「栄光」132号、昭和26(1951)年11月28日発行
私はいつも御任せせよと言う事を教えているがつまり神様にお任せし切って、何事があってもクヨクヨ心配しない事である。というと実に雑作(ぞうさ)もない訳なく出来そうな話だが、ドッコイ仲々そうはゆかないものである。私でさえその境地になった時、随分御任せすべく骨を折るが、ともすれば心配という奴、ニョキニョキ頭をもたげてくる。というような訳でしかも今日のような悪い世の中では、ほとんど不可能といってもいいくらいである。しかしながら神様を知っている人は大いに異(ちが)う。というのはまず心配事があった時、それに早く気が付く以上、ズット楽になるからいいようなものの、ここに誰も気が付かないところに重要な点があるから、それをかいてみよう。
というのはこれを霊の面から解釈してみると、それは心配するという想念そのものが、一種の執着である。つまり心配執着である。ところがこの心配執着なるものが曲者(くせもの)であって何事にも悪影響を与えるものである。だが普通執着とさえいえば、出世をしたい、金が欲しい、贅沢がしたい、何でも思うようになりたいという希望的執着と、その半面あいつは怪(け)しからん太い奴だ、実に憎い、酷い目に遭わしてやりたい、などという質(たち)の悪い執着等であるが、私の言いたいのはそんな分り切った執着ではなく、ほとんど誰も気が付かないところのそれである。では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、そのため思うようにゆかないという訳である。この例としても人間がこういうものが欲しいとしきりに望む時には決して手には入らないものであって、もう駄目だと諦めてしまった頃、ヒョッコリ入ってくるのは誰も経験するところであろう。またこうなりたいとか、アアしたいとか思う時は、実現しそうで実現しないが、忘れ果てた頃突如として思い通りになるものである。浄霊の場合もそうであって、この病人は是非治してやりたいと思う程治りが悪いが、そんな事は念頭におかず、ただ漫然と浄霊する場合や、治るか治らないか分らないが、マアーやってみようと思うような病人は、案外容易に治るものである。
また重病人などで家族や近しい人達が、みんな揃って治してやりたいと一心になっているのに、反って治りそうで治らず、ついに死ぬ事が往々ある。そうかと思うと、その反対に本人は生死など眼中におかず、近親者も余り心配しないような病人は、案外スラスラ治るものである。ところでこういう事もある。本人も助かりたいと強く思い、近親者も是非助けたいと思っているのに、病状益々悪化し、もう駄目だと諦めてしまうとそれからズンズン快くなって助かるという事もよくある。面白いのは俺はこれしきの病気で死んで堪るものか、俺の精神力でも治してみせると頑張っているような人は大抵死ぬもので、これらも生の執着が大いに原因しているのである。
右のごとく種々の例によってみても、執着のいかに恐ろしいかが分るであろう。従ってもうとても助からないというような病人には、まず見込がない事を暗示し、その代り霊界へ往って必ず救われるようにお願いするからと、納得のゆくようよく言い聞かせてやり、家族の者にもその意味を告げ浄霊をすると、それから好調に向かうものである。またこれは別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、まことに皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷すからである。このように世の中の事の多くは、まことに皮肉に出来ているもので、実に厄介なようでもあり、面白くもあるものである。右によっても分るごとく、物事が巧くゆかない原因には、執着が大部分を占めている事を知らねばならない。私がよくいう逆効果を狙えというのもその意味で、つまり皮肉の皮肉であってこれが実は真理である。