『霊線に就て』

「信仰雑話」昭和23(1948)年9月5日発行

霊線、という言葉は今日まであまり使われないようである。というのは、霊線というものの重要性を未だ知らなかったためで、空気より稀薄な目に見えざるも のであったからである。ところが人事百般、この霊線による影響こそは軽視すべからざるものがあり、人間にあっては幸不幸の原因ともなり、大にしては歴史に まで及ぶものである。故に人間はこの霊線の意義を知らなくてはならないのである。

そもそも霊線なるものの説明にあたって、前もって断わっておきたい事は、これは科学であり、宗教であり、将来の学問でもある。相対性原理も、宇宙線も、 社会や個人に関するあらゆる問題も、霊線に関係のないものはないのである。まず人間と霊線の関係から述べてみよう。

ここに一個の人間がある。まず読者自身と思ってもいい。その自分は、自分に繋がっている霊線なるものが何本か、何百本か、何万本か、測り知れない程ある ものである。霊線には太い細いがあり、長い短いがあり、正もあり邪もあって、それが絶えずある程度の影響、変化を人間に与えている。故に人間は霊線によっ て生存を保っているといっても過言ではない。その中で夫婦が繋がっている霊線が最も太く、親子はそれに次ぎ、兄弟、伯父、甥、従兄弟、友人知己等順々に細 くなっている。昔から縁(えにし)の糸とか、縁が結ばれるとかいうのは、この事を言ったものであろう。そうして、霊線は常に太くなったり細くなったり変化 しており、夫婦仲睦まじい時は太く光があり、争う時はある程度細くもなり、光をも失うのである。親子兄弟その他も同様であるが、これ以外に霊線が新しく作 られる事がある。それは新しく出来た知人友人、特に恋愛等の場合であって、恋愛が高潮に達するや無制限に太くなり、両方の霊線が激しく交流する。それが一 種微妙な快感を与え合うと共に、一種の悲哀感、寂寥感をも反映し合うのである。ついには霊線は極度に強力化し、到底別離しあたわざるに至るのは右の理によ るので、こういう場合第三者がいかに説得しても何等効果がないばかりか、かえって熱度を増すようになるのは誰も知る通りである。相愛はちょうど電気の陰陽 が接触して電力を起こすようなもので、その場合電線の役目をするのが霊線である。私は以前同性愛に陥った女学生が、情死をしようとした一歩手前で助けた事 がある。それは一方の陽電のほうを霊的に消滅させたのである。およそ一週間くらいで成功し、陽電女性は愛着の情熱が冷却し平常のごとくなったと共に、相手 の女性も平常に復したという経験がある。しかしながら他人の霊線は打ち切る事が出来るが、血族は打ち切ることが出来ない。次に親子の霊線には注意すベき事 がある。それは絶えず親は子をおもい、子は親をおもうので、双方反映し合っているから、子供の性質は霊線を通じて親の性質を受け入れる事になるので、親が 子を良くせんとする場合、まず親自身の心を良くしなければならない。世間よく親が道にはずれた事をしながら子に意見をしても、余り効果がないのはそのため である。しかしこういう例もよくある。それはあんな立派な親でありながら、息子はどうしてあんなに不良であるのかといって不思議がるが、この親は功利的善 人で、外面は善く見えるが魂は曇っているためで、それが子に反映するからである。次に兄弟で一方が善人で一方が悪人の場合がある。これはどういう訳かとい うと、前生の関係と、親の罪の原因とがある。これについて説明してみよう。

この説明にあたって人間再生の原理から説かなければならない。まず簡単に説明すれば、人間は死後霊界に往く、すなわち霊界に生まれるのである。仏教で往 生というのは「生まれ往く」とかくが霊界から見ればそういえる訳である。しかるに霊界は、その人が現界において犯した種々の罪穢に対し浄化作用が行なわ れ、ある程度浄化された霊から再生する。しかるに前生において悪人であった者が、刑罰やその他の事情で死に際して悔悟し、人間は悪い事は決してするもので はない、この次生まれかわった時は必ず善人になろうと強くおもうので、再生するや大いに善事を行なうのである。この理によって、現世生まれながらの善人で あっても、前生は大悪人であったかも知れない。そうして人間は生前に死後の世界あるを信じない人が多いから、死後霊界において安住が出来ず、生の執着に よって浄化不充分のまま再生する。そのために罪穢が未だ残存しているから、その残存罪穢に対し現世において浄化作用が行なわれる。浄化作用は苦しみである から、生まれながらの善人でありながら不幸であるのは、右の理によるのである。また生まれながらにして不具者がある。例えば盲目とか聾唖、畸形とかいうの は、変死による死の為、その際の負傷が浄化半途にして再生するからである。この再生について今一つ顕著な事実をかいてみよう。嬰児が出産するや、その面貌 が老人のようなのがよくある。これは老人が再生した為で、二、三カ月経ると初めて赤児らしき面貌になるもので、これは経験者はうなずくであろう。

次に親の不正な心が兄弟の一方に反映して悪人となり、親の良心が反映して善人となる事もある。またこういう例もよくある。親が不正の富を積んで、資産家 になった場合、祖霊はその不正の富を蕩尽(とうじん)しなければ一家の繁栄は覚束ないから、その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水のごとく使 わせ、ついに無財産にまでするのである。この場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、それを知らない人間は、親の財産を 潰したけしからぬ奴とみなすが、むしろ気の毒な訳である。

霊線は人間においては生きている近親者のみではない。死後霊界における霊とも通じており、正神に連結している霊線もあり、邪神に連結しているそれもあ る。正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事はもちろんで、人間は常に正邪いずれかに操られているのである。そうして、霊界においてある程度浄化されたるもの が守護霊に選抜され、霊線を通じて人間の守護をする。すなわち危難のせまれる現界人に対し、危険信号を伝えて救おうとする。この例として汽車などに乗車せ んとする場合、時間が間に合わなかったり、故障があったりして乗り損ね、次の汽車に乗る、すると乗り損ねた汽車が事故に遭い、多数の死傷者が出る等の事が あるが、これらは守護霊の活動によるのである。守護霊は現界人の運命を前知し、種々の方法をもって知らせようとする。

霊線は人間の階級に従って数の多少がある。数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部。公人ならば村長、 町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領――国王等、いずれもその主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋がりがあり、高位になる程多数となる訳で ある。この意味において、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。首脳者の魂が濁っていれば、それが多数に反映し、多数者の思想は悪化すると いう訳であるから、一国の総理大臣などは智慧証覚に富むと共に、至誠事にあたるべき大人格者でなくてはならないのである。しかるに国民の思想は悪化し、道 義はすたれ、犯罪者続出するがごときは、為政者の責任となる訳である。特に教育者のごときは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、常 に自己の霊魂を磨き、師表として恥ずかしからぬ人とならなければならないのである。

特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様のごとく讃仰される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大 いに心すべきである。しかるにその高き地位を利用しておもしろからぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、ついにはその宗教は崩壊のやむなきに立ち到るの であって、このような例は人の知るところである。

霊線は人間ばかりではない。神仏からも人間に通じさせ給うのである。ただ人間と異なるところは、神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上魂の人で薄光 ぐらいであり、大抵は光のない灰白線のごときもので、悪人になる程黒色をおびるのである。世間よく友人を選ぶ場合善人を望むが、それは善に交われば善とな り、悪に交われば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。

神仏といえども正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、邪神からは光どころか一種の悪気を受ける 事になるから、思想は悪化し不幸な人間となるのである。故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。また正神といえども、神格の高下によって 光の強弱がある。そうして高位の神仏程その信徒に奇跡の多いのは、霊線の光が強いからである。以上、人間に関する霊線の意義を概説したが、人間以外の事象 にも霊線の活動がある。それは人間が住居している住宅、平常使用し愛玩している器物、特に愛玩の物ほど霊線が太く、衣服装身具等もそうである。こういう話 がある。以前米国の心霊雑誌中にあった記録であるが、ある一婦人は不思議な能力を持っている。それは器物によってその持主の人相、年齢、最近の行動等が判 るそうで、その場合器物を熟視すると、その器物の面に写真のごとく顕れているとの事であって、これは霊線によって印画されたものである。これによってみて も霊線の活動は、いかに幽玄微妙であるかが知らるるのである。

近来宇宙線なるものを科学的に研究しているが、これは私の見るところによれば、星と地球を連結している霊線である。元来地球が中空に安定しているという 事は、地球周囲の衛星の霊線が地球を牽引しているからである。故にその霊線の数は何万、何億あるか測り知れない程の数で、地球の中心部にまで透過している のである。ついでだから、私は天体と地球との関係についても、いささか述べてみよう。

元来天体と地球とは合わせ鏡のごとくになっている。そうして星には明暗二種あり、すなわち光星と暗星である。暗星は全然光がないから人間の眼には映らな いが、年々光星に変化し、増加する。なぜ暗星が光星に変化するかというと、それは宇宙物資の硬化作用によるので、硬化の極点に達した時光輝を発し始めるの で、地球にある最硬化の鉱物が最も光るダイヤモンドであるのと同一の理である。したがって地球創造の当時は、星の数は暁の星のごとく少なかったもので、星 の数の増加と地球上の人類の増加とは正比例しているのである。故に向後(こうご)、星の数も人類の数も、いか程増加するか量り知れないものがあろう。よく 天文学者が新星を発見するが、これらは暗星が光星に変化し、人間の眼に映じ始めたためである。また流星は星の分裂作用であり、隕石はその際の破片である。 星にも木火土金水の巨星を初め、大中小無数の星があるが、これらもことごとく地球人類に反映しているので、右の五星はその時代に世界的人物五人あるという 訳である。人間を星になぞらえ、著名な人物に対し、巨星往来とか、巨星墜つとかいう事も、おもしろいと思うのである。

泰西においても、星占いのすこぶる盛んな時代があって、僧侶がそれを行ない、人間の吉凶禍福、病気判断等に利用したりして一世を風靡したという事が史実 にある。支那の易学にも九星を本義とした等、かえって古代人が星に関心をもっていた事は、無意味ではなかったと思うのである。

また火星の生物論であるが、これは誤りである。私の解するところによれば、生物はこの地球だけであって、しかも大宇宙の中心が地球であり、万有は人類のための存在であるから、人間はいかに尊いものであるかを思うべきである。