求が激しいので、逃れ逃れて遂に信濃国の、今の皆神山に居を定められたのであるが、此処でも未だ安心が出来ず、山深く分け入り、第二の居を定められたのが彼の戸隠山である。昔から岩戸開きのとき、扉が飛んで此山に落ちたという説があるが、それを暗示したものであろう。

又話は別になるが、天孫瓊々杵尊が、日本へ渡来したのは、素盞鳴尊の渡来より余程後であったらしい。そうして瓊々杵尊は支那周代中期の英雄であって、此尊の先祖は有名な支那の天照大神ともいうべき、盤古神王という日の系統の神様で、一名盤古氏とも言われている神人である。そこで尊は当時の日本を観た処、主権は已(すで)に素盞鳴尊の手に握られていたので、機を待つ事にしたが、其機が来ない内に崩御し、遂に三代目の偉人、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)によって、目的が達せられたのである。

 

『日本人種の霊的考察(中)』

昭和26(1951)年3月25日発表

そこで愈々(いよいよ)神武天皇の御代となり、四隣の平定に取り掛ろうとしたが、当時各地に蟠踞(ばんきょ)していた土匪(どひ)の豪族共が、中々の勢力を張っていたので、天皇の軍に対し反抗的態度に出でたのは勿論である。彼の歴史上にある八十梟師(やそたける)、長髄彦(ながすねひこ)、川上梟帥(かわかみのたける)、熊襲(くまそ)等の群族がそれである。然(しか)し天皇の方は武器や其(その)他が進歩していた以上、大方征服されて了い、若干は天皇に帰伏した者もあったが、逃避して下積になって今日に至った者もある。

斯(こ)うみてくると、日本の民族は四種に分ける事が出来よう。即(すなわ)ち天照天皇を擁立していた純粋の大和民族と、瓊々杵尊(ににぎのみこと)系統の天孫民族と、素盞鳴尊(すさのおのみこと)系統の出雲族と、そうして右(上記)の土匪であるが、此(この)土匪の系統こそコ-カサス地方から蒙古、満洲を経て、北鮮から青森附近に上陸したもので、漸次(ぜんじ)本土深く侵入し、遂に近畿地方に迄及んだのである。それより西方には侵入した形跡はないらしい。今日各地に発掘される石器、土器の類も、右(上記)の如く大和民族と土匪との大体二種類である。進歩している方は弥生式土器といい、勿論大和民族である。

以上の如く、日本の主権を握るようになったのが天孫系統であって、それが終戦迄続いて来たのである。然し其長い期間中と雖(いえど)も、時々純大和民族の系統も生まれて来た。彼の仁徳天皇、光明皇后、光明天皇等はそれである。処が、長い間素盞鳴尊系統が大権を復活しようとして、凡ゆる手段を続けて来た事である。例えば南北朝の争いにしろ、此時は北朝が天孫系であって、南朝が出雲系であった。此様に両系統の執拗な争いが、日本歴史として織り込まれて来たのであるから、其根本を知らない限り、歴史の真相は把握出来ないのは勿論である。そうして其最後の表われが徳川幕府の政策であってみれば、真の目的なるものは言わずと知れた、天皇の大権を還元するにあったのである。然し家康の深謀遠慮は早急を避け、出来るだけ長年月に渉って、漸次的に目的を達しようとした。それは人民を刺激する事を出来るだけ避け、長い期間に天皇の存在を薄れるべき方針を採ったのである。此点家康流の智謀がよく窺(うかが)われるので、何よりも幕末最後に到って、皇室費を極度に減らし、遂に十万石という小額を分与する迄になったにみても明かである。徳川八百万石に対し、十万石とは殆んど問題にならない額であるばかりか、それも遂には杜絶(とだ)え勝となったらしい。というのは当時京都御在住の明治天皇が、六、七歳の頃の事、召上る御菓子に不自由をされたので、近くの菓子屋虎屋の主人が見兼ねて、御不自由なきよう取計らったという事で、其忠誠を深く嘉(よみ)せられた明治天皇は、東京に居を移され給うや、早速虎屋の主人を呼び、永久に宮内省御用を仰せつけられたという話がある。

又当時の公家(くげ)方も、生活に窮(きゅう)して種々の内職をされたのも事実で、如何に窮されたかが察せられるのである。然し、徳川氏のみを責める事も出来ない訳がある。というのは最後に至って、流石栄華を誇った将軍家も、終に財政難に陥り、譜代大名に対する石高の支給は漸く困難となって来たので、それら多くの大名は、極度に窮迫し、町方の豪商や金持から借金の止むなきに至ったのである。彼の有名な大阪の淀屋辰五郎とか、鴻池善右衛門等は其中の尤(ゆう)たるもので、今日鴻池家にある十数戸に及ぶ土蔵には、其時の大名の抵当流れになった珍什名器は夥(おびただ)しくあるとの話である。それらによって旗本は固より、足軽、下郎の末輩(まっぱい)に到る迄、疲弊困憊(ひへいこんぱい)、内職等によって、僅かに露命を繋いでいた事で、「武士は食わねど高楊枝」などという言葉は、其時の空気をよく表わしている。

結局、徳川氏没落の理由は、今日の国家と同様、財政難が主因であった事は、争うべからざる事実である。何故そう迄になったかというと、徳川家唯一の財源たる黄金産出の激減である。というのは将軍家唯一の金庫であった、佐渡金山の掘り尽された事である。之に就ては独り徳川氏ばかりではない。昔から天下を取った武人は、例外なく黄金に目を付けた。彼の源頼朝にしても、当時金鉱探求の名人である金掘吉次という男を、初め義経の家来であったのを、頼朝は強行手段によって自分の配下になし、大いに黄金を探させたという事である。次は彼の豊臣秀吉で、秀吉が如何に黄金蒐集に腐心したかは有名な話である。其次の徳川家康に到っては、黄金万能的に力を注いだかは勿論で、当時探鉱の名人であった大久保岩見守を重用し、全国的探鉱をなさしめた処、新しく発見したのが、彼の伊豆大仁(おおひと)の金山であった。当時は頗(すこぶ)る優良で多くの黄金を産出し、佐渡の金山と相俟って産金高は余程の巨額に達したらしい。其表はれとして彼の日光東照宮が、三代家光公の大計画によって出来たという事は、当時に於ける幕府の財政が、如何に豊かであったかを物語るもので、又徳川氏が最も経済に重きをおいたかは、勘定奉行を特に優遇した事によってみても判るのである。

処が前述の如く末期に到るに従い、大仁金山も、佐渡金山も共に産額著減したので、流石の幕府財政も漸く逼迫(ひっぱく)の兆候著しく、此事が幕府瓦解(がかい)の根本原因となったのは間違いないのである。成程当時勤王の志士は輩出し薩長土の有力分子の蹶起(けっき)にもよるが、王政維新の大業が案外早く実現されたという事も、右(上記)の如き財政難が大いに原因したのであろう。

右(上記)の如き経路によって、愈々天下は一変し天皇は事実上の主権者となられ、憲法は制定され、全般に渉って一大改革が行われ、茲(ここ)に強固な君主制国家が成立した事は、今更言う必要はないが、而(しか)も彼の日清、日露の二大戦役を経て、国威は愈々あがり、一等国の列に加わり、当時の日本は客観的には万代不易の天皇制国家となったのである。

茲で、愈々霊界の推移を説かねばならない。素盞鳴尊の遠大な意図を蔵して、大権復活の目的を達成しようとしたその手段である。それは神武天皇以後種々の計画を進めてきた事によって、追々露骨になって来た。それが現界的には藤原氏頃からであったが、即ち天孫系と出雲系との主権の争奪である。例えば道鏡と和気清麻呂(わけのきよまろ)、清盛と重盛、時平と道真、尊氏と正成等の事蹟が之を物語っている。そうして遂に徳川氏に及んで、愈々露骨となって来た。之は曩(さき)に述べたから略すが、茲で何人も気の付かない興味ある事があるからそれをかいてみよう。

出雲系は徳川期に到るまで、約二千余年に及んでも、尚目的を達せられなかったので、之迄の武力を放棄し、茲に百八十度の転換をした。それは宗教による事である。即ち神道としては天理教、大本教、金光教、妙霊教、黒住教であり、仏教としては日蓮宗に其手段を求めたのである。

右の中、最も顕著な成績を挙げたものは、彼の天理教である。同教々祖のかいた御筆先及び御神楽歌をみれば、右の意図がよく表われている。それによると日本の天皇は支那系であるという事が主となって、頗る露骨にかいてある。その中に斯ういう御神楽歌がある。『高山の真の柱は唐人や、之が第一神の立腹』とかいてある。言う迄もなく高山の真の柱とは勿論天皇の事で、天皇は唐人即ち支那人であって、神の立腹とは即ち素盞鳴尊であろう。又他の歌には、政府に於ける全般の官吏も支那系であるというのである。私は先年此事に就いて最近大阪を中心として急速に発展して来た天理本道の開祖である大西愛次郎氏の著書を見た事がある。同書には勿論右(上記)に関したもののみを開祖の御筆先から抜萃(ばっすい)したもので、之を露骨に発表したので、相当問題になり、其罪により四年の禁錮になった事は、新聞によって大抵の人は知っているであろう。

又、大本教に於ても、御筆先に右(上記)と同様の意味があったので、不敬に問われて大正十年大弾圧を受けたが、昭和十年再び右(上記)に関聯(かんれん)した事と、他に行動による不敬問題もあったので、衆知の如く遂に致命的打撃を受けたのである。然し天理教の方は、右(上記)の御筆先を全然奥深く秘めて、別に骨抜き的教義を作ったので、今日の如き大をなしたのであるから、全く首脳者の賢明には、私は大いに感心したのである。

其他金光、妙霊、黒住教などは、目立つ程の事もないから略すが、只(ただ)日蓮宗だけは相当問題にされた。勿論一部の人達ではあろうが過激な分子があって、其当時軍の内部深く喰入り、遂に彼の五・一五事件や、二・二六事件を起こす計画に参与したのは勿論である。特に二・二六事件を霊的にみれば、仲々面白い事があるが、之は未だ時期ではないから、何れ発表するつもりである。

 

『日本人種の霊的考察(下)』

昭和26(1951)年3月25日発表

以上の如く、日本民族は大体四種に分けられる。そして先ず大和民族からかいてみるが、之は曩(さき)に述べた如く、先天的平和主義で闘争を嫌う事甚だしく、それが為当時の天下は、実によく治まっていたのである。勿論未開時代であるから、文化も至極幼稚ではあったが、不自由な生活の中でも、鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世の中であったには違いない。加うるに外敵に窺(うかが)われる心配もないから、長い間太平の夢を貪って来たのである。処が一度素盞鳴尊の渡来に遭うや、一たまりもなく平和の夢は破られ、社会情勢は一変して了った。それが数百年続いた揚句、今度は神武天皇との闘争を経て、一段落着いたとしても、社会の底流には両派の反目が表面には現われないだけで、何となく無気味の空気を漂わせていたのは勿論である。又人口が殖えるに従い、漸(ようや)く諸般の制度施設等も始まって来たので、僅(わず)か乍(なが)らも年貢を取上げるに至ったのである。其(その)様な訳で有名な仁徳天皇の御製である『高き屋に上りて見れば煙り立つ、民の竈(かまど)は賑はひにけり』と詠じられたのは余りに人民が豊かでないので、天皇は今日で言えば徴税を緩められたのであろう。

処が、最初に述べたように、千余年の間は大した波乱もなく、先ず沈静期ともいうべき時代を経てから、茲(ここ)に一大革命的変化が起ったのである。外でもない彼の欽明(きんめい)天皇十三年に、仏教が渡来した事である。之によって俄然(がぜん)として画期的文化の興隆となった。それは仏教芸術が生れた事である。そうして推古、飛鳥、天平、白鳳等の時代に亘(わた)って、絢爛たる華が咲いたのは勿論で、彼の聖徳太子の天才的建造物として、印度(インド)の七堂伽藍(しちどうがらん)を模した法隆寺と言い、次いで東大寺に建立した大仏といい、当時に於ける仏教芸術の、如何に旺(さか)んであったかを物語っており、今も尚我民族の誇りとして、世界に光を放っている。以上によってみても不世出(ふせいしゅつ)の平和の偉人としては何といっても聖徳太子に先ず指を屈すべきで、太子こそ大和民族の典型的聖者といってよかろう。

次いで、藤原時代に入って、漸く天孫、出雲の両民族の争いの萌芽は、人々の眼に触れはじめた。即ち戦国時代に近ずいた事である。然し乍ら一方大和民族中の優れた人々は、文学的に活躍し始めた。源氏物語、枕草子、徒然草の如き名著や、万葉(まんにょう)、古今、伊勢物語等の、日本独自の文学も次々現われて来た。紫式部、兼好、人麿、西行、芭蕉は固より、能筆家としては紀貫之、道風、行西(こうぜい)等の輩出もこの頃からである。

又、美術に於ても、大和民族の特質を表わして来た。仏教芸術としての兆殿司(ちょうでんす)、巨勢金岡(こぜのかなおか)、鳥羽僧正等の絵画や、空海、行基等の彫刻、其他無名の蒔絵師等であるが、蒔絵は天平頃から、既に見るべきものが生れた。此技術は外国には全くなく、最も誇るに足る日本独特の美術である。

茲で忘れてはならない功績者としては、足利義満並びに義政であろう。金閣寺、銀閣寺を造ったのは有名であるが、其他当時支那美術を旺んに輸入した。特に宋元時代の名画に目を付け、優れたものを選び、東山御物として保存に努めた事によって、今尚国宝や重要美術として文化財を豊かにした業績は、高く評価してもよかろう。そうして支那の絵画を範として成った日本絵画の基礎は此時からで、それが狩野派の初めである。次いで鎌倉期に入るや、それ迄微々としていた彫刻も、茲で完成の域に達した。主に仏教的のものではあるが、有名な運慶も其時代の巨匠である。

其後、戦乱が続いたので、平和的文化の方は、相当期間沈滞状態であったが、彼の豊臣秀吉が天下を平定するに及んで、俄然として平和文化の躍進となった。面白い事にはヨ-ロッパの文芸復興期と略々(ほぼ)時を同じうしたのも、一種の神秘と言えるであろう。当時名人巨匠雲の如く輩出したのは人の知る処で、絵画に於ては宗達の独創的技術や、蒔絵、楽焼、書に於ける光悦、茶道の利休、建築、庭園、華道の小堀遠州等々、所謂(いわゆる)桃山時代の芸術として、今尚燦(さん)として輝いている。其後約二百年を経て元禄時代となり、茲に桃山期に次いでの、絢爛たる平和文化の再現となった事で彼の光琳、乾山等の巨匠の出でたのも此時である。其後に到って絵画の名人としては抱一及び栖鳳を私は推奨したい。

茲で陶工に就いて、些かかいてみるが、日本に於てはそう古くはない。鎌倉期頃からで、尾張の瀬戸、九州の有田等に始められ、其後京都にも移ったが、此地で不朽の名作を残したのは彼の仁清である。又朝鮮陶器を範として成った楽焼の祖としての、長次郎も逸する事は出来ない。他は余り見るべきものはないが珍什名器の蒐集保存整理に、功績を残したのは松平不昧公(ふまいこう)であろう。

以上は、極く大体であるが、右の外名人巨匠も相当あるにはあったが、それらを茲にかかなかったのは理由がある。というのは此文の主旨は民族的批判であるから、支那を範としたものを、わざと避けたので、今迄かいた人達は、日本独特の芸術家を選んだのである。

次に、天孫族と出雲族を詳しくかくべきだが、之は歴史上余りにも知れ亘っているから略す事にしたのである。言う迄もなく有名な武将は、殆んど両族から出たので、只(ただ)天孫系には多くの学者が出た。勿論漢学者であるが面白い事には勤王家に学者が多く、維新の鴻業(こうぎょう)に大いに役立った。それというのは天孫系が出雲系に圧迫され、危くなったのを救わんが為であったのは勿論で、右(上記)の漢学者に対し和歌の如き仮名書き文学は、大和民族系と思えばいいのである。然し此方は戦争に無関係であった為、武人のように華かな存在ではないから、注意されなかったのである。

最後にかかねばならないのは、仁徳天皇、光明皇后、光明天皇は大和民族の御系統である。次に土匪の系統であるが、此種族こそ祖先が、神武天皇に征服された為其怨恨が今も猶(なお)残っており、此種族が彼の共産主義者である。終戦前共産主義者が天皇に対し、如何に反感を抱いていたかは、右(上記)の因縁によるので、従って天皇制時代には、天皇の直属である軍人や官吏に対しても、従順でなかったのは其為である。又誰も不思議に思う事は、日本に生れ、日本の米を食(は)み乍ら、外国であるソ聯に忠誠であり、祖国である日本に悪意を抱いているという一事である。之も右(上記)の因縁を知れば成程と頷(うなず)くであろう。彼等にとっては、ロシヤこそ祖国であるからである。

今一つ知っておくべき事は、日本人中にも特に天皇に対し、極めて忠誠である分子と、割合薄い者とがあるのは前者は真の天孫系であり、後者は出雲系であるからである。之に就て最も近い例としては、彼の二・二六事件である。此事件をよく吟味すれば、其傾向が著しく現れていた事が判るが、之は何れ詳しくかくつもりである。

最後に、霊統と系統との区別をかいてみるが、世人は霊統も系統も同じように思っているが、決してそうではない。即ち霊統とは魂の繋がりを謂うので、之は永久不変一貫して変らないが、系統はそうではなく、いくらでも変るのである。変るとは所謂混血である。従って日本の四民族と雖も、長い間にどの位混血して来たか判らないが、実は混血する程いいのである。何となれば、種々の性格が混る以上、聡明な人間が出来る訳である。恰度人間で言えば、色々な苦労をし、世の中の経験を多く積んだのと同様の意味である。故に世間では純血を貴いとしているが、之は反対で、昔から婚約の相手は遠く離れた程いいとしていたり、血族結婚を不可とするのは、その為に外ならないのである。又白人特にアメリカ人に優秀な人間が多く出るのは、混血が東洋人よりもずっと多いからである。之を最も判り易くいうと、機(はた)のようなもので、経糸が霊系で動かないが、緯糸は体系であるから左右へ動くのと同様である。

次に、四民族の数に就いていえば、天孫系が一番多く、出雲系が其次で、ずっと減っているのがコ-カサス系であり、大和民族は最も少なく、先ず私の推定では、百人中一人位とみればよかろう。