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『医学とは何ぞや』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

医学とは、言う迄もなく総ての病気を治し国民の健康をより良くし、それによって国家の進運に貢献すべきものである事は勿論である。従而、幾多の国家機構中に於ける最も重要部門として、政府から特殊待遇を受けている事もその為である。而も刻下の重要案件である人的資源の問題を解決すべき鍵を握っているにみて、医学の使命たるや、如何に重要であるかは、議論の余地はあるまい。

私は今まで、理論と実証とを以て西洋医学の誤謬の悉くを指摘したつもりであるが、是に見逃す事の出来ない問題がある。それは曩にも説いた如く、医家及びその家族の健康問題である。私は思う。現代医学が真の意味に於て進歩せるものであるとすれば、その実証が適確に現われなくてはならない筈である。如何に学術的理論を構成し、新説を発表し、新築や機械や方法の進歩を誇称すると難も、それが実際的に効果を示さないならば、何等の意味をなさないであろう。

故に私は、真に医学が進歩したとすれば、その実証を世に示すべきであって、吾々の如き西洋医学非難者をして沈黙せしむべきである。万一それが不可能であるとすれば、医学の進歩という言葉は空虚でしかあるまい。もしそうであるとすれば西洋医学を一旦解消し事実を基礎とする新しい理論の下に、再建すべきではないかと思うのである。私が斯様な事をいえば、それは余りに極端論と思われるかも知れない。然し私は、徒(いたず)らに斯様な説を唱うるのではない。唱うべき理由があるからである。それに就て忌憚なく解剖してみよう。

先ず、西洋医学の価値を実証する上に於て最も有力であるべき事は、曩に説いた如く、医家自身の健康と家族の健康をして、一般世間の水準よりも高くあらしめる事である。然るに今日実際を見るに於て、寧しろ一般人よりも水準の低下を疑わしむるものがある。それは先ず医学博士の短命と、医家の罹病率の多い事。その家族の弱体であり、而も医家の子女にして結核罹病者の割合多い事である。勿論医家自身としても、自己の生命を守る上には、常に細心の注意を払うであろうし、又、家族の罹病者に対しては、早期診断以上の良処置を執るであろうから、手後れなどありよう筈はあるまい。然るに事実は右の如くである以上、近来唱うる予防医学なるものも無意味であるといえよう。何となれば医家自身に於て、予防困難である事の実験済みであるからである。

故に私は、西洋医学が真に進歩したという事を社会に示すとすれば、何よりも医家とその家族の健康が、世間一般の水準よりも遥かに高きを示す事であり、それを見る世人をして、全く西洋医学の進歩を確認しない訳にはゆかないようにする事であるが、それは恐らく不可能であろう。然るに、当局者も専門家も、ロを開けば一般衛生知識の不足を言い、又注射其他の方法を強制的に行おうとするのである。それ等に対し、国民中それを忌避する者や、関心を払わない者も相当あるという事実であるが、之は全く国民が西洋医学に対し、全服的に信をおかない証拠であろう。故に当事者としては、先ず此事を考慮しなくてはならないと思うのである。如何に大衆と難も、人命の尊い事は知っている。

前述の如く、チフス等の注射によって、稀には即死する者もあり、ジフテリャの注射によって瀕死の状態に陥るというような事実も相当あるのであるから、それを知る大衆としては、一応は危懼の念を抱くのは当然であろう。又手術の過誤によって生命を失うという事実も抄くない事である。私は先年、外科の某博士が他人である患者の手術は好んでするが、家族や親戚の疾患に対しては、決して手術を行わないという事を耳にした事がある。之は手術の過誤を懼れるからであろう。之等は全く、西洋医学が実証的に効果を示さないからである。否、効果を示し得ないからでもあろう。此結果として、近来灸点や民間療法が繁昌するのもやむを得ないであろう。そうして今日患者の趨勢をみるに、理論を重んずる者は医学に送り実際を重んずる者は民間療法に診るという傾向は否めない事実である。

故に、多くを言う必要はあるまい。即ち西洋医学は、凡ゆる病気に対し確実に効果があり、悪影響などは更にないという事を実証するより以外、国民をして西洋医学に対し、全的信頼を為(な)さしむる事は不可能であろう。故に、万一右の如き効果が実現さるるとしたら国民の方から進んで注射を要望すると共に、手術の躊躇なども解消するであろう。勿論、古代印度人が創成した灸治法も、二千余年前支郡人が創成した漢方医学も、現在の民間療法も跡を絶つであろう事は勿論である。然るに事実は右と反対であるに拘わらず、西洋医学の進歩を云々するのであるから、そこに割切れない何物かが残るのである。

私は、今一つ重要な事を言わなくてはならない。それは今現に行いつつある健民運動と結核対策要綱である。之等は勿論、西洋医学的方法以外には出でないのであるから、その結果はどうであろう。それは医家の家族の健康水準より以上の成績は挙げ得られないではないかと想うのである。何となれば、医家に最も接近している家族が、一般世人の水準より以上に出でないとすればそうなるべきであろう。従而多額の国帑(ど)を費やし、多数の人的資源をそれに充てるという事が無意義に終らざる事を冀(こいねが)ってやまないものである。

右に就て、本医術の治療士及びその家族、若しくは本医術の修得者ある家庭は、例外なく何れもその健康が世間一般の水準よりも遥かに高度である。全く百万語の理論よりも、一の事実に如かずというべきであろう。而もそれが年月を経る毎に益々健康は増進し健康家庭が作られつつあるのである。従而此事によってみるも、本医術こそは理想的医術として真に人類の福祉を増進すべきものであり、病無き世界の現実化は遠い将来ではない事を私は信ずるのである。

 

『神の経綸』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

抑々宇宙とは何ぞや、それは無限大の空間の中に、太陽、月球、地球及び星辰が存在している事は誰も知る処である。そうして吾々の住む此地球こそ宇宙の中心であり、主である。又日、月、星、辰は地球の為に存在し、地球は日月星辰によって存在するのである。故に、その経綸を行わせ給わんが為に、神の代行者として人間なるものが造られてあるのであり又万物は人間の為に造られたのである事は言う迄もない。従而、人間の使命たるや、実に重且つ大であって、神の理想を此地上に顕現せんが為に生れさせられたのであるから、それを自覚する事によって、真の人間たり得るのである。此意味に於て、人間は自己本位の我欲に囚われたり、国家社会の進運に柳かなりとも背馳(はいち)するような事なく、惟神、神定め給える大君を現人神と崇め奉り、忠孝を本とし安逸を卑しみ、各々の職域に奮励努力すべきであって、是に到って始めて人間たる本分に適うのである。特に日本人は世界に冠たる皇国の民であり、神の選民である事を自覚しなければならないのである。

そうして、主神の深甚なる御目的や、其御経綸は、到底人間の想像だも及び得べからざる事は固よりである、只だ御経綸の上に於て、神は其時代時代に必要なる人間を顕わしそれぞれの使命を遂行させ給う事は吾々と雖も想像し得らるるのである。勿論、英雄も偉人も聖賢もそれであり、又、戦争も平和もその為であり、斯くして此地上は一歩一歩無限の進展を遂げつつあるのでその実相は、誰もが眼にも映るのである。故に、何時果つべくもなくみゆる大戦争や、大禍乱大天災も、その渦中にある間は暗澹たるものであるが、時過ぎ時来れば、又平和の光は射し初め、泰平を謳歌するというようになるのであって、実に変転極まりないのが世界の姿である。

そうして古来からの歴史の推移を、心を潜めて冷静に観る時そこには一貫した而も厳然たる――神の摂理と御目的が、朧気ながらも窺い知らるるのである。

以上の意味によって、私は数年前、日本が世界を統一すると共に、東西文化を融合して成った新しい文化が日本から生れて、逆に世界へ拡充する事を予言した事があるが、今やそれが着々実現の時となって、最早何人と難も、明かに知り得る状態になったのである。今戦いつつある大東亜の戦争も、支郡事変も三国同盟も、五、五、三の華府(ワシントン)会議も、連盟脱退も、第一次欧州大戦も、日清戦争も日露戦争も明治維新も、その準備であった事が肯かるるであろう。又、畏くも、遠きは神武天皇の八紘為字の大神勅も、今日の為に発せられ給うた一大予言と拝察せらるるのである。

そうして、支郡事変によって数年を費した事が、大東亜戦争に対する周到なる準備工作の為であり、南洋一帯の資源を米、英、蘭が二、三世紀に亙って開発した事もそれであり、大東亜戦争に全力を挙げて、後顧(こうこ)の憂なく戦い得るという事は、ソ聯との中立条約の為と、盟邦独逸が蘇聯(ソ連)をあれほどに打撃を与えたからでもあろうし、五、五、三の比率によって、日本の海軍が猛訓練を行わざるを得なくなって、それが今日、赫々たる戦果を挙げ得る動機となった事等も、実に深甚なる神意でなくて何であろう。全く彼を思い是を憶う時、日本をして世界の盟主たらしむべく、数千年前より神が深遠なる御経綸を行わせ給いつつあった事を拝察さるるのである。実に一切は神の御意志によって動き、歴史とは神の経綸の道程にしか過ぎない事と思うのである。

 

『惟神医術』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

私が創始した此医術こそは、真の日本医術であり、日本的療法と思うのである。それに就て私は、別の方面から観察してみたいのである。 別の方面とは何であるかというと、それは日本神道即ち惟神の大道によってである。そうして、惟神の大道とは、私の考察によれば、日本之道否日本人の道、否々未来に於ける世界人類の道であると思うのである。然らば、惟神とは如何なる意味であるか。之に就て、昔から今日迄種々に説かれているが、私は惟神之道とは、大自然の道というのが最も適切ではないかと思うのである。

元来、天地間の森羅万象凡ゆる物の生成化育、離合集散、栄枯盛衰は自然の理によるのでそれによって無限の進展を遂げつつあるのが此世界であって、その実相を観る時、不自然なるが如くにして自然であり、偶然に似て必然であり、空漠たる如くにして厳然たる法則あり、全く人間の叡智や学理によっても到底窺知(きち)し得べからざるものがある。

そうして、大自然の動きは真理そのものである事は勿論である。そうして真理の具現者であり、宇宙の支配者である者、それを尊称して神というのである。故に、宇宙意志というも神の意志というも同一である。此理によって大自然そのものが神の意志であり、大自然の実相が神意の具現であるといえよう。

此意味に於て、人間なるものは大自然の中に呼吸し、大自然の力によって生育するのである。故に、生死と難も大自然即ち神意のままであるべきである。故に、大自然に逆えば滅び、大自然に従えば栄えるのは言うまでもない。此理によって人間の師範とすべき規(のり)

は全く大自然であって、大自然のままに行く、即ち大自然に習う事こそ、神意に習う事であり、神意のままに進む事であり、それがカムナガラである。実に帷神とは玄妙至極な言霊というべきである。

右の理を人間の健康に当嵌めて解釈する時それは明かである。即ち人間は何が故に生れたかという事である。勿論、神が此土を経綸する上の必要から生れさせられたのであって各人それぞれの特徴を具えているのは、そういう意味からである。故に、生命の命は、命令の命の字である。故に、生命のある間、神の命を奉じて生き活動すべきで、その命を疎かにしてはならないのである。死ぬ――即ち生命が亡くなるという事は、命令を解かれる事である。従而、人間は神の受命者であるから身を浄め心を清めて使命遂行に精進しなければならないのである。昔から人は神の子とか神の器とか、神の宮とかいうが、右の意味に外ならないと思うのである。

然るに、神の最高の受命者ともいうべき人間が、健康を害ねるという事は、大自然即ち神意に背いているからである。従而、如何なる点が反自然であるかを発見すること、それが根本問題である。然しながら、人間の悲しさ、それを発見する事が不可能であるが為、止むを得ず、器械や薬剤を以て、病気を治癒しようとしたのであるから、一時的効果より以上に出でなかったのである。

そうして、前述の如き惟神、即ち自然の侭という事は決して難しい事ではない。洵に簡にして単である。即ち健康に就ていえば先ず人間は生れた以上、幼時は母の乳を呑み、生育するに従って普通食を摂るので、それは大自然は人間の食物として五穀、野菜、魚鳥なるものを、人間の嗜好に適するよう千差万別の形状、美観、柔軟、五味、香気等を含ませ造られてある。故に人間は、其土地に於て生じたるもみのの四季それぞれの季節に稔ったる物を楽しんで食せばいいのである。そうして各自に与えられたる職域を遂行し、教育勅語を範として実践躬行(きゅうこう)、これを勗(つと)むるに於て、不健康など有り得べき筈はないのである。

又、大自然は、天地間凡ゆる物に、浄化作用なるものを行うのである。此事は、大祓の祝詞中にある如く、祓戸四柱の神の担任せられ給う処であって、誓えていえば、地上に汚穢が溜れば風に吹き払い、雨水によって洗い浄め、天日によって乾燥させるのである。また一軒の家に於ても、塵埃が溜ればそれを払い掃き水で洗い拭き清めるので、それ等の事は人間に於ての病気、即ち浄化作用と同様である。従而、此場合、自然に放置すれば治癒するのは当然である。又浄化作用の期間中、発熱や痛苦等によって労務に耐えなければ休養すべきであり、食欲がなければ食わなければいいのである。それが自然である。そうして人間の浄化作用は人間自身の体が行って呉れるから、寔に都合がいいのである。

故に、此意味に於て私の提唱する医術と健康法は飽迄自然を本とし、自然に準(なら)うというので、惟神医術という所以なのである。

『病気症状と其解剖』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

茲に、病気症状といえば、大別して左の如きものであろう。発熱、痛苦、掻痒苦、不快感、幅吐、下痢、浮腫、盗汗、眩暈、不眠、憂鬱感、麻痺、咳嗽(せき)、逆上(のぼせ)、 耳鳴、痙攣、冷え、便秘等であろう。之等に就て、私の研究によって得たる理論を説いてみよう。

1.発熱

2.痛苦

3.掻痒苦

4.不快感及び幅吐

5.下痢

6.浮腫及び寝汗

7.眩暈及び不眠症

8.憂鬱感及び麻痺と痙攣

9.咳嗽及び逆上

10.冷及び便秘

『既存療法』

「明日の医術、第2篇」昭和18年10月5日

病気治療の方法として、今日行われている種々の療法に就て一通り解説してみょう。

先ず、西洋医学に於ける治療法は、薬剤其他の方法を以て、浄化作用停止である事は、読者は最早充分諒解されたであろう。然し、未だ言い残した事があるから今少しく述べてみよう。

私の経験上、最も怖るべきは注射療法として、彼の六百六号一名サルバルサン(ブランド名)がある。之は周知の如 く、駆梅療法として、一時は、実に救世主の如く思われたが、何ぞ知らん、事実は恐るべき結果を来すものである。そうして此薬剤は人の知る如く、原料は砒素剤であって、同剤は耳掻き一杯で、人命を落すという程の猛毒であるから、注射するや一時的浄化作用停止の力は強烈なものである。即ち梅毒性発疹や腫脹に対し、同剤を注射するや忽ちにして消滅するから、一時治癒したまうに見えるのである。然し、実は潜伏毒素が、浄化作用によって、皮膚面に押出されたのが同剤の注射によって、浄化作用は停止し、毒素は浄化作用以前の潜伏状態に還元したのである。それだけならいいが、右の砒素は、不断の浄化作用によって、漸次体内の一局部に集溜するのである。その集溜局所として、最も多きは頭脳で、砒毒が頭脳に集溜する結果は、大抵精神病は免れないのである。その際医家は誤診して脳徽毒というが、 何ぞ知らん、実は駆徽療法の結果であるというに至っては、何と評すべきや言辞は無いであろう。近来、精神病激増の傾向があるが、私は六百六号の原因による事も抄くないと想うのである。次に、恐るべきは、六百六号に因る眼疾であるが、大抵は失明するのであって、此症状は殆んど片眼が多く治癒に頗る困難である。尤も医家により眼疾のある患者は悪化するとして、同剤の注射を見合す由である。其他種々の病原となる事は明かであって、私の経験上、同剤注射の経験をもつ患者の病症は、特に治癒に時日を要するのである。

次に私は、医家は固より、世人に一大警告をしなければならない事がある。それは予防注射の薬毒による腫物である。近来、足部特に膝下の部に大小の腫物が出来る人が多い事は人の知る所であろう。之は、予防注射の薬毒が時日を経て足部に集溜し、浄化作用によって排除されんとする為である。之等は 放任しておけば短期間に治癒するのであるが、それに気が付かない為、薬剤を使用するので、それによって相当長期間に渉るのである。そうして不幸な人は、医療によって薬毒を追増される為、悪化して終に足部を切断さるるようになる事も、稀にはあるのである。

又、注射液によっては、瘭疽及び脱疽の原因となる事もあるから注意すべきである。そうして、之等も手術によって大小の不具となるのは勿論である。

次に、利尿剤の逆作用も注意すべき問題である。先ず腹膜炎患者が尿水の為、腹部膨満するや、医療は唯一の方法として利尿剤を用うるのである。それが為、一時は尿量を増し腹部縮小して、軽快又は殆んど治癒する事があるが、それは一時的であって、例外なく再び膨満するのである。従而、復(また)利尿剤を用いる。復縮小するという訳で、斯の如き事を繰返すに於て、終には利尿剤中毒となって、逆効果の為尿量は減少し、腹部は弥々膨満し頼る頑固性となり、減退し難くなるので、医家は止むを得ず穿孔して排水するのであるが、その殆んどが結果不良で斃れるのである。右の如く利尿剤による逆効果の起った患者は、その利尿剤服用の多い程、治癒に時日を要するのにみても利尿剤使用は戒むべきである。

又睾丸水踵という、睾丸の膨脹する病気や、尿の閉止する症状等も、利尿剤の逆効果による事が多いのである。

次に、神経痛の如き、強烈な痛みが持続する場合、モヒの注射によって一時的苦痛を免れるのであるが、之も多くは繰返す事になるので、其場合、非常に食欲を減退させ、それが愈々進むに従って、終に頻繁なる幅吐を催し、食欲の減退甚だしく衰弱によって畢に斃れるのである。

次に、ジフテリヤの注射は、同病に卓効ありとせられ、予防に治療に近来大いに行われているが、之等も未だ研究の余地は多分にあるのである。私の研究によれば此注射によって悪結果を蒙った者は、あまりにも多い事である。甚だしきは死に到ったものさえ尠くなかったのである。そうして中には一週間位昏睡状態に陥って、覚醒後、精神変質者になったものや、胃腸障碍を起したり、神経衰弱的症状になったりして、而も頗る頑固性であり、数年又は数十年に及ぶものさえあるのである。故に仮令、ジフテリャに効果があるとしても、悪作用と比較して、功罪何れが勝るや疑問である。

同病は本療法によれば、十分乃至三十分位の一回の治療によって、完全に治癒するのである。

次に、今日広範囲に使用するものに沃度(ヨード)剤がある。この沃度剤の中毒も恐るべきであって、これが頭痛の原因となり、神経衰弱、胃病、腎臓病等、種々の病原となるのである。人により、発作的痙攣を起したり、手足の運動不能の原因となる事もあるが、医家は勿論世人もあまり知らないようである。

次に、外傷等に於ける殺菌用として使用する「沃度ホルム剤」は、もっとも恐るべきものである。よく手術のための外傷が、治癒に頗る時日を要することがあってその場合、医家は不可解におもうが、これは全く消毒薬の中毒であるから薬剤を廃し、清水で洗うだけにしておけば、速かに治癒するので、私はしばしば経験して好結果を挙げたのである。そうして、沃度ホルムが何故恐るべきか――というに、 この薬が外傷部の筋肉から滲透する時、患部の周囲またはその付近に、青白色の膿状斑点が出来るのである。そうして、それが漸次増大して、その状態が宛かも腐りゆく如く見ゆるので、医家はそう信じ驚いて、手足の場合切断を奨むるのである。而も、強烈に痛むので、その苦痛を免れんため患者も終に切断を受ける事になるのである。即ち、放置しても治癒する位の外傷が、沃度ホルムという薬剤によって、 不具にまでなるというに至っては、全く驚くの外はないであろう。故に今日戦傷勇士が、よく手や足を切断するということを聞くが、その多くが、沃度ホルム中毒のためではないかと、私は推断すると共に、そうであるとすれば憂うるの外ないのである。

故に一言にしていえば、外傷に、徴菌の侵入するを恐るる結果、殺菌作用を行うのであるが、その殺菌作用が、徽菌の侵入よりも、幾層倍恐るべき結果を招来するという事になるので、全く角を矯めて牛を殺す――という類である。

次に、湿布薬及び膏薬に就て説明してみよう。之等も皮膚から薬毒を滲透させるので、その部面の浄化作用を停止するから、一時的苦痛は軽減するが、その薬毒が残存して種々の悪影響を来すのである。私が経験した二、三の例を挙げてみよう。背部が凝るので、数年に渉って或る有名な売薬の膏薬を持続的に貼用した患者があった。然るに、その薬毒が漸次脊柱及びその付近に溜着して、凝りの外に激しい痛みが加わって来たのである。これは全く膏薬中毒である事が明かになった。又或患者で顔面に普通のニキビより稍々(やや)大きい発疹が、十数年に渉って治癒しないで悩まされていたのがあった。之等も最初、普通のニキビを治そうとして、種々の薬剤を塗布しそれが浸潤してニキビが増大し、頑固性になったのである。次に又、最初局部に湿疹が出来それへ薬剤を塗布した為、その薬液が浸潤し薬毒性湿疹となり、それが漸次蔓延しつつ、遂には全身にまで及んだが、それでも未だ気づかないで、医療は塗布薬を持続するので、極端に悪化し、皮膚は糜爛(びらん)し、紫黒色さえ呈し、患者はその苦痛に呻吟しつつ全く手が付けられないのであって、私は、医学の過誤に長大息を禁じ得なかったのである。其他、頭痛に対する 鎮静剤や、不眠に対する睡眠剤、鼻孔閉塞に対するコカインの注入等の中毒は周知の事であるから省くこととする。

次に、漢方薬であるが、之も洋薬と同様中毒を起すのであるが、只だ洋薬の如くその中毒が強烈でない事が異うのである。又その症状も、洋薬の如く複雑ではないので、それは漢薬は殆んど新薬が出ないから、種類も少なく旧套墨守的である為であろう。そうして漢方薬中毒の最も多い症状としては食欲不振及び嘔吐である。此嘔吐は常習的であって、大抵は一回の嘔吐で平素通りになるのである。然し、其際の嘔吐は一種の臭いがあるが、それは、以前服用した漢方薬の臭いであるにみても中毒である事が知らるるのである。

そうして漢方薬中毒者は、腎臓疾患が多く顔色暗黄色で、何となく冴えないものである。之に就て私は、支郡人の顔色は赤味がなく、青黄色が多いのは、祖先以来の漢方薬服用の結果ではないかと惟うのである。

そうして、洋薬も漢薬もそうであるが、多くを使用した者ほど皮膚は光沢を失い弾力なく、青壮年者にして老人の如き状態を呈するのである。然るに、斯の如き人と難も、薬剤を廃止するに於て、年々薬毒的症状が消えるに従って若返るのであるにみて、此点に於ても、薬毒の慄るべき事が肯れるであろう。

次に、電気及び光線療法であるが、之も、概略説明してみよう。此療法の根本は毒素を固結さすのであるから、病原である毒素溶解作用を停止するのみならず、寧ろ浄化作用発生以前よりも固結が強化されるので、従而容積も著しく減少し、或程度治癒したと思うのであるが、実際は固結さしたので、最初の病気発生の苦痛とは違った苦痛が生ずるのである。それは最初の病気症状は、毒素溶解作用の苦痛であるが、後の症状はその反対である固結の為に支障を及ぼす苦痛で、その位置により苦痛は一定していないもので、位置によっては苦痛のない事もあるのである。

然し乍ら、死に直面した重症に対し、電気療法によって起死回生の偉効を奏する事も聞くが、固め療法も其症状によって適合する場合、効果は確かにあろう。そういう人は電気療法を讃えるのである。然し乍ら、私の経験上、レントゲン療法は悪いのである。之は、最も能く毒素を固結させるからである。

次に、氷冷及び湿布療法は曩に述べたから略すが、咳嗽に対して吸入療法を行うが、之は実に馬鹿馬鹿しいのである。何となれば、曩に説いた如く、咳嗽の原因は咽喉ではないから、吸入法を如何程行うも何等の効果はないのである。

又、温めるという温熱療法があるが、之も病気により一時的軽快を得る事があるが、病気により反って悪化さす事もあるのである。又感冒の際、全身を温めて発汗さす事を良いとしているが、之も誤りで、発汗さすよりも自然に放任しておく方が反ってよく治癒するのであってすべて自然が良いのである。次に癌に対しラジウム放射を行うが、之も何等効果はないのである。その証左として私は唯一の事実を拳げるにとどめる。それは彼の東郷元帥の喉頭癌に対し、その当時三十五万円のラジウムを使用したに関わらず、半ケ年にして生命を失ったことである。