「御垂示録」22号
昭和28(1953)年7月15日発行
一番の事は智慧正覚です。いろんな事が分る事です。分ると言っても間違った分り方ではいけません。その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体なるほどと思えれば、それは智慧正覚が大分上っているのです。どうも分らないというのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智慧正覚が向上しているのです。病状を見て、この人はこの病気だという事を当てれるのは、余程智慧正覚が上ってなければならないです。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分る、というのなら智慧正覚が向上しているのです。
(昭和28 年7月1日、特別御面会)
「御教え集」24号
昭和28(1953)年8月15日発行
何でも急所です。処がこの急所を外れている事が多いのです。これは病気ばかりではないので、日常の事や話や、いろんな事、又宣伝の工合でも、人が〝信仰にはいろうか、どうしようか〟と迷っている時に急所をピタッと言えば、〝では、はいろう〟という事になりますが、その急所を見付けるのがなかなか難しいのです。併し、その人の智慧正覚が進むと急所の発見が早くなります。
どんな事でもその急所をやる事です。それから急所が見付からない時に、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから不断心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見付かるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。これはあなた方でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人間人生の最大の条件です。
(昭和28年7月5日、御講話)
人間は急所の発見が出来るような頭を作る事です。信仰もその修業です。救世教というものは☉ですから、今まではみんなこれを分らなかったのを、これを分りこれを主にして救うという事が根本なのですから、そういった頭で物事をみたり、いろいろやったりすると素晴らしいものです。これはなかなか難しいですが、せめて急所に近い所が直ぐ分るようになれば結構です。
(昭和28年7月5日、御講話)
理屈に合わない事はいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき条件が理屈に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。これはこの前話したから大体分っているでしょうが、その理屈に合わない事の一つの条件というのは、神様のことを知った人と全然知らない人とは大変違うのです。知らない人は大変無礼な事をしても、これは知らないから許されます。処が信仰にはいって相当たって、知っているはずのところの人が理屈に合わないと御蔭がないわけです。そういう事もよく考えるべき事です。やってみてどうしても思うようにゆかないという事は、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事はごく少ないので、本当は急所をはずれている事と条件が理屈に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。それはその人の智慧正覚です。だから先ず智慧正覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧正覚が磨けると急所の発見が早いのです。これは何事にも非常に関係があります。だから信仰に関係のない事で、大きく言えば、政治、経済の事でもそうです。偉い人がいろいろやってますが急所を外れている事が非常に多いのです。
(昭和28年7月6日、御講話)
「御垂示録」22号
昭和28(1953)年7月15日発行
「十七才の女学生でバレーの選手ですが、急に体中が引きつり、名古屋医大にて舞踏病と言われました。肩から延髄の右に物凄い固まりがあります。光明如来様は御奉斎致しており、母親とその娘が入信しておりますが、主人はまだでございます。周囲の事情により入院をと言われておりますが、奥さんは病院に浄霊に来てくれと申します」
『絶対にいけません。そういう事をあなたが私に聞くという事がおかしいです。そんな事は今まで知らなかったという事は変です。大体病院に行ってやるという事は、先方ではお医者さんにお任せしたのだから、こっちがやる事は間違っているから、やらないのが本当です。ただ何かの事情で病院に行ったが、本人がもういやだ、神様にお願いしたいと言うし、また側の人で反対する者がないという場合は行ってもよいですが、一人でも反対する者があるのは駄目です。そこの主人公が、とんでもない事をしたという気持ちになって、あなたに頼みに来れば行ってもよいです。そうでない限りは絶対に行ってはいけません。人間界の事もそうですが、特に神様の事は筋がたっていなければいけないのです。筋が立たない事は絶対にしてはいけません。だからこの間話もし、論文も書いたように、合理性という事ですから、理屈に合っていなければならないのです。今のは理屈に合っていないから駄目です。何処から見ても理屈に合っていればよいです。肝腎の主人が医者にお願いするのでは全然筋が立ちません。』
「噴門と食道の所に癌があり、咽喉から牛乳二合くらいしか通らず、あとは横腹に穴をあけて胃に流動物を送ってます。浄霊すると噴門の辺りがもーっとして通らなくなります。そういうのは如何致しましたら宜しいでしょうか」
『止めたらよいです。そういう間違った事をして助かるわけがありません。そういうのに引っかかっていたら、労多くして効無し、骨折り損のくたびれ儲けです。だから絶対にやってはいけません。
それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人は幾らやっても駄目です。だからさっき食道が悪くて、噴門からどうとかする、というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難しい事ではないので見分ければよいのです。この人は救われるか、或はもう駄目な人かという事は直ぐ分りますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われない方です。この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人の方が疎かになり、それが大変な間違いです。
そういう事を見分けるのもその人の智慧正覚が向上していれば見分けもつきます。ですから智慧正覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧正覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰に入るというわけです。』
(昭和28 年7月1日、特別御面会)
[浄霊法講座2]