「地上天国」9号、昭和24(1949)年10月25日発行
宗教、特に仏教に、大乗、小乗の区別のあるのは遍(あまね)く人の知るところであるが、どうも今日まで、徹底されない恨みがあったようである。これについて私の見解を述べてみよう。
そもそも大乗とは大自然という意味である。大自然とは、万有一切の生成化育のあり方をいう事はもちろんである。ゆえに大乗とは一切を包含して、余すところがない。この意味において今私の説く大乗は、大乗仏教ではなく、大乗道というべきである。すなわち宗教も哲学も、科学も政治も教育も経済も芸術も、そのことごとくが含まれている。そればかりではない。戦争も平和も、善も悪も包含されているのはもちろんである。
右のごとく、一切万有の活動を観察する時、そこに自然の道がある。道に従う事によって順調に進むべき事の認識を得る人にして、真の人たるの価値があるのである。この理によって道に外れる時は必ず支障を及ぼし、一時停止または破壊される事は疑いないところである。右のごとく道に叶えば創造となり、道に外るれば破壊となるというように、破壊と創造を繰返しつつあるのが、この世界の実相である。ちょうど汽車電車が軌道に外れなければ進行し、外るれば停止さるると同様である。
ゆえに一切は滅ぶるものも滅ぶ理由があり、生れるものは生れるべき理由があり、決して偶然はない、すべては必然によることはもちろんである。この意味において思想上においても、左に偏すれば右が生れ、右に偏すれば左が生れ、いずれにも一方に偏する事なく軌道を進む、ちょうど自動車を運転するのと同様である。この理によって資本主義も、社会主義も、共産主義も、保守派も、進歩派も積極主義も、消極主義も他の何々主義も必要があって生れ必要があって消滅して滅ぶのである。もちろん宗教といえどもそうであって、出現するのは出現すべき理由があるからである。ところが人間の多くは自己のいる観点に立って眺め、自己以外のものはとかく異端視するのである。それはいとも小さき眼孔から観るからで、諺にいう、「葭のズイから天井覗く」という訳である。しかしこの大地を経綸し給う神の御眼からみれば、蝸牛(かぎゅう)角上に日もこれ足らず相争う人間の小ささに苦笑し給うであろう。
あらゆる物質は、人間に不必要であれば自然淘汰され必要があればいかに人間が淘汰しようとしても駄目である。たとえていえば、ここに新しい宗教や、新しい思想が生れる。それが人間の眼には迷信邪道と見えても、人類に必要があれば発展する事となり、不必要であれば淘汰されるのであるから、ある程度自然に任すべきである。
真に生命があり、価値がありとすれば、人力をもって弾圧すればする程、反って発展の度を高める事になるのである。何よりの例は彼のキリスト教である、教主キリストを断罪に処したにかかわらず、今日の隆盛をみれば何をか言わんやであろう。
現代人が一切を見る眼があまりに小さく、余りに短見である事の誤りを反省すべきであると思うのである。