「貧乏のどん底に御守護」

御蔭話 神奈川県O.T. (昭和二人年二月一日)

明主様貧乏のどん底より現在へお救い戴きました御礼御報告申し上げさせて戴きます。

私は昭和二四年九月、妻と前後して入信させて戴きました者でございます。顧みれば二四年八月、最愛の長男(当時三歳)の病死、続いて長女(生後八カ月)の発病(当時の事は『栄光』紙五〇号に御報告させて戴きました)、重なる不幸に加えて失業に妻も子供も普段着の果まで売尽くし、裸一貫になりました。

瀕死の長女の姿を前にして死ぬまでに(医者にも見放され到底助らぬと思いました)一度でもよい自分の手で御浄霊をさせて戴きたいと思いつつも、その日暮しにも事欠く私達には御礼のお金など夢想だに出来ませんでした。併し亡くなった長男の霊をお救いさせて戴く為にも一日も早く入信させて戴きたいと妻と語り暮して居りました。或日(長男の三七日)思いがけなくI先生より御礼を御立替して戴き妻が入信、間もなく(長男の最初の命日)私も或方より借用致しまして、入信させて戴きました時の嬉しかった事、天にも昇る心地とはこの事でしょうか。さしも大病の長女も、明主様の御力にお救い戴き、重なる御守護に感泣の外ありません。

入信当日にI先生からしみじみと「もう今までの様な悪い事ばかりは続きません。なぜってもうお光が二体貴方の家庭に入ったのですもの必ずお救い戴けますよ。しっかり明主様にお縫りさせて戴きなさい」とあの力強い一言、未だに身についております。私には一生忘れる事の出来ない一言でした。

二五年五月八日、漸くの事にて就職致しました時はもう貧乏のどん底にて着る物どころか食べる物もなく、お金は無く、最早一家心中の一歩手前の状態でした(当時の事は『栄光』紙一四七号に御報告させて戴きました)。明主様の御守護によりまして八月には御立替戴きました二人分の御教修御礼も全部お返し出来、御屏風観音様をお祀りさせて戴く程の御恵を戴きました。その秋には又会社がK自動車工業よりN運送へと変る時にも一日も休まず就職致し、その上K社より退職金として一万三〇○○円戴き、それこそ神様の御恵と思い、早速光明如来様をお受けさせて戴きました(二階に人が住んで居りますのでお祀り出来ず教会にお預りして戴きました)。

N社より又駐留軍直用と職場の名が変り、変る度毎に、給料も上り、又数回に亘る大量人員整理にも御守護戴き、二七年二月には日浅い私に責任あるホーマン(班長)を任命され、感泣致しました。仕事上の段取りにも「明主様」と御念じさせて戴く事により忽ちスムースに解決致します。

又二七年一一月二〇日には三〇〇名の中一二〇名というこれ迄にもない大量人員整理に、それも日浅い人からという条件の下にたとえ班長であろうと整理され、そればかりでなく、古い方々でさえ格下げとなりました中に日浅い私は依然としてホーマンとして務めさせて戴いております。これが御守護でなくて何でございましょう。

只々「明主様有難うございます」と申し上げるより外言葉もございません。無信仰の或る方は「矢張り御守護だなあ」といい、又或る方は「やはり信仰している者の強みはここにあったのか」とも言われ、こういう言葉を聞きます度毎に妻と共々嬉し泣き致すのみでございます。そればかりでなく、間違った時は何時でも私の所へ来なさい、引受けますと力強く言って下さる方さえありますので本当に安心立命と申しましょうか、何の心配もなく勤めさせて戴いて居ります。重なる御守護只々有難く厚く御礼申し上げます。

一二月には二階も借る事が出来三〇日に二年越しで待望の光明如来様を御奉斎させて戴きました。その時の感激は筆や言葉では表わす事は出来ません。手の舞い足の踏む所を知らずとは、こんな時の言葉でしょう。只嬉しいやらで何回御神前に立ったり坐ったり致しました事か、夜もろくろく寝つかれぬ有様でした。今年のお正月程のどかな気持で迎えました事はここ数年来初めてでした。

これからもしっかり明主様の御教えを歩ませて戴き、御神徳を戴きたく、一生懸命御神業に御手伝いさせて戴きたいと存じます。

明主様有難うございました。