『医学に望む』

昭和二十三年八月二十五日発行東京新聞「筆洗」欄中に次の如き記事があった。

「医者が家族の者の診察を嫌がる事は大抵の人は知っている。これは結局診断に迷うからだ」

ただ之だけの事だが、よく考えるとその内面に潜むものに頗る重大性がある。何となれば右は吾々もよく聞く事実であるが、そこには全然科学性がない事である。医学は進歩せりといい而も今日何人と難も医学は科学の埒外であると思うものはあるまい。然るに家族の者を診断する場合、迷いが生ずるというに至ってはそこに科学性がないと共に、頗る危険ではあるまいか。勿論医学に信頼性がありとすれば、家族の者に限って他の医師に扱われる事は不安であり、是非自分が診療しなければ安心出来ないというのが本当ではあるまいか。そうでないまでも家族も他人も同一診断を得べきが科学としての基準である。

斯く観じ来れば医学の診断なるものは甚だ頼りないもので、恰度(あたかも)易者の身の上判断と同工異曲のものと言われても仕方があるまい。吾々は決して医学を非難する意志は少しもないが、どう推理しても前述の如き結論とならざるを得ないのである。

聞く所によれば凡ゆる病気のうち、最も一般的で軽病とされる風邪の原因すら医学に於ては今以て不明とされている。故に吾々が要望する処のものはせめて医師が家族のものを自己が診断せざるを得ない様になり風邪の原因がはっきりするようになるだけでもいいから、其程度にまで進歩されん事を期待してやまないものである。