御講話(昭和28年6月1日)

『御垂示録』21号、昭和28(1953)年6月15日発行

最近名古屋の新聞に出たことで、私は題だけで本文は読んでませんが、やっぱり病気で医者にかからないで死んだという、時々あるような問題をデカデカと取り上げていました。これから浄化が強くなるに従って心得ておかなければいけないことは、治りが早いことと、死ぬのが早いことで、そういうようになってきます。とても治るまいと思うのが案外治ったり、まだ大丈夫だと思っていたのがポカッと死ぬということが出てきます。それで邪神のほうでは非常なあがきを始めますから、つまらないことでも問題にしようとして狙ってます。そこで治れば黙ってへこんでしまいますし、ちょっと命に関わるようなことがあると、それこそ“それ見たことか”というので、大いに取り上げたり、問題を起こしたりしますから、その点において特に注意してもらいたいと思います。

「三重県で出ました記事ですが、私はぜんぜん浄霊したことはありませんが、私がしたように書いてありまして、そこは父親と兄弟二人の三人が入信しておりますが、兄が入信することになって教会に来ておりますときに、弟が船に乗っており、その船が衝突して船首にいた弟は腰を打ち、皆が医者に連れて行こうとしましたが、本人が頑張って家に帰りました。兄は医者に酷い目にあってこちらで救われております。教師が浄霊を続け、家族の者もいたしましたが、はかばかしくないということを聞きましたので、医者にみせるように言いました。死亡後医者を呼びましたが、すぐ来てくれず、他の医者に手をまわしましたところ、前の医者が警察の人を連れて来たそうです。」

『腰を打ったくらいで、そういうことになるのはおかしいです。』

「尿がぜんぜん出なくなったそうでございます。以前に尿道炎、膀胱炎で固めておりますとかでございますが。」

『しかし腰を打ったくらいでそんなことがあるわけがありません。浄霊をした人は今日来てますか。』

「教師が二人でいたしておりましたが、今日はまいっておりません。」

『そういうことがあれば、今日はなおさら来なければいけません。どういうわけで死んだかということを質問に来なければなりません。それを来ないということは解せません。そんな人は教師を止めたほうがよいです。これはどういうわけで死んだのかということを質問にくるべきではありませんか。それが何よりも肝腎なことです。今日来ないということはどうかと思います。この間も“理屈に合わないことはいけない”と、あれほど言ってあるのですから、そういうときこそ“どういうわけで死んだのか”ということを聞きにくるのが理屈に合っていることではないですか。それを来ないということになると、このくらい理屈に合わないことはありません。そういう人は当分遠慮してもらうことです。そうして大いに責任を感じてもらうのです。なるほど自分が悪かったということに気がついたらお詫びにくるのです。さもなければ、私としても、そんな無責任極まるような人に教師として宣伝してもらうということは困ります。そのことを知ったのはい つですか。』

「二十七日でございます。」

『浄霊した人にいろいろ聞きましたか。』

「出て来ませんので。」

『呼んで聞けばよいのです。そうして今日連れて来て、私に詳しく話をすべきです。これは重大問題です。あなただって、どういうわけかを聞きたいでしょう。そうするとあなたも無責任です。はなはだ理屈に合いません。やっぱり神様は、ボヤボヤした人や、とぼけたような人はキュッとやられるのです。だんだん時期が進んでくるに従って神様はやかましくなってきます。やかましくといったところで、べつに無理や理屈に合わないことはないのです。人間のほうが理屈に合わないのです。それをチャンと戒告されるのです。なにしろだんだん医学のほうはギュウギュウと押しつめられるから、先方でも何とかしなければならないというので、こっちの欠点とか問題になりそうなことをいろいろ狙いつめてますから、なかなかウッカリしてはいられないのです。どんなことがあってもチャンと理屈 が立つように心掛けていなければならないのです。そこは家族で反対する者はなかったですか。』

「ございませんでした。」

『警察には誰が行ったのですか。』

「医者が連れてまいりました」

『それは医者にかからないで死んだら検死をしなければならないから、それが当たり前です。そういう規則になってます。医者が警察に知らせるということは当たり前です。死ぬということは、その前によほど重体になってましたか。』

「尿をぜんぜん排泄しなかったそうでございます。」

『それならすぐに医者を呼ばないということはないではないですか。それははなはだ間違ってます。それは問題にされるのはしかたがありません。そういう問題を起こした不注意を、問題を起こした浄霊の担任者は、一刻も早くお詫びにくるのが本当です。今日はこういう会合があるのにぜんぜん出て来ないということは 問題になりません。そういうのは教師を止めなさい。それが新聞に出たためにどのくらい影響するか分かりませんから、自分が過ちを犯して、どのくらい神様に御迷惑をかけたか分かりません。その責任を感じて一刻も早くお詫びをせずにはいられないはずですが、それを来ないということは、それだけでぜんぜん信仰も何もありません。贋信仰です。また、それに対して、あなたが大いに言わなければならないが、それに気がついたかどうか知らないが、まあ気がつかなかったの でしょうが、気がつかないで家を出てくるということも感心しません。この頃いろんな注意を時々していますが、やっぱり御神書の読み方が足りなかったり、私の言うことを気に止めなかったりするからです。救世教というものがだんだん発展するに従って、世間から注目されます。大本教のお筆先に“抜身の中にいるような気持ちでなければならんぞよ”というのがありますが、よく政治家などが“ガラス張りの中にいるような”と言いますが、ガラス張りの中といるというよりかもう一層強めたものです。抜身の中にいて、スキがあったら切りつけられるというくらいの気持ちでなければならないのです。やはり一つの戒告ですから、やはり神様はその人だけの注意でなくて、やはりそういう見本を作って他の全部の人に知らせるということです。ついこの間も“合理的でなくてはならない、理屈に合わなくてはいけない”ということを言いましたが、それほど危なくて重体であるにかかわらず医者を呼ばないということは、とんでもないことで、理屈に合わないことです。チャンと理屈に合うことをしていれば何でもなかったのです。そういうことが問題になって新聞に出たりすると非常に悪影響をします。神様の御神業に対するどれほどのお邪魔になるかわかりません。百のよいことを一朝にして覆(くつがえ)してしまいます。またあれに出たことが非常に響きます。そういうことが入信者が増えるに対して悪影響するのが数字の上に実によく現れています。だからそれこそ、べつに命に関わらないような病人はよいですが、少し危ない病人は腫れ物に触るような気持ちで、神経過敏になってやらなければならないです。いくら一生懸命にやっても、そういう問題を起こしたら、今までの功名を抹殺して、まだもう一層余りあるというくらいのものです。それで“自分はとんでもない間違いをした、一刻も早くお詫びしなければならない”というような気持ちがあるような人なら、そういう問題は起こりません。そういう問題が起こるというのも、今日も来ないというトボけた心の状態だから、そういう問題を起こすということになります。それからまた渡辺さんが、こうして私が注意を与えなければならないということは、あなたが平常から下の人にチャンと、そういう浄霊と医者関係に対しても注意を与え、教えるということがおろそかだったのです。それに対しての神様の戒告です。それと共に、他の人の中にもそういう人があるから、これを一つの注意の資料として、今渡辺さんがその道具になったという意味にもなるのです。だからそれによって渡辺さんの今の罪が、一つのよい働きをしますから、それで渡辺さんは罪を消されるというわけです。だからすべてが相応の理によって、理屈に合うということになるのです。だから今後は、誰でも問題を起こさないようにという考えでいるには違いないが、一層問題を起こさないようにすることです。

それについて、今の話はそうでないようですが、一軒の中に反対者がある場合にはよほど注意しなければならないのです。今まで問題を起こしたのは、ほとんどそれが多かったです。医者にかかれと大いに言うにもかかわらず、かからないで死んだりすると、それ見たことかと、それを土地の新聞に投書するとか警察に投書するとかして問題が起こることが非常に多いのです。ですから一家の中に反対者があった場合には医者にかけることです。そうしておけば、間違ったときにも問題が起こりませんから、ぜひ医者にかけなければなりません。今の弟の話なども、家の者は信仰にはいっていたからそうでもないが、周囲の者が言ったに違いありません。』

「同船していたものが非常に騒ぎました。」

『だから、やっぱりそのとおりにやればよいのです。腰を打ってから死ぬまではどのくらいでしたか。』

「五日くらいでございます。」

『それでは充分に医者にかける時間はあったのです。それは腰を打って内出血をして、それが下に溢れて固まった所が、膀胱から尿道に行く道に固まったのです。そうして浄霊する人は腰ばかりやっていたのでしょう。だから見当違いをやっていたのです。』

「腰と後頭部をいたしたそうでございます。」

『それが見当違いです。』

「腰が曲ったままで、見当をつけてするよりなく、横からも後からも浄霊ができなかったそうでございます。」

『そうすると、痛んで腰を曲げられなかったのですか。横にも寝られなかったのですか。』

「帯で身体をつっておりました。」

『それほどなら、無論医者に行かなければならなかったのです。』

「医者にみせるようにとは言いましたが。」

『言っただけでは駄目です。実際にかけなければ駄目です。そういうのは本人の承諾もヘチマもないのです。医者を呼べばよいのです。それで後、本人が嫌がるのは構いません。だから何としても間違っていたのです。それは医者を拒絶する場合と、拒絶してはいけない場合との区別があります。それを一緒にしてしまってはしようがないです。浄霊を担当していた人は何という人ですか。』

「桑名支部の泰と申します。」

『そこの支部長は誰ですか。』

「水谷光映でございます。」

『水谷という人は来てますか。』

「まいっておりません。」

『駄目ですね。問題が起こったのはいつからですか。』

「二十七日からでございます。」

『いくつの新聞にでましたか。』

「毎日と中日の二つでございます。」

『もう一つ問題があったのではありませんか。』

「岐阜の専信中教会のことでございますが、医者が行かないうちに死んだということで、もう一つ一緒に出していたのは、一月のことで教師の家で精神病となり帰れず、医者にもみせて、問題はありませんでしたが、それを新聞に取りあげておりました。」

『しかし、それは何かあったのです。何もなくてあるわけがありません。初めの問題は何支部ですか。』

 

「専信会でございます。申しわけございません。十三の子供ですが、私はその子は知りませんが、母親は昨年入信し非常にお蔭をいただき、今年になって非常な御浄化をいただき、これもお蔭と喜んでおりました。死亡する三、四日前から子供の具合が悪いということを言ってましたが、私は相談を受けまして脳炎らしいから医者にかけなさいと、医者まで紹介しましたが、その医者が具合が悪くて近所の別の医者を頼んだところ、急性化膿性脳炎で手の施しようがないと言ったそうです。また隣と前の家が薬局で、前に母親がこちらでなおったのを目の敵にしていたそうですが、子供が亡くなったので、それ見たことかと新聞で騒いだのではないかと思います。」

『そうすれば新聞社がけしからんですから、名誉毀損で告訴したらよいです。ちょっとでも向こうが間違っているということは、むしろ逆にこっちで問題にしてやったらよいです。それでもし新聞社が薬局の投書でやったのだとしたら、薬局も訴えたらよいです。そうだったら、ぜひそうしなさい。』

『それから一月の問題というのは何日の新聞ですか。』

「五月二十九日頃でございます。」

『何と出てましたか。』

「精神病がお祈りによって死んだというようなことでございます。」

『精神病では死なないものですが、他に何かありましたか。』

「非常に衰弱しておりました。」

『投書か何かあったのですか。何かなければ新聞社はわかるわけがないでしょう。それなら新聞社にどうしてこういう記事を出したかということを調べるのです。これからますます浄化が強くなりますから、衰弱なども非常に早いのです。そうしてまだと思うような者がポカッと死んでしまうことがだんだん増えます。その代わり、一方なおるのも早いです。だから大いに警戒しなければいけません。三つも問題を起こすということはたいへんなものです。これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になります。つまりみんな邪神に負けるのです。負けるということは、それだけタガがゆるんでいるのです。こっちがチャンと知っていれば、邪神のつけ込むスキがないのです。やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち込むのですから、抜き身の中にいるつもりでいなければ、いつ抜き身でやられるか解りません。しかしこれは薬になります。少しタガを締めてもらわなければいけません。それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはできるだけ医者にかけさせる方針にするのです。それより他にしようがありません。医者にかかることと問題を起こすことはどっちが悪いかというと、問題を起こすほうがずっと悪いので、医者にかからせたほうがずっとよいのです。問題を起こさないということが第一です。ちょっと危ないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけるか、さもなければ手を引いてしまうのです。病気がスラスラとなおってしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラといかないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。ですから和戦両様の準備をしなければいけません。死んでも問題は起こらない、助かれば結構だ、というどっちに行っても問題は起こらないというやり方にするのです。これはあらゆることがそうです。アメリカの立場にしても、平和になっても戦争になってもどっちでもよい、というやり方をアイゼンハウアーはやっているのです。ところがイギリスのチャーチルのようなのは和平になるという考え方が非常に濃いですが、これは国が弱っているからしかたがないことではあります。どっちに転んでも間違いないというやりかたが一番よいのです。そういうずるいやり方が一番よいのです。正直なやり方が馬鹿なのです。これからはそういうずるいやり方でやることです。ちょっと変だと思ったら、まず医者に見せるのです。 注射の一本や二本うっても別に大したことはないので、差し支えありません。注射が悪いと言っても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えればそれでよいのです。本人がまたかかりたいというのならしかたがないので、そうなったら手を放すとよいです。いつも言うとおりあせりと無理がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。

よく“この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける”ということは人間の考えです。ところがそういうことで開けるということはまずありません。かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつかって来たということは、神様は“助けよ”という思し召しだと考えるのです。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというようなことがありますが、それが将来案外な働きをするものです。“この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう”とするが案外駄目です。そういうことが多いです。これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。むしろそういう人のほうが多いです。だからぶつかって来た人は、なおせという思し召しで、フラフラになるのは放ったからしておけという思し召しです。だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。今の場合に、皆が医者にかかれかかれというのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。“あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ”と頑張るのはとんでもないことです。そしてこういうわからず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。そこが大乗と小乗との違いです。だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。それを“あいつはああいうことを言う”と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。ですから私は女中などが“こうしたほうがよい”とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。決して人によって区別したりしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。それからまた邪神が偉い人にかかって迷わせるということもありますからそこに言うに言われないところがあります。

よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、そうすると狐に瞞されてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。狐に瞞されたほうがよいのです。いろんなことを言いますから、“そうかなるほど”と言っているのです。それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はペラペラと返事をします。そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出してきます。それで狐は謝るのです。私はそういうことがずいぶんありました。瞞されるものかと思っているときは、かえって瞞されたり怒ったりするのです。狐がぜんぜん嘘のことを言っていても、“そうですか”と感心して聞いているのです。そうすると狐のほうで間違ってしまうのです。これは実に味わうべきことです。そうしていたらなんでもありません。すべてに結果がよくて円満に行きます。そこが大乗でなければならないのです。ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。なるほど、そうですか、と感心しているのです。しかし肚の中では分かっていなければなりません。そこまで人間は横着というか、そうならなければならないのです。道具屋が来て私を甘く見て、“これはこういう物だ、これは贋物だ”と言うから、“そう言えば全くですね”と言うが、肚の中では何を言ってやがるのだと思ってます。これは馬鹿野郎だな、オレがそんなことを知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。そうしているうちに、“うまいことを言う、なるほどそうだな”と教えられることがあります。支那の何とか言う人は “人によって話を区別するな”ということを言ってます。つまらない人足か、それこそ百姓などが言うことで非常に教えられることがあるのです。ですから人によって区別をしないようにすることです。何でも自分に耳にはいったことは一応気に止める必要はあるのです。また子供に教えられることがあります。これは経験があるでしょうが、子供がとてもうまいことを言います。ちょうどベルグソンの直観の哲学と同じようで、子供は本当の直観ですから、素晴らしいことを言います。母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の言うことが本当の場合がよくあります。ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起こらないのです。病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、“それは結構だ、全くそのとおりだ”と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。“私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ”というように言うのです。それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持ちがあったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化です。ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱というか、それです。だから人間は、難しいことですが、アクが抜けな ければいけないです。いつも言うとおり、たいていなことは負けるのです。議論とか、そういういろんなことは負けるということです。これが一つの修行です。先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢できるようになる修行です。これが本当の生きた修行です。それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。いずれは必ず先方が悔悟なり分かるなりして謝るとか、あるいはそれがもしか分かることになると、今度はこっちを非常に尊敬します。あの人は偉い、オレが前にあんな下らないことを言ったが、それを真面目に聞いてくれた、よほど腹ができているに違いないと、それからは信用することになります。

今の問題を動機としてこういう話がでましたが、私はこういう話をしようと思ったのではないので、自然に出て来たのです。しかしこういうことによって大いに教えられるわけです。そこでこの失敗がよい働きをしたことになり、そこでその失敗を神様のほうでよいことにしてくれるわけです。そうすればその働きによって、その罪が消されるということになります。だから、信仰も、とにかく大乗的に考えて行けばすべてにうまく行きます。うまく行くから発展もするというわけです。それに神様のほうはなかなか深いのです。それは神様のほうばかりでなく、世の中のこと一切が実に何とも言えない面白いものがあります。人間はそこまで分からないから迷ったり苦しんだり怒ったり、見当違いなことをよいと思ってやることになります。大本教のお筆先に“あんな者がこんな者になり、こんな者があんな者になる仕組であるぞよ”というのがありますが、実に簡単で何とも言えない味わいがある言葉です。ですからいつも言うことですが、医者のために苦しんでいる人を見ると、医者に対しての憤激もずいぶん起こります。しかし医者がそういうように病気をなおすことが下手であればあるだけ、こっちの値打ちがあるのです。だからもし医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それで済んでしまうから宗教になどくる者はありません。そうしたらこっちの人の活躍する所はありません。だからお医者の下手なのに対して大いに感謝してよいです。ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類から病気をなくすることだと言ってますが、人類から病気がなくなったら、お医者さんはメシが食えないことになります。そこで考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。何でも神様に お任せすればよいということも真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるということも必要なのです。とにかくそこの使い分けで す。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗のほうが主になってはいけない ので、大乗のほうが主になって、小乗のほうが従にならなけばなりません。その使い分けに難しい所があり、言うに言われない面白味があります。いつも言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、一日のうちに二、三度着替えることがありますが、私はそれが一番よい陽気だと言うのです。どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。そういうようなもので、人間というものは、何でも不平に持ってくるのです。それでは何事も満足するとよいかというと、満足したら進歩がなくなります。そこで不平も必要になります。要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしませんが、しかしうまくあんばいし、使い分けて進んで行くのが本当です。自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでも一方が勝てば、そのほうに行ってしまいます。不満のことも起こるのだから、不満のこともよいです。それからまた一方満足もあるから、それもよいのです。それから病気で苦しんでいるときに、命が危ない、このままではどうしても死ぬよりないというときに、これはいくら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、なおって、だんだんよくなってきて命の心配がなくなると、今度は欲が力をつけてきて、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという欲が出てくるのです。そうしているうちにいつの間にか、助かりさえすればよいというときのことを忘れて、欲を出すということは、誰でもあることで、私なども経験があります。それは最初の病気のときに考えたことも本当なのです。それからそういった欲が出るのもやむを得ないのです。ただそこのところをうまく程のよいということです。人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一もお礼をしないということもあるので、そこでこの間再浄化ということを話したり書いたりしたのです。そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。そこで 「程々」ということが伊都能売(いづのめ)になるのです。私は以前読んだことがあるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字 にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現してあります。「程」という字は大したものです。伊都能売ということの働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。それで「程」ということは、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、ちょうどよい所に収めるというそれをよく現してあります。あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいということになります。ところが その程がよいという人はまことに少ないので、たいていはどっちかに片寄ってます。だからそれで失敗したりうまくいかなかったりするのです。今日は珍しくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまりやりませんが、 やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そういう意味においてたまにはよいと思って話をしました。では質問をどうぞ。