『プロテスタントとカトリック』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

私はキリスト教について少しく話したい事がある。それはプロテスタントの無教会主義と、カトリックの教会主義との意見の相違である。無教会主義とは読んで字のごとく「教会を必要としない、聖書一本で進むべきである」というに対し、教会主義は「キリスト昇天後教会が先に出来、聖書は後から出版されたものであるから、教会は重要である」というのである。これについていずれが是か否か、私の見解を述べさしてもらいたいと思う。この問題に対し、いずれにも理由があるが、私は霊的方面から解釈してみよう。

霊界においては、霊体一致の法則に従って、霊と物質の一致が原則である。すなわち霊が何等かの目的を遂行せんとする場合、物質を利用しなければならない事がある。例えば神仏を招聘し、その御霊徳を授与されたい場合、出来るだけ清浄なる土地へ、教会又は神社堂宇(どうう)を建立し、祭壇又は御神体、仏像等を安置し、香華(こうげ)を手向け、御饌御酒(みけみき)を献供し、うやうやしく礼拝祈願すべきで、それによって高貴なる神仏も降下又は鎮座ましますのである。そうして危急の場合は、いついかなる場所にいて祈願するとも、一瞬にして神仏の霊は身近に来たりたま給い、御守護下されるのである。しかしながらプロテスタントのごとく、物質を介せず空間に向かって祈る場合、その誠は神霊に通じ、ある程度の御加護のある事は間違いないが、相応の理によって、どうしてもその御加護は薄い訳になるのである。これについて、霊と物質との関係をかいてみよう。

霊界においては神仏の霊はもとより、人霊も、動物霊も、すべて何等かの物質に神憑り、又は憑依するものである。例えばキリストは十字架へ、諸神諸仏は文字、御鏡、絵画、彫像等へかかり給い、人霊は多く文字へ憑依され、動物霊は人体又は文字、稲荷なら狐の形状したもの、お札等へ、龍神は文字又は蛇形のもの、石塊等である。右の場合高級の神霊仏霊は、その作者の人格に関係するので、昔から名僧智識や名人等の絵画彫刻は貴重な物とされた訳である。

こういう事もある。外国の霊が日本へ渡来する場合、霊のみにて空間を渡来する事は出来ない。それは霊の往来する範囲は階級によって限定されているからで、そこでやむなく物質に憑依する。即ち共産主義の霊などは多くマルクスの著書に憑依して渡来し、その霊が各大学の講堂の壁面に並んでいるそうで、その姿を霊視した人から私は聞いた事がある。又中華民国の霊なども種々の品物に憑依して渡来するそうである。同様、日本の霊も品物に憑依して海外へ渡航するのであるが、神仏の霊は高位になる程往来する範囲が広く、地球全体に及ぼし給うのは最高貴の神仏である。

以上の理によって、彼の偶像説の誤りである事を知るであろう。