御教え『宗教は一つもない』『真の宗教が有るか?』

「内外公論』15巻7月号、昭和11(1936)年7月1日発行

(未発表論文「宗教は一つもない」S11.5.30を改題投稿)

 

抑々(そもそも)、宗教は如何なるものであるか、又、其(その)目的は何か、先づ此点から検討しなければならないであらう。

人間が此(この)娑婆(しゃば)に生きてゐる時、誰もが体験する処のものは、余りに其(その)目的意志と相背反する事が多い事実である。又、思はざる災厄や不幸や罹病等、人力では免るる事の出来ない諸種の苦悩の発生である。釈迦の言ふ生病老死といふ免るる訳にゆかない確定的の四苦さへもある。それ以外、死後の不安も忘るる事の出来ない一つである。

 

是等に対し、人間の限りなき欲求は凡ゆる苦悩を免れんとする以外に、その実態を見極めやふとする事になるのは無理のない話である。

十八世紀以前の人類は此(この)解決を全部宗教に求めやふとしたのである。然し乍ら、其(その)時代迄のあらゆる宗教と雖も、其(その)解決は終(つい)に与へられなかったのである。故に其(その)真理を把握しやふとして、求道者達が血の出る様な難行をしたであらふ事は、歴史によっても想像し得らるるのである。

 

それ程の事をして、獲得し得られたものは何乎。それは単に「諦め」の二字でしかないのである。人間が如何に欲求しても、如何に真理を掘り当てよふとしても、それは到底無益である。といふ事を知る境地以上には到達しないので、それが悟りを得たといふのである。故に、其(その)悟りの境地こそ覚者であり、最後の到達点で、彼岸のそれであると思ったのも無理はないのである。

 

彼の釈尊と雖も、或程度の真理は把握し得たに違ひないが、実は絶対までには到達しなかったと思ふのである。ナザレの聖者イエスと雖も、絶対は把握し得なかった事は勿論である。其(その)他マホメットも空海も親鸞も日蓮もそうであったに違ひない。何となれば、彼等の遺した事績の価値から言っても、充分看取(かんしゅ)し得らるるのである。

 

そればかりではない。今日の宗教者が唱へ、又行ってゐるそれを見るがいい。悉く右(上記)聖賢の流れを絶対無二の信条としてゐながら、その孰(いず)れもが宗教迄に到って居ない事である。或者は道徳を唱へてゐる。或者は教化事業を宗教の全部と錯覚してゐる。又、或者は宗教は理論と思ってゐる。甚しいのになると、科学と哲学で宗教を説かふとしてゐる。又、社会事業に専念してゐるといふのが実際であるにみても、それは宗教的ではあるが、真の宗教ではない。

 

然らば、真の宗教とは如何なるものであるか、それを説いてみよふ。然し、先づ之を説くに当って先づその根幹とも言ふべき条件を示してみる。

 

(一)、真理の具現 (二)、偉大なる目標 (三)、過現未の透観 (四)、神力又は仏力の顕現 (五)、光明の示顕 (六)、幽現の利徳 (七)、天国的生活 (八)、治病の可能

 

右(上記)の条件を全具してゐるものが、真の宗教であるが、その中の一ヶ条にてもあれば、それ丈の宗教的価値はあるが、事実現在の殆んどが恐らく零であると云っても可いと思ふのである。そうして、右(上記)条件の一つ一つに就て略説してみよふ。

 

一、真理の具現とは

 

天地自然の運行、万象の流転と一切の生成化育の実相行姿其(その)ままであって、例へて言へば、人は人としての道を行じ、又、人は生れながら其(その)各々の天職使命があり、階級も儼(げん)として定ってゐるのであって、それを知り、それを実行する事が人としての真理の具現であり、それによって永遠の歓喜と栄を得、安心立命を得らるるのである。然るに今日はそれを教へ、夫を行ぜしむる力ある宗教がないから、人々は迷蒙に陥り、知らずしらず他の範囲を犯し、軌に外れ道を失ひ、其(その)極争や混乱を生むのである。之等は独り個人に限らず、社会も階級も国も世界も悉(ことごとく)それに漏れないといふ実状である。此(この)時に当って、宗教者なる者が天地の真理を弁へないから、人を教ゆる力もなく、感化する徳も無いのである。又之に就て、仏典もバイブルも、其(その)他の聖典も、実は真を説き、実を誨(おし)へて居ないのであるから、人として知る事が出来ないのも致方ないのである。何となれば、もし何れかの聖典に真実を説いてあったなら、今日の如き苦悩と混乱の時代は実現しなかった筈であるからである。又、真理が全具現されたならば、多数人が今日の如く病に罹り易く、天寿を全ふするものが暁の星の如く寥々(りょうりょう)たる筈がないのである。是等によって見ても、此(この)一箇条さへ現在の宗教中に有して居るものはないのである。

 

二、偉大なる目標とは

 

世界万民が之に向って仰ぎ拝み、崇敬するに於て、真の智慧と力と幸ひを得させ、絶対安心の境地にならねばならない事である。そうして、血の出るやうな難行や苦行的の自力は必要がないばかりか、真の神霊としては喜ばれ給ふ筈がないのである。そうして、その目標である神仏に大いなる力があれば、如何なる願事でも、正しければ容易に肯かれ給ひ、許され給ふからである。又、力ある神仏とは、万能力を有せられ給ふからである。万能力を有せらるるは、最高の御神格を具有せられるからである。此故に、難行苦行をしなければ利益を恵まれないと云ふ事は、それは人間自身の力を必要とするからで、要するに、其(その)目標神の力の不足を、人間に補はせられるを意味するので、それは其(その)目標神が第二流以下の神である訳である。

全然自力を要求しないで、大きな利益を無限に賜はるといふ目標神は、今の宗教のどれにもあり得ない事は実際である。

 

三、過現未の透観

 

仏教に於ては、よく過去、現在、未来を云々するが、どうも寔(まこと)に不徹底である。昔から三世通観などと謂ふけれども、過去と未来に向って明確に実相を説示したものはないのである。過去と雖も、唯単に漠然たる仮定説的で、現代人を満足せしむる価値はないといってもいい。真に三界の深奥を明かにし得るものは無いのである。そうして、如何なる宗教と雖も、善悪の根本すら徹底説破したものは絶対無いのみにみても明かである。それはなぜであるかと言へば、既存宗教の殆んどは、其(その)開祖が第二流以下の神仏である関係上、主神の最奥の経綸が解る筈がないのであるから、止むを得なかったと言ふべきである。

 

未来に到っては、勿論具体的に徹底説示したものはなかった。只漫然と簡単に予言はされてゐる。それが仏教の彌勒の世、基督教の天国来、天理教の甘露台の代、其(その)他である。要するにそれ丈であって、それ以上の説明はなし得なかった事は致し方なかったであらふ。

 

此(この)様に、過現未の真諦を開示した宗教は未だ無かったので、之が無くては人間をして絶対安心立命を得させる事は不可能である。

 

四、神力又は仏力の顕現

 

既存宗教の何れをみても、神力、仏力の顕現は、開教当時それぞれ若干あったのは事実であるが、大いなる力、それは無かったのである。故に人類は、真の神力なるものは未だ知らないのである。然るに、愈々(いよいよ)観世音菩薩が救世的大威力を発揮され給ふ時となったのであって、之は人類の想像を絶するのである。今後それが如実に具現し、世界万民に福祉を給与され給ふ実際を仰ぐより致方ないであらふ。今日唯その片鱗を観る事は出来るのである。それは今現に行はれつつある事で、それは如何なる人でも、病気治療の術を一週間の講習を受けた丈で、二三十年専門的に修練した医学博士の、何十倍もの治病能力を得られるといふ事だけをみても、其(その)偉力を想像なし得るであらふ。

 

そうして如何なる宗教と雖も、人類からの病苦を祓除し得る力がないならば、それは絶対神力あるものではない。絶対神力がないとすれば、勿論最高の神の宗教ではない。第二流以下のそれである事は勿論である。之に由って見ても、現在迄の宗教は、真の宗教としての価値はないので、或期間中に於る仮定的存在であった事が判るであらふ。

 

五、光明の示顕

 

本来神霊は肉眼に見得るものではないが、霊界に於ては、想像出来得ない程の大いなる光と熱とを放射し給ふもので、其(その)御神姿は崇高善美なる人間と同一の御姿である。そうして、其(その)御本体から放射され給ふ処の、その光と熱は余りに強烈である為に、常に水霊に依って包まれ給ふものである。

 

本来、真の神とは火のカと、水のミを称して神と言ふのである。火水の御働きをされ給ふからである。故に、火の働きばかりではカミではない。水の御働きばかりも神ではない。火水一致して、初めて大神力が顕現されるのである。然るに今日迄、諸々の神が地上へ示顕されたが、それはいづれも一方の御働きであった。それがために、神力といふものが示顕されなかったのである。何となれば、物質に於ても火と水合致によって動力が起るので、その動力によって機関の活動が起るのである。又草木に於てさへ、太陽の光と太陰の水によって生成化育するのと同一の理である。然し、大神力は火と水の外に土の精が加はるのであって、それを称して三位一体といふのである。此(この)三位一体の力によれば、如何なる事も成し遂げ得らるるといふ絶対力なのである。此(この)力が現はれた時、初めて人類は更生し、歓喜と幸福に満ちた理想世界は出現するのである。

 

本当の意味から言へば、今日迄出現された神も仏も、其(その)光は月光のそれであったので、太陽の光は未だ顕現されなかったのである。月光のみであった期間を、夜の世界といふのである。

 

然るに、弥々其(その)時が来たのである。太陽の光が顕れたのである。それが東方の光である。私の描いた御尊像から光明が放射されるといふ事は、それの一部を示されるのであり、又、私が病気治しをする場合、手や指から種々の光が出るので、それを肉眼で見た人は幾人もあるが、それ等もそれである。

 

是を以てみても、既存宗教には、未だ光明の示顕は無かったと言ひ得るのである。

 

六、顕幽の利徳

 

既存宗教に於ては、顕幽両全の利益あるものは無いのである。その多くは未来の利益を標榜してゐる。彼の仏教信者が如来を信じて、未来の浄土を目標とする結果、現世利益を軽視してゐる事や、基督教信者が天国を夢みて、現世に於る苦悩をどうする事も出来得ないから、それに甘んずる哀れな実状や、天理教などの信者が病貧に喘ぎ乍ら、当にもならぬ甘露台の世の幻影を描きつつ滅びゆく惨状にみても、夫等の宗教が、現世利益のない事を證拠立ててゐるのである。ただ纔(わず)かに天狗、稲荷等の低級宗教が、現世利益が多少あるばかりではあるが、之等は淫祠邪教の類であるから問題にはならない。唯是等の中にあって、昔から観音信仰のみが現世利益のあるといふ事は、普く世人の知ってゐる所である。然乍ら、観音信仰が未来の利益も併せ得らるるといふ事を、世間は未だ知らないやうである。仏者によっては、未来の救は阿弥陀で、現世の救が観音であるとしてゐる者が多いのであるが、之等は真相が判ってゐないからである。勿論、未来は阿弥陀である事に間違ひはないが、観音は現世及び未来、即ち顕幽両界の救である。之が自由無碍なる所以で、其(その)言葉がそれを表はしてゐるのである。恰度例へて言へば、番頭は番頭丈の権能よりないが、主人は主人であって、番頭の権能をも有してゐるのと同じ理である。否観世音菩薩こそは、神幽現の三位一体の権威と力を具有し給ふのである。

 

此(この)故を以て、顕幽両全の利益ある信仰は、ひとり観音信仰のみであって、他には絶対無い事を知らねばならないのである。

 

七、天国的生活

 

世間あらゆる宗教は即心即仏とか娑婆即寂光浄土とか、地上天国とか、甘露台の世とか言ってゐる。之等は多く未来の理想世界であるとし、現在の苦悩はどうしやうもないと、只忍苦、諦めのみに努力してゐる。其(その)結果、終には苦悩を楽しむのが信仰に徹してゐる、といふやうにさへなって了ったのである。それは苦悩を排撃する事が出来ないので、苦悩に負けるのを満足するのであり、苦悩を肯定する事であり、終に苦悩を常態観とさへするに到ったので、謂(い)はば苦悩の奴隷になって了ったといふのが実際である。恰度、病気を駆逐する事が出来ないから、せめて養生丈で現状維持のまま一日でも長く生きよふとする現代医学の如なものである。

 

是等は大いなる宗教的錯覚であって、真の宗教が生れなかった為である。真の意味から言へば、苦悩を排撃する事である。不幸を否定する事で、否解消する事であらねばならぬ。之によってのみ、地上天国も理想世界も出現するのである。

 

此(この)意味に於て私が常に称える病貧争絶無の世界といふのは、之を指示したものである。然し人類は何千年もの間、苦悩の世界が続いたが為、光明世界などといふと、絶対実現し得ない痴人の夢の如くに想ふのも無理はないのである。

 

然乍ら、光明世界を建設せんとするには、天降り的に、又は劇の暗転式に突如と成立つのではない。一歩々々築き上げてゆくのである。それが万物化育の法則であるから、此(この)法則を外しては成立し得ないのである。そうして、一歩々々築き上げてゆくといふ事は、先づ我々自身が、否我々の家庭から一歩築き上げてゆかなければならない事である。然し、今日迄の宗教は如何に熱心にすると雖も、病貧争を絶無ならしむる事は絶対不可能で、それはその神仏の力の欠如の然らしめた処である。故に、それ等信者なるものは、常に苦悩に甘んじ乍ら、漫然と理想生活を夢みつつ次々死んでゆくのであって、その幻影の実現が余りに遅延するに由る幾度とない失望は、誰しも喫しつつあるのである。

 

八、治病の不能

 

既成宗教に於ては、宗教的治病は不可としてゐるが、之位怪しからぬ話は無いのである。それは、自己無能の糊塗でしかないのである。宗教は科学以上の存在と自惚れてゐるに不拘、病気を治し得ないといふ事は、科学所産の医学よりも劣るといふ自白である。科学以下の価値としての宗教は宗教ではない。先づ宗教に似た論理乃至道徳でしかなからふ。然乍ら彼等は曰ふのである。治病はしないが、人の霊魂を救のであると。然し之は立派な詭弁である。魂が救へば肉体は救えない筈がない。何となれば、魂と肉体とは別々の存在では決してない。両者は融合一致してゐるものであるからである。例へて言へば、肉体丈で心魂の無い人間はない。心魂丈で肉体のない人間もないのである。之位判り切った簡単な事すら盲目にされてゐる。

 

次に、新興宗教に於ては相当治療に専念し、又、その効果も多少あるにはあるが、是等も病気によっては治るといふ条件附きのもので、又、其(その)治病率も何パ-セントと実績を挙げ得るかといふ事すら、明確に示さないのであるから、其(その)効果は疑問たるものである。そうして、治癒しないものは信仰が足りないとか、行が間違ってゐるとかいふ言訳附きのものであるに於て、決して絶対力あるものではない事が解るのである。実際真の宗教治病力といふのは、治癒力百パ-セントでなくてはならない。そうして信仰が浅いとか深いとか、信ずるとか信ぜないとかいふ条件附きであってはならない。信不信、又は疑をもつ等は問題にならないのである。如何なるものでも、無条件で全治する程の絶対力があるこそ真宗教である。故に、此(この)条件に合致した宗教は恐らく一つもないのである。此(この)点に於て現在の新興宗教の治病などは、洵に微力なるものであるから、社会からインチキ視せらるるのも止むを得ないであらふ。

 

以上、八項目に分ちて解説せる宗教の条件や価値に対して、既成宗教中一のパスするものすら無いであらふ。否、八項目中一項目さへパスする宗教も恐らくない事は断言出来るのである。之によってみるも、未だ人類社会に真の宗教は出現しなかった事は明かである。

 

前述の理由に由って見ても、世間宗教といへば必ず迷信を連想するが、之は間違ってゐないのであって、全然迷信の無い宗教はないのが実際である。実は凡ゆる既成宗教は、真の宗教が生れる迄の過渡的産物であり、仮定的に真理を説いたに止まるのであって、全く真理の如きものを説いたまでである。仏教の真髄は真如であると釈尊が言った事は、此(この)真理の如きものであるといふ意味と思ふのである。

 

故に、真の宗教が生れた暁、必然、万教は帰一されない訳にはゆかないのである。八宗、九宗、何十派等と謂って、蝸牛角上の争をして居るといふ訳は、絶対の権威と神力を有する一大宗教が生れなかったからである。

 

今や顕はれんとする真の宗教が、如何に人類が未だ経験した事のない歓喜と幸福を与へらるる大威力あるものであるかは、事実によって万人が知り得るであらふ。