『細菌恐るべき乎』

今日一般人が細菌を恐れる事は驚くべき程である。此点現代人は寔に不幸である。二六時中戦々競々として不安極りない生活を送っている様を、吾等からみれば実に哀れな小羊と観るより外ないのである。考えてもみるがいい、先ず電車汽車に乗れば、室内の空気中に何千何万の徽菌がいるか判らない、ドアーのハンドルや吊革に触れない訳にはゆかないがたった今結核患者が触ったのかも判らない、床屋へ行けば僅かな疵でもそこから猩紅熱の徴菌が入るかも判らない、入浴をすればスピロヘータやゴノコッケンが何時付着侵入するか判らない、もしか眼に入ったら恐るべき風眼となる、外食をすればチフス菌が食器に付着したり食物にあるかも判らない、人と談話をすれば結核菌やインフルエンザ菌が飛込んで来るかも判らない、又外出から帰れば含嗽をしたり手を洗ったりする事もなかなか手数であるという訳であるから、全く一種の細菌恐怖症に罹っている、故に若しか此苦痛から解放されるとしたらどうであろう、その幸福は蓋し想像に余るものがあろう。とすればそんな有難い方法は此世の中にあるかというと立派にある事を茲にお知らせするのである。

といってマサカ陸地から遠く離れた遥かな海上か人跡未踏の奥山へ一軒屋を建てて生活をしょうとするのではない。無論それなら完全な方法であろうが、そんな馬鹿な事は実際上出来るものではないから、今迄通りの生活で安心が出来なければならない。然らばそんな結構な方法はどうすればよいかというと、何よりも先ず細菌が付着しても絶対発病しないというような健康体になればいいのである。恰度軍備の弱い国が戦争を恐れると同様で、敵に侵されない丈の軍備が充実しておれば、何等の心配はない訳である。茲に本教浄霊の偉大さがある。本教浄霊によれば真の健康体になるから、細菌の侵入などは問題ではない。いささかの恐怖も起らない、全く嘘のような本当の話である。本教信者になれば右の言の偽りでないことを確認し得るのである。

此点だけにみても、本教の救いの如何に偉大なるかで真の神の救いでなくて何であろうかである。