3月に向けての学び
はじめに
責任者:
梅の蕾がふくらみ始め、春の訪れを待ち遠しく思う今日この頃です。皆様におかれましては、お元気でお過ごしでしょうか。
先日(2月14日)やっと政府は、備蓄米の放出を決断したということです。今年に入ってからも色々な物が値上がりしています。その中でも私達消費者の財布を直撃しているのがお米の値段です。「米」は私達日本人にとって主食であり、生活に欠かせない重要な食材です。全ての国民が、いつでも手ごろな価格で入手できる環境は当然のことだと思います。それなのになぜ今更「米」不足なのでしょうか?「政府には、しっかりと国民を見て地に足の着いた政策をスピーディーにとっていただきたい。」と思わずにはいられないニュースでした。それでは、今回も引き続き「文明の創造」より学んで参りたく思います。どうぞよろしくお願い致します。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋:
<今月の御教え>
『医学の解剖』
「文明の創造、科学篇」 昭和27(1952)年
私は前項迄に、医学の誤謬(ごびゅう)を大体かいたつもりであるが、尚(なお)進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。只(ただ)誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心担懐になって読まれたいのである。それには先(まづ)事実によって、説明してみる方が早かろう。先(まづ)何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧あいまい模糊(もこ)御座(おざなり)的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就ついても言ひ切る事が出来ない。貴方あなたの病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此の療法が効果ありとされてゐる。此の療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊きくと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外はずれる事の、如何(いか)に多いかも医家は知ってゐるであらう。そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈はずである。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論もちろん、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或(ある)いは両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮かりに治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆(ほとん)どは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此(こ)の事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈(はず)である。此(こ)の例として主治医といふ言葉があるが、若もし本当に治るものなら、それで済んで了しまふから主治医などの必要はなくなる訳である。
右によっても判る如く、若もし病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈はずであるのに、事実は凡(およ)そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベットが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処(どこ)かに、一大欠陥がなくてはならない筈はずであるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。
そうして、診断に就(つい)て其(そ)の科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆ほとんど区々(まちまち)である。といふのは茲(ここ)にも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若(も)し一定の科学的規準がありとすれば、其の様な事はあり得る訳があるまい。若し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈(はず)である。処が事実は一般人と同様処か、反って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而(しか)も医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論もちろんであるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘(かか)はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委(まか)せる事など出来ない訳である。それに就ついてよく斯(こ)ういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。
私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異ちがう数は、一寸(ちょっと)口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯(こ)ういふ場合どう説明したら、患者も其その家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ屡々(しばしば)あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。
此様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍ながら診断と結果が、実際と余りに喰違(くいちが)ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼かの有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服(の)ませし薬吾服(の)む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直(じ)きに治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其その夫人は大いに感激して、医師を廃(や)め、本療法に転向させるべく極力勧すすめたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以もって其の儘ままになってゐる人もある。今一つ斯(こう)いう面白い事があった、十数年前或(ある)大実業家の夫人で、顔面神経麻痺まひの為ため、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往(いっ)た事がある。其の時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが其の際懇意である其の病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰いわく“その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処(ここ)の病院でも奨めやしないか”と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ケ月程で全快したのである。
偖(さ)て、愈々(いよいよ)医学の誤謬(ごびゅう)に就ついて、解説に取りかからう。
「迷信を目覚めさせつつ、正信を広める」が革命
楳木先生:
今月の御論文の『医学の解剖』というのを拝読させていただきますと、メシヤ様の御心を一番先に書かれているところが、『と言っても別段医学を誹謗する考へは豪末もない。』 というところです。だからメシヤ様は医学を誹謗するということではなく、どこまでも真の医学をみんなに目指してもらいたいために指摘しているんだということですね。
この考え方がしっかり我々の腹に入ってこないと、△O△が落ち込んでいるところに行ってしまいます。
要するに最初、先達の先生方は大変大勢の方々を浄霊によって御救いになったんですけれど、メシヤ様のこの『誹謗する考へは豪末もない。』ということを根底においてやっていかないと、浄霊の奇蹟が出て救われていくうちに、みんなから「先生、先生」といわれて、「医者はダメだ」というふうに医者を馬鹿にしたりとか、そういうようなことが起きてきて、ここに心の隙ができて、医療問題とかが起きてきた、ということが過去の歴史にあります。
それで医療問題が起きて、いろいろと裁判沙汰になったりしたために、それを何とかしないといけないということで、「医療というものを否定するわけではない」というようなことを口で言いつつ、浄霊をずっとしてきている、ということがあります。
世界救世(きゅうせい)教では、このホンのちょっとした考え方がズレて、歪めて来ております。逆に医療を取り入れるような形にまで、△O△は今行ってしまっているということです。
どこまでもメシヤ様の御心が分かってないために起きている問題だ、ということをよく分かっておかなければなりません。これからも奇蹟が出れば出るほど、そういう誹謗するような考え方を微塵も持ってはいけない、ということはメシヤ様の御心としてはあると思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎今月の御論文で、メシヤ様の御心を一番先に書かれているところが、『と言っても別段医学を誹謗する考へは豪末もない。』 というところなのだということ。
>それだから、メシヤ様は「医学を誹謗する」ということではなく、「どこまでも真の医学をみんなに目指してもらいたい」そのために医学の誤りを指摘しているのだということ。
≫「これからも奇蹟が出れば出るほど」、私達は医学を誹謗するような考えを微塵も持ってはならないのだということ。
≫又、「どこまでも真の医学をみんなに目指してもらいたい」というメシヤ様の御心を忘れてはならないのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
迷信を追従して、夜昼転換が起こらない△O△
楳木先生:
次のところを読んで行きますと、医師と患者とのやり取りを指摘されておりますね。
『甚だ曖昧模糊御座なり的である。』『「入院すれば治りますか」と訊くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的言葉である。』この60年も前の医療関係者に対する御指摘ですが、現在ここ10年ちょっとで、医療の世界、医学の世界ではやっとインフォームド・コンセントに辿りついたということですね。
やっと医者自身も気づいてきて、どんなことに対しても患者に明確に答えていくということですね。キチンとした答えをする医者ほど信頼できる医者であるというようなことを、インフォームド・コンセントという概念にまとめて、現在、医者はそれに取り組もうとしています。
(後文割愛)
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、『甚だ曖昧模糊御座なり的である。』『「入院すれば治りますか」と訊くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的言葉である。』と(昭和27年当時の)医師と患者とのやり取りを御指摘されているが、現在(2011年当時)ここ10年ちょっとで、医療の世界、医学の世界ではやっとインフォームド・コンセント(「医師から十分な説明を受け、患者が納得したうえでの同意」を意味する概念)に辿りついたのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
真の医学は、「新しい科学」として高度に先導する
楳木先生:
それから次に、『科学性が乏しいと言へよう。』 というふうに御指摘になっていますが、『科学性』ということが御論文の中に随所に出てきます。浄霊とか浄化作用の原理は、『神科学』だとおっしゃっています。メシヤ様は、浄化に対しても、どこの毒がどう溶けているからこういう症状が起きているので、その溶けている場所を浄霊したらいいんだ、というふうに、非常に細かいです。ということは科学的な説明をしているんだということです。それを今回は御論文で、今の医学を一言にして、『科学性が乏しいと言へよう。』というふうに御指摘されているわけですので、そうしたところも心に止めていただきたいと思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、「浄霊」とか「浄化作用」の原理は、『神科学』だと仰っているのだということ。
>特に「浄化」については、非常に細かく科学的に御説明下さっているのだということ。
>それ(上記)に対してメシヤ様は、今(当時)の医学を、『科学性が乏しいと言へよう。』というふうに御指摘されているので、私達はそうしたことも心に止めておくのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
転換できない最大要因・・・「頑なな独断偏見」
楳木先生:
それからずっと進んで行くと 『現代医学の何処かに、一大欠陥がなくてはならない筈であるに拘はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。』 とあります。今度は、医療の指摘、医学界の指摘をしてるんだけれども、この場合は唯物科学に捉われ、ということですが、この『捉はれ』の部分は自分に当てはめて下さい。“捉われている考え方が自分にはないか?”と。
我々も子供の頃から小学校に入って、中学校に入って高校に入って、その上、先に進んだ人は大学に入って、それから大学院まで行った人もいます。それらは、いわゆる唯物教育の中にあって、自分達に刷り込まれたことに捉われているものを考えてしまうと、御教えがきちんと理解できないところがあります。
それからさらに成長していく過程で、いろんな人と出会って、いろんな人から意見をされたり、「おまえ人生はこんなもんだぞ」とか「世の中はこんなもんだぞ」とか、いろいろ教え込まれたものに捉われていくと、問題を起こして来ます。家庭内の問題にせよ、それから人間関係にしても問題が生じていくのは、そうしたものに捉われていくと、問題が起きてきます。
それから次に 『他を顧みないからであらう。』 とあります。『他を顧みない』ということは、そうやって問題の渦中に入った場合に、人がいろいろ言ってくれます。「あんた、こうじゃないか」と言われた時に、“もう、うるさいなぁ、こんな大変な時に”という気持ちになりがちです。この『他を顧みない』と、問題は解決しないということです。
だから、人の意見を聞く、それから自分を顧みる、そうしたことをしていかないと、自分の今抱えている問題は解決に向かわないということですね。
御論文では医学の問題点を説明、指摘されているんだけれども、この部分だけは、自分の中に“捉われはないか”“他を顧みているか”、そうしたことを絶えず自分に向けていっていただきたいと思います。今自分の抱えている問題を解決していくためには、この二つのことを絶えず自分に問いかけていってください。
先月も、“偏見がないか”自分に問いかけていただきたいということがありましたが、こうしたメシヤ様が御批判を加えている文言の中でも、自分に向けておかないといけないことも大事なこととしてありますので、この部分にもチェックをしておいていただきたいと思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎ メシヤ様は、『現代医学の何処かに、一大欠陥がなくてはならない筈であるに拘はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。』 と医療と医学界の指摘をなさっているのだということ。
◎いわゆる唯物教育の中にあって、自分達に刷り込まれたことに捉われて物事を考えてしまうと、御教えがきちんと理解できないところがあるのだということ。
>更に、成長していく過程で、色々と教え込まれたものに捉われていくと、家庭内や人間関係の上でも問題が生じてくるのだということ。
◎『他を顧みない』ということは、人の意見を聞き、自分を顧みなければ自分の今抱えている問題は解決に向かわないのだということ。
◎この御論文では医学の問題点を説明、指摘されているのだが、今もし自分が問題を抱えている場合、この2つの「捉われてはいないか」「他を顧みているか」ということを絶えず自分に問いかけながらその問題を解決していくのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
浄霊は「自己と家族」、他人ではなく「支部」へ
楳木先生:
それからですね、『医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。』 ということがありますね。ここでは、二点しっかり見つめておいていただきたいことがあります。
浄霊というのも、他人任せにしてはいけないということですね。自分の家族が浄化した場合は、できるだけ家族が浄霊をしていくものであって、他人に頼むものではないんですね。自分が浄霊していくんだと。だから家族が浄霊する場合ですね、相手が具合悪ければ、こうやって柱に寄りかかってでも一晩中浄霊できます。
でも他人であれば、なかなか泊り込んで浄霊するということは、いろいろな問題がありますので出来ません。しかし、家族であれば、一晩中でも二晩で三晩でも、ずっとこういう柱なんかに寄りかかって浄霊すれば、一晩中でも浄霊できます。そして、良くなるまで浄霊できる、ということですね。これが浄霊の有難いところです。
御論文の医者の方では、家族の病気については、自分が診ると予断が入るから、知り合いの医者に診せるというようなことを、メシヤ様は御指摘されているんですけれども、しかし、その点浄霊はなんと素晴らしいことかということが一点あるんです。
(支部責任者;医学は複雑すぎて明確な判断ができないが、浄霊はだいたいの急所さえわかれば手をかざすだけで、明らかな結果の相違があるので大変有難い)
それからもう一点はですね、具合の悪い方がいて、そこに浄霊に行きますけれども、家族が浄霊力をいただいていても・・、昔の話ですと、家族が「おひかり」をかけているけれども、浄霊はほとんどしないという家族がありますね。また、入会をしない未信者家族もありますし、入会しても初心者もいます。こういう場合には浄霊に行ってあげて大いに結構だけれども、しかし、一たびメシヤ様の御教えを読み始めた場合は、段々と、来てもらって浄霊をいただくということは人に迷惑をかけ始めるので、これはまた御守護いただきにくい状況ができあがってきます。
だからできるだけ家族に浄霊をしてもらうということと、それから具合の悪い人は支部に浄霊をいただきに来る。
しかし、支部の責任者から浄霊をあまりいただき過ぎると、支部の責任者が布教できなくなるので、これまた御守護いただきにくいということをメシヤ様は御指摘されていますので、責任者の○○さんに、こういうところを浄霊しなさいということを指示いただいて、誰かそこに奉仕の方がいらしたら、まずその方から浄霊をいただいておいて、そして、その後に責任者の○○さんから浄霊をいただくというふうに、○○さんの仕事が充分できるような体制を常にとっておくということです。
そういうような形をしておかないと御守護いただくようにはならないということをメシヤ様はおっしゃっていますので、自分に当てはめて考えていただきたい、そういう御教え拝読の仕方をしていただきたい、と思います。」
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、『医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。』 と仰っていますが、ここでは拝読をする上で二点しっかり見つめておく必要がある(ことがある)のだということ(下記のような拝読の仕方で自分に当てはめて拝読をするのだということ)。
>先ず一点目は、浄霊というのも、他人任せにしてはいけない(自分の家族が浄化した場合は、できるだけ家族が浄霊をしていくものであって、他人に頼むものではない)のだということ。
>もう一点は、メシヤ様の御教えを読み始めている人の場合は、来てもらって浄霊をいただくということは、その来てくれている人に迷惑をかけ始めるので、御守護をいただきにくい状況になってくるのだということ。
≫御論文では、医者は家族の病気については、自分が診ると予断が入るから知り合いの医者に診せるというようなことを、メシヤ様は御指摘されているが、その点浄霊は他人に頼まなくて良いという素晴らしさがあるのだということ。
≫御守護をいただけるように、私達はできるだけ家族に浄霊をいただくのだということと、支部の責任者に出向いて貰うのではなく、ご自分で支部に浄霊をいただきに行くのだということ(責任者が十分に仕事を出来るような体制を常にとるのだということ)。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
真の仁術医学は、「心の悪癖」を改心させる
楳木先生:
それからですね今読んだところのもうちょっと下に行きますと、『医学が大いに進歩したと言ひ乍ら診断と結果が、実際と余りに喰違ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、』 というふうに書かれておりますね。これは是非ですね、人類の歴史の中の医療とは一体何かということを、もう一度振り返っておいていただきたい部分があるわけですね。
それは、日本に蘭学が入って来るまでの江戸時代初期までの医師は、おおよそ、話を聞いて慰める、というのが医師の仕事だったわけですね。」
受講者:
あっそうなんですか?漢方薬とかは?
楳木先生:
漢方薬は、薬草があって、薬草を煎じて飲ませたわけだから、おおよそ誰でもできることだったんです。医者じゃないとできないという医療ではなかった。それはおおよそ先人の知恵でやっていたんです。
例えば、お腹が痛む時には、「あの草をこう揉んで、その汁を飲んだら大丈夫だ」とか、よくあのヨモギなんかは、ケガした時昔やってたでしょ?傷に塗っておけば、傷が大体治ってたということで、おおよそ年配の方々はみんなしてたわけなんだからね。
医者というのは、相手の苦しみを「そうか、そうか」と言って聞きながら、「しかし、お前なぁ、お前の家は、お父さんに対してこうだろう、お母さんに対してこうだろう、だからお前こんなことになってるだろう」というようなことを指摘しながら、「それを改めていきなさい」というような話が多かった。
それは何故かというと、今みたいにですね、例えば「今から病院に行ってくる」と言って、タクシーを呼んで30分くらい乗ると、何kmくらい走りますかね?」
受講者:
30キロくらい。
楳木先生:
まぁ2、30kmくらい、車で30分ね。しかし、20km先まで歩いて行くとなると、何時間くらいかかると思いますか?」
受講者:
20km先まで歩くとなると、3,4時間はかかるんじゃないでしょうかね。
楳木先生:
5時間くらいかかりますね。そうすると病人は5時間かけて医者のところに行くことになりますが、おおよそ江戸時代の人達は、町の中心にいた人達しか医者に診せに行ってない。そうすると、田舎の方の人達は、ほぼ医者には診てもらってないわけですので、「お前さんな、こういう時には、この草を煎じればいいんだよ」という程度でずっと過ごして来た。そうしたことが、江戸時代までのおおよその医療(養生法)です。
もっと遡っていくと・・、先月も自然宗教と創唱宗教というのを話しましたね。」
支部長代理:
他支部でですね。
楳木先生:
もう原稿をいろいろ読んでいるもんですから、どこで話してるのか忘れてしまってね。」
支部長代理:
三重支部ですね。
楳木先生:
三重支部でね。まぁ自然宗教というものの成立と教えを垂れて宗教を立教するという創唱宗教という話ですね。自然宗教というものに関連して祈祷師という人の役割というのを話したことあるよね。」
支部長代理:
浄霊と祈祷ということでのお話はいただいたと思いますけれども、祈祷師そのものをというのは…。
楳木先生:
いやいや、自然宗教の中で…。
受講者:
三内丸山遺跡とかね、残っている遺跡に、そこに祈祷師がいて、というお話はしていただいたことがあります。
楳木先生:
あ~そうそう、原始時代に、今の話と同じで集落がありますが、そのテリトリー(範囲)というのはですね、夜が明けて歩いていって、日が沈むまでに帰って来れるところが、集落のテリトリーですよね。帰ってこれないと、向こうで泊らないといけない・・、泊ったら、真っ暗闇ですから、何に襲われてしまうかわからないですから、歩いていって帰って来るところが、その集落の言わば陣地みたいなところなんです。だから、縄文時代の生活圏ということですね。そこで、集落では、その一番長になる人が、いろいろ決めごとをするわけです。
「あの山より向こうに行ってはいけない」とか、「あの沼には絶対近付いてはいけない」とかですね。どこが底なし沼になっているのかさえ分からない場所もあるわけですからね。しかし、決めごとをしても、15歳くらいになった時には、「しかし向こうに行ってみたいよね」とか、仲間同士で話したりして、密かに夜明け前から出ていって、向こうの方まで行くと、その頃はまだ猛獣毒蛇がいたので、噛まれたりして帰って来る。仲間に担がれて帰って来た時に、長達はすぐに治療をしないで、「この子は何故こういうふうな目にあったか」ということを昏々と説明して、「二度とあそこまで行ってはいけない、それをみんな誓えるか?」というふうにして、そこの集落何百人かが「誓えます」と言ったら、薬草を煎じたり、毒を抜いたりしながら治療していって、そのように村を守っていっていくというのが、ずっと積み重ねてきておりますね。
だから医者もその延長線上で、人の生き方というのを充分方向を示しながら、病気にならない、問題が大きくならないように、ずっとやってきたという歴史が日本の中にはあるわけですね。
そこへ蘭法、蘭学が入って来て、切ったりするようになったわけです。
そういう歴史があるので、我々の御神業というものをもう一回見た時に、浄霊が出来て御守護いただくということと同時に、この体の悪さはどこから来てるかという、生活習慣とか一日の生活とかをみて、そのことに対してアドバイスをして改善をしてもらわないといけないということがあります。
それから医学の世界で最近分かってきたのは、対立的な感情をいつも持っていると心臓が悪くなるということが、だんだん解明してきております。
だから心臓を悪くした人の浄霊は左肩と心臓を浄霊するということで、一旦は良くなるけれども、また心臓を悪くすることが起きるので、そちらの方の精神面もアドバイスしてあげないといけないわけですね。それで2回目また心臓を悪くして浄霊にきた時は、今度は神様を道具に使うということが起きてきますので、同じ具合の悪さというのが何度も起きてくるときには、生活を改めていかないと御守護をいただきにくいことがあるので、そうしたことを改めていかないといけないということがあります。
実はこういう積み上げをしてくのが、メシヤ様の信仰をしていく上には最も大事であるんですけれども、世界救世(きゅうせい)教はそっちの取り組みを疎かにしてきました。ましてや、その世界救世(きゅうせい)教から分かれていったところの教団は、もっと疎かにしている部分がありますので、そうしたものをこの御論文を拝読をしながら見つめ直す時期を迎えているんだ、というふうに受け止めていただきたいと思います。」
(後文割愛)
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎メシヤ様は、『医学が大いに進歩したと言ひ乍ら診断と結果が、実際と余りに喰違ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、』 というふうに仰っているので、ここでは人類の歴史の中の医療とは一体何かということを、もう一度振り返っていただきたいのだということ。
>江戸時代初期(日本に蘭学が入って来る)までの医師は、おおよそ「話を聞いて慰める」というのが医師の仕事だったのだということ。
≫漢方薬は、薬草があって、薬草を煎じて飲ませたわけだから、医者じゃないとできないという医療ではなかった(先人の知恵でやっていた)のだということ。
◎蘭学が入って来るまで、医者は原始時代の集落での生活等の延長線上で、人が病気にならず、問題が大きくなったりしないように、人の生き方の方向性を充分に示しながらずっとやってきたという歴史が日本の中にはあるのだということ。
>上記のような歴史が医学にはあるので、私達も私達の御神業というものを振り返って見た時に、浄霊が出来て御守護いただくということと同時に、その浄化の理由を考え、それに対してアドバイスをして改善してもらわないといけないということがあるのだということ。
≫それから対立的な感情をいつも持っていると心臓が悪くなるということが、医学界ではだんだん解明してきているのだということ。
≫心臓を悪くした人の浄霊は、左肩と心臓を浄霊するということで一旦は良くなるけれども、再度、心臓を悪くして浄霊にきた時には(今度は神様を道具に使うということが起きてくるので)、同じような具合の悪さが何度も起きてくるときには、御守護をいただけるように生活態度を改めていかないといけないのだということ。
◎メシヤ様を信仰していく上に於いて、この(上記の)ように積み上げをしてくのが、最も大事なことなのだということ。
>しかし、世界救世(きゅうせい)教はそのような取り組みを疎かにしてきたところがあるので、私達はこの御論文の拝読をしながら、「疎かにしてきた取り組みについて見つめ直す時期を迎えているのだ。」というふうに受け止めるのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
布教訓・・・「自己研鑽」を積み重ねる
受講者:
私、職場の人とか声かけたり浄霊の話をするんですけど、血圧の高い人で、結構薬飲んでる人がいるんですが、医者からは血圧の薬を飲み始めたらずっと飲まないといけないと言われるんですが、それで「やっぱり薬を止めるのが恐い」と。浄霊を何回かしているんですけど、ある人が血圧の薬を1回飲まなくて、それで倒れて半身不随になった人を見てるから、「そんなん怖いから、薬はよう止めん」と。その人は今手を引いているんです。
他の人に声をかけた時に、やっぱり血圧の薬を飲んでいるので、浄霊の話をしても、「そんなんうそやろー」と。私も浄霊の話をする時に、どうして血圧が高くなっていくのかとか、病気のことをよく知った上で浄霊の話をしていかないといけないし、浄霊する場合も浄霊の急所とかもありますよね。これからよく知っとかないとなかなか人を救うことができないなぁと思うんですけどね。聞いたらだいたいリュウマチの人でもそうですけど、1回薬飲みだしたらずっと飲み続けないといけないんや、と言うんですね。
楳木先生:
いや、言うんじゃなくて、それはお医者さんが言うんですね。その人はそういう医者にかかって思いこまされてるんですね。」
受講者:
あ~そうですか、お医者さんが言うんですか。だから医学の迷信にみんな陥ってしまってね、実際に浄霊の話しても、そういうふうにみんな迷信みたいにね。病気のことを、5大疾病ありますけどね、一つずつでもいいから、血圧のことなら血圧のことを少しでも勉強して取り組んでいかないとダメだなぁと思うんですよね。
楳木先生:
うん、少しずつ勉強して下さい。」
受講者:
はい、いっぺんには出来ないけど、少しずつね。
楳木先生:
いや、毎日勉強して下さい。少しずつね。
受講者:
はい。
支部長代理:
今、支部の本を借りて1冊ずつ頑張って勉強していってますね。
楳木先生:
あっそう。」
受講者:
だからちょっとぐらいですけど、分かったな、と。完璧には血圧のこと分からないけど、血圧の薬を飲むと、動脈硬化になる率が2倍に増えるということも書いてあったしね、だから結局薬が病気を作っていくんだということね。
楳木先生:
だから実は浄霊の話をしても、相手は不安がって、そして薬は止められないという、そういう現象を見た時に、実は自分にとって一番の勉強なんだという姿勢を持っとかないといけない。だから、やりにくいという考えはさらさら持たないでもらいたい。
今の世界全人類、医療が進展しているというところの庶民ほどそういう状態に陥っているわけだから、そういう陥っている実態を一つ一つ確認できるんだと。
“入会してもらおう”とか、“メシヤ様の教えを分かってもらおう”ということが強すぎると、“困ったもんだ困ったもんだ”の考えばっかりになっていくので、そういう人に浄霊の話をしてあげて、向こうの反応を見ながら、“すべては自分の魂を育ててくれる材料だ”と、“自分の学びの材料だ”という想いでね。そして、そういう本をしっかり読んでいくと、自分自身を完成させていくということだから、“向上させていく”という姿勢をもっておいていただきたいと思いますね。」
(後文割愛)
責任者:
ここまでで御教示いただいた要点を以下に併記(特に重要だと思われる御教示は◎に)いたします。
◎浄霊の話をしても、相手は不安がって、そして薬は止められないという、そういう現象を見た時には、これは自分にとって魂を育ててくれる一番の勉強なんだという(向上させていくという)姿勢を持って取り組んでいくのだということ。
「メシヤ講座no.131大阪(平成23年12月分)」より抜粋つづき:
布教訓・・・「偏見」で相手を見放すな
受講者:
まぁその血圧の本読んで、ちょっと知識得たことをね、血圧が高いから薬飲んでるという人にちょっと話したら、「そんな医者もおるんかなぁ」と、「それ嘘やろー」と言うんですね。その人はなかなか信じられない人やなぁと思うんですけどね。
楳木先生:
だから、それはそういう信じられない人というようなところに限定してしまわないで、“そういう角度からもう1回本を読んでみよう”と。その人と1週間に何回か会うとしたら、その人と会う度に“自分の学だ”と思って、“自分の中に御教えを中心とした考え方を構築していく学びだ“という想いをもってね。そうでないと“どうもうまくいかんなぁ”という話になってしまうから、だから、“どうもうまくいかんなぁ”というそういう考え方をもたないように。もう、絶好の勉強の場だからね、そうでしょ。インターンみたいなものだからね。」
受講者:
その人の妹さんに1分ほど浄霊したら、「楽になった」というんですけど、その人と会う機会がないから、代表先生の浄霊の体験記のコピーをとって、「渡しといてね」と頼んだんですけど、「まだ渡してない」と。「また浄霊させてもらおうか」と話してた妹さんの家に電話をかけたら、ちょうどそのお姉さんがいて、「『浄霊はいただかんとき』と言った」と。
楳木先生:
だからそういう人と取り組みながら、自分の頭をもう少し柔軟にしていただきたい。どうしても自分の頭の中で決めてかかっていくことがあるので、これを柔軟にして、“メシヤ様とご縁がある人であれば、必ずやがてメシヤ様のことを分かっていただける”と、そういう姿勢でね。頭を柔らかく柔らかくしながら相手と話をしてほしい。それは、『頑なな偏見』ということが先月の御教えの中にあったでしょ?“頑なな偏見が自分の中にないか?”ということを絶えず問いかけながら、その人との話を積み上げていっていただきたい。
要は、自分が『夜の時代』に身に付けた精神の癖を全部取って行かないといけない。そうしないと自分すら地上天国に住めないということになってしまう。これはメシヤ様が、下から押し上げるよりも、上から引っ張った方が簡単だぞ、っとおっしゃっているでしょ。だから自分が天国になった方が人を多く救えるわけですから、どうか、天国天人を目指して、頭をできるだけ柔らかくしていっていただきたいと思いますね。」
布教訓・・・「救いのタイミング」を逃すな
受講者:
ちょっとお聞きしたいんですけど、血圧で倒れて半身不随になった人ですけど、その人に浄霊のことを伝えたいと思うんですけど、そういう人どうでしょうね?
楳木先生:
いや、いただくとしたら、ものすごい可能性はあると思いますよ。」
受講者:
あ~もう半身不随になって1ヵ月か1ヵ月半は経っているんですけどね。その人とは全然出会わないし、仕事も止めて、入院しているんですけどね。
楳木先生:
まぁ、1ヵ月経っていると、ちょっとなかなかなんだけど、実はそういう話が入った時に、すぐに飛んで行くのが一番いい。」
受講者:
向こうから、何も言われてないし、みんなから一方的に聞いた話だけなんですけど、1度話してあげたいと思ってるんです。
楳木先生:
いや、それは話してあげるというよりも、浄霊しにいくということが一番大事なことです。」
受講者:
そうなんです。やっぱりその人の電話番号を職場の人に、「また教えてね」とはお願いしているんです。
楳木先生:
だから耳に入った時が、すぐに動かないといけなかった時なんです。メシヤ様が指示くれてる時が、耳に入った時だから、それはすぐ動かないといけなかった。「電話教えてね」じゃなく、自分から調べて、訪ねていってあげるべきだった。「こういう風に聞いて、私御浄霊というのができるんですけど、させてもらえますか」と。それで相手が「そういうのは結構です」と言えば、「じゃあ、分かりました」と言って、「ごめんなさいね、大変な時に」というふうに言って引けばいいわけです。動かないといけない、そういうのは。
(後文割愛)
責任者:
ここでは御教示いただいた要点にアンダーラインを引きましたので、各自確認をしていただきたく存じます。
編集後記
責任者:
現代医学は進んでいると言われていますが、御執筆当時(昭和27年)と比べ、病気は減らず逆に増えているのではないかと思います。この御論文は「医学を誹謗するということではなく、どこまでも真の医学をみんなに目指してもらいたい。」という御心でメシヤ様は御執筆下さいました。私達はメシヤ様からいただいたその御心を、決して忘れてはならないのだということを今回の学びで再確認出来たのではないでしょうか。
そして、資料の終わりの方で、「御教え」と「浄霊」のお取次をさせていただける機会が巡って来た時のための心構えと、日々研鑽を積み重ねていくことの大切さ等の私達にとって貴重な御教示をいただきました。「千里の道も1歩から」という諺がしめしているように、地道な努力を積み重ねていくことで、やがては「目的に近づくことが出来る。」、「目的を達成できるのだ。」という強い思いでこれからも皆様と共にコツコツと学んで参りたく思います。少しずつ日脚が伸びてくる頃となりましたが、もう少し寒さは続きます。どうぞご自愛くださいませ。有難うございました。
※責任者より
引用したメシヤ様の御教え、「メシヤ講座」は当時の文章をそのまま抜粋させていただいています。下線や太字の表記、()内の表記、御教えの典拠は、責任者が加筆しております。ご了承ください。
引用した「メシヤ講座」全文はこちらからご覧いただけます。