『真の大乗宗教』

「栄光」242号、昭和29(1954)年1月6日発行

宗教には大乗と小乗とあるのは一般に知られているが、これについて今までの宗教家や宗教学者が説く説は、はなはだ曖昧杜撰(あいまいずさん)極まるものであって、真諦(しんたい)に触れているものはほとんどないといってよかろう。従って私はここに徹底的にかいてみようと思うのである。その前にまず知っておかねばならない事は、世界におけるあらゆる宗教のあり方である。それは昔から開祖、教祖の説いたところを基本とし、その宗教独特の教化方法形式などもそれぞれそなわっており、言わば色分けになっている。

早い話が世界的宗教としての仏教、キリスト教は固(もと)より、日本における神道、仏教にしてもそうであり、しかもその一宗一派の中にも分派があり、それぞれの色分けになっているので、これらを考えてみると、どうも根本的不合理を感ずる。というのは宗教なるものの本来である。言うまでもなく人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであらねばならない。従ってその手段方法にしても色分け等ないのが本当ではなかろうか。それが別れ別れになっているとしたら、人類の思想もそれに伴うのはもちろんで、これがまた社会混乱の原因ともなるであろう。しかも宗教という善の側にある人の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事も出来なくなる。これは事実を見ても分るごとく、宗教よりもその反対側である邪悪の方の力が勝つ事が常にある。もっとも神は十全、邪神は九分九厘であるから最後は神が勝つのはもちろんだが、それだけ善の方の苦しみは並大抵ではない。これについて私の経験上そういう事がよくあった。それは邪神の勢力が旺盛でほとんど支配権を握っており、絶えず吾々に対し眼を光らし、隙あらばか切り込んで来る、彼(か)のキリストにサタン、釈迦に提婆(だいば)の言い伝えは今も変りはないとさえ思われる。

こうみてくると宗教は邪神以上の力をもたねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、ここに不安なき幸福な世界が実現するのである。しかしそれは容易な業ではないが、不可能ではない。なぜなれば主神の御目的たる地上天国はすでに近寄りつつあるからである。その根本はもちろん小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。すなわち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等ことごとくを包含されたところの超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と智慧とを有する巨人が出なければならない事である。