11月の学び
はじめに
責任者:
10月12日に日本に上陸した台風19号は、関東、甲信、東北地方などで記録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。お亡くなりになられた方々の御冥福と、被害に遭われた方々の生活環境が、一日も早く整って行きますよう、心よりお祈り申し上げます。
9月から2度に分けて、「景仰」を如何ように拝読するか」をもとに学ばせていただく中で、これからの私達の学びは「御教えの体系化」を図り『伊都能売思想』の構築に努めるということなのだと気付かせていただきました。
そうすることによって、今まで幾度となく拝読していた御教えを、“立体的により高く(深く)捉える事が出切るようになって来ているのではないかな”と思いますが、皆さんはどのように感じられていますか?
さて今回の学びは、「教祖の精神を現代に求める」というテーマを持って、「景仰」に収められている「メシヤ様の実像」から、楳木先生の御教示を基に「神様の御心」を求め、引き続き「御教えの体系化」を図り『伊都能売思想』の構築に努めて参りたいと思います。
「メシヤ講座・特選集no.60(平成18年1月分)」より抜粋:
(前文割愛)
「景仰」を如何ように拝読するか(1)
はじめに
楳木先生:
創唱宗教(「研鑽資料no.6(2018年9月)」へ)の信仰生活とは、「教祖の精神を現代に求める」という取り組みの積み重ねである一面を有しております。
「教祖の精神」とは、御論文と問答、詩歌の中に脈々と流れております。それ故に御教え拝読が大切なのです。そして、世界救世(メシヤ)教系列教団で「景仰」が何故ベストセラ-となったのかを考えると、そこに大きな存在意義を誰もが見い出したからに違いありません。
生き神様のご日常をつぶさに垣間見ることができ、様々な時所位の人々への接しられ方を学ぶことができます。そして、何より、教えを垂れるだけでなく御自ら教えの実践者であられたことを証し立ててくれる内容が、活き活きと伝わってくるからであります。
一方、教団としては、「景仰」の拝読の仕方に深みが欠けると、本来の働きを遂行できない事態を招いてしまうことも事実です。それは、教祖のご神格に大きく関わるからです。『神様のされることには無駄がない(「御講話(昭和26年11月15日)全文ヘ」』『神意は奥の奥のまたその奥にある(『之も慢心』全文へ)』というお言葉から拝察すると、お一言お一言に深い意味がこめられている場合もあるということになります。
そのお一言をどのように捉えてゆくか、ということが求道であります。
求道というものは、少しでも油断すると停滞してしまい、堕落する恐れがあります。人間の弱さから来るものです。そのために、絶えず適度な緊張感を持って教祖の立ち居振る舞いに触れ、お言葉に耳を傾けていなければなりません。
当然、側近奉仕者の掛けていただいたお言葉に対して、上司はどのような意味があるのかを求めてゆかねばなりません。何故なら、教祖御自らご口述された原稿を何度も推敲され、万人誰もが理解できるように努められたからであります。『神のお言葉』を人間としてどのように求めてゆくのか、という取り組みの鑑がそこにあります。」
責任者:
ここで御教示いただいた要点を以下に併記いたします。(特に重要だと思われる御教示は◎にいたします)
○私達の(創唱宗教の)信仰生活とは、「メシヤ様(教祖)の書かれた御論文と、問答、詩歌の中に脈々と流れている精神を身近な日常生活の中に(現代に)求める」という取り組みの積み重ねであるという一面を有しているのだということ。
○「景仰」は、メシヤ様(生き神様)のご日常をつぶさに垣間見ることができ、様々な時所位の人々への接しられ方を学ぶことができるだけではなく、御自ら教えの実践者であられた(教えを垂れるだけでなく)ことを証し立ててくれる内容が、活き活きと伝わってくるので、誰もがそれらのことに対する意義を見い出したことによって、世界救世(メシヤ)教系列教団でベストセラーになったのであるということ。
◎「景仰」は、拝読の仕方に深みが欠けると「メシヤ様(教祖)のご神格に大きく関わり」、本来の働きを遂行できない事態を招いてしまうこともあるということ。
◎求道とは、少しでも油断(人間の弱さから来る)すると停滞してしまい、堕落する恐れがあるので、絶えず適度な緊張感を持ってメシヤ様(教祖)の立ち居振る舞いに触れ、お言葉(お一言お一言に深い意味がこめられている場合もあるので)に耳を傾けていなければならないのだということ。
◎私達は、メシヤ様が努められた(『神のお言葉』を人間としてどのように伝えてゆくのかという取り組み)御姿を鑑とし、側近奉仕者の掛けていただいたお言葉に対して、どのような意味があるのかを求めてゆかねばならないのだということ。
「メシヤ講座・特選集no.60(平成18年1月分)」より抜粋つづき:
『きりょうはいいが、中身が悪い』の項
≪本文≫
明主様(メシヤ様)はクサヤがとてもお好きでした。それからカメイド大根を一夜づけにしたものとか、果物ではミカンを好まれました。
しかし、リンゴは『きりょうはいいが中身が悪い』などとおっしゃってあまり好まれませんでした。(側近奉仕者)
≪解説≫
楳木先生:
この短い文章の中には、考えなければならない内容がしっかり詰まっております。まずクサヤというものとリンゴというものを対比して記述されており、様々なことが頭を巡ります。
多様な価値観をお認めになり、しかも、それらを緩やかに束ねてゆかれようとされた方が何故好き嫌いを表明されたのか、ということです。まず、リンゴのことですが、創造主のお立場からすると好き嫌いがあるということは不自然です。
リンゴは例えとして、というのが自然
どちらかと言えば、例え話と受け取ることの方が自然のように感じられます。つまり、リンゴに例えられて『あなたも、きりょうはいいが中身が・・・』ということをご指摘された、とも考えることができるのです。
もちろん、押し付けるということはなさいませんので、『受け止めることができれば、素晴らしい』し、『受け止めることができなければ、時期を待つしかない』ということであられたと思われます。『教えというものは身魂相応に受け取ることができる』ということを繰り返されていますので、当然そうした願いがおありになられたと思います。
奉仕者の上司の方が「それはあなたも『中身を磨け』という思し召しではないのかな。私ならば、そのように受け取らせていただき、一層精進させていただくよ。しかし、あなたのお蔭でこのようなお話を伺うことができて、有り難かった。ありがとう。」とアドバイスしていたらどうだったでしょう。その後の教団の教化育成は随分と変化していたのではないでしょうか。
そうした解説を加えてくれた先達に恵まれた方々は、即向上へと繋がり、さぞ幸せだったことでしょう。そして、信徒みんなの課題として受け止めることができたならば、さらに幸せが拡がり、なんと素晴らしい宗団となったことでしょう。
クサヤについては
それでは、対比されるクサヤについてはどうでしょうか。まず、特異な臭いで知られています。そして、その味は一度ひきつけられた人は忘れられなくなり、特に酒の肴には最適という人もいます。クセがあるが、これが非常に良い、という訳です。このことについては次の引用文が参考になるかと思います。
宮大工棟梁であった故西岡常一氏は「木のいのち木のこころ」という著書で「癖(木の)というものはなにも悪いもんやない。使い方なんです。癖のあるものは使うのはやっかいなものですけど、うまく使ったら、その方がいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな」と述べております。
クサヤを通して、『癖は考えようによっては良いところとなる』、『持ち味を生かしてやれば、力を発揮することになる』ということを私達に教えられているように思えてなりません。
そして、『異質な人と人がお互いに認め合って、多元的な価値観を認め合って、そして持ち味を発揮できるように、お世話に当たりなさい』と教えられていると受け止めることができれば、素晴らしい宗団となることは間違いありません。
江戸っ子流の喜ばれ方があるはず
それから、クサヤそのものについても、もう少し突っ込んでお尋ねになれなかったのか、
と思いますね。突っ込んでくれれば、初めてお召し上がりになった折の逸話や、どのように好まれたのか等、味わい深いものがあると思います。
奉仕者という立場ですから、恐れ多くて突っ込みはできなかったこともあるかと思いますが、メシヤ様は江戸っ子ですから、かえって喜ばれたと思えてなりません。立場の上の方は必ずお話しを伺っていると思います。それらを、編集の際に添えていただきたかったですね。
また、リンゴについても、リンゴを食材にしたアップルパイやリンゴを擂(す)り込んだカレ-などはテ-ブルにお出ししなかったのでしょうか。食事を担当した奉仕者の方々は挑戦してみなかったのでしょうか。「誠」とは、そのような取り組みの中に垣間見ることができると思います。
その挑戦があって、メシヤ様はどのような反応を示されたのか知りたいところです。献上品であった「鮎」の焼き方についてお叱りをいただいた方の記述(「奉仕のまことを汲む誠心」の項へ)に照らしてみると、きっと新たなお話が積み上げられたことでしょう。そのような編集があれば、もっと有意義だと思えますし、ただ単に「メシヤ様はリンゴを好まれなかった」ということでは、深みに欠ける編集のあり方だと感じます。」
責任者:
ここでは以下のように御教示いただいております。
○ここでのリンゴの話は「メシヤ様はリンゴを好まれなかった」ということではなく、例え話として受け取ることの方が自然なのだということ。
○クサヤの話は、クサヤを通して、『癖は考えようによっては良いところとなる』、『持ち味を生かしてやれば、力を発揮することになる』ということを私達に教えられているように思われ、さらに私達が『異質な人と人がお互いに認め合って、多元的な価値観を認め合って、そして持ち味を発揮できるように、お世話に当たりなさい』と教えられているのだと受け止めることができれば、素晴らしい宗団となることは間違いないのだということ。
個人的な話で申し訳ありませんが、この解説を読みながら、以前所属していた教団では勿論このような御教示もなく「メシヤ様は、リンゴがお嫌い」だと耳にしていたことを思い出してしまいました(笑い!)。
「メシヤ講座・特選集no.60(平成18年1月分)」より抜粋つづき:
≪問題解決するための留意点≫
楳木先生:
「教祖の精神を現代に求める」ということは、このように「教」、「論」、「律」で組み立てることによって成り立ちます。お言葉が「教」であり、それをどのように受け止めるかが「論」で、受け止めたことをどのように日常生活で実践してゆくのかが「律」です。
今回比較的わかりやすい事例を取り上げて解説いたしましたが、大切なのは受け止めたことをどのように実践するか、ということであります。その意味で、今回掲載する次の「体験記(「メシヤ講座・特選集no.60(平成18年1月分)」へ)は非常に参考になると思われますので、是非活用していただきたい、と願います。
(以下割愛)
編集後記
責任者:
今回はたった4行の短い体験記でしたが、「教」であるお言葉を、大切に受け止め「論」、日々の生活に繋げてゆく「律」ということが、信仰生活であり、私達に与えられた大切な課題なのだということを気付かせていただきました。このことを受け止め、日々の生活の中で実践に努めさせていただきたく思います。
有難うございました。
※責任者より
引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。
引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。
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