御蔭話 富山県F.Y. (昭和二四年一〇月二五日)
昭和二四年九月二二日正午頃、日頃本教に反対の一群である学校長及び教官等三二名が吊橋から真逆様に落下し、濁流に呑まれた惨事を御報告申し上げます。
大の男が三三名も一度に通れば五〇〇貫にもなって重いには違いないが、御気の毒と思うと共に何か考えさせられるものが湧くのであります。
以下はN町の紡績工場に勤務、寮理事の役を持たれ、本教に熱心に御用されているD中教会のMさんから、S町B氏宅で光明如来様の御祭の際、御話して頂いたものであります。
婦負郡のH町にはG中教会の支部がありますので、一般は本教をよく知っている訳であります。同教官諸公は学校でも常日頃生徒一同を講堂に集めて逆の宣伝して、「この土地に観音教(救世教以前の名称)という信仰が広がっていて、怪しげな事をして、人の病気を治すといっている。人間はあんな迷信にとらわれて非科学的な事で病気を治すものではありません。どこまでも科学的に、衛生学や、栄養学の知識でもって自分の身体を大切にし、お医者の仰言る事をよく守って健全な療養をしなければなりません。邪教を迷信しているのは恐ろしい事です。社会人心の混迷に乗じて信じさせられるから充分注意して、絶対にそんなものを信仰しないように、皆さんが家に帰ったらお父さんや、お母さんによくお話なさい」という調子で訓示をやり、本教に対し真向から否定した訳であります。
それが為この地区では非常に本教を警戒し、信徒も六、七十名程度であるし、又、紡績工場内でも女工二〇〇〇名の内、信徒は僅か五、六名という状態なのであります。十七、八歳の織姫にしろ一般の人達にしろ、かかる先入観による警戒が影響したものと見られます。
それから遭難のあった前に、この吊橋を農業会のダットサンが脱穀機を満載して通行したり、敷島紡績工場のキャンプ隊三〇名が重い荷を背負って、この吊橋を前日夕暮の出発の際と、ニニ日朝五時過ぎの帰りと往復しています。一時に一〇〇名も渡れるように設計が出来ていたのですが、教育者だけが落ちるとは余りにも不思議と思われます。
実は本県南部のH区域中、右教官一行は当日午前中に婦負郡A村T小学校で郷土社会学研究会を終り、午後は対岸に渡って断層、背斜、向斜の実地見学をなさんものと記念写真まで撮って、午後零時四〇分頃、C峡の新しい吊橋(中二米、長さ一四〇米)にさしかかった際、吊橋は突然バリバリと大音響を発し、橋諸共に一行は雪崩をうって真逆様に一七〇尺下の巖石重畳たるC川急流に吸い込まれました。現場は折からの増水で濁流いよいよ逆巻き、救出甚だ困難を極め、死亡二○名(男一九名、女~名)行方不明九名、重傷二名、軽傷二名という惨傭たる光景に一変したのであります。学校長始め遭難者二〇名(死亡一五名、行方不明三名、重傷二名)と言われ、その家族は勿論のこと、教え子や一般各方面に惜しまれたり、教育道の本懐と謳われたりしています。これに付随して請負者、設計者の業務上過失致死容疑で逮捕、並びに工事完了検査前の渡橋禁止札の責任なすり合い、工事費補助打切の話で、工事者側への床払金に、頭を悩ます村側、労災補償費千数百万円の捻出に腰を抜かす県当局、一八日行った仮検査は事実上の正式検査で、二六日になすべき県認定検査は補助金請求の為の形式的のものであるとか何とか、全く近来流行のテンヤワンヤでありました。日頃うんと誹謗したH町では、一三名の殉職者を出しているのでありまして、G中教会々長I先生宅の両隣が校長で、それが今度二人共濁流に呑まれてしまったそうです。
本教を非科学的視して固く妨害し、神霊の厳存を敢えて認めず、人をして滅びゆく運命に追い込み、毫も省みる事ない唯物教育者の受くべき審判とさえ言う人もあります。
この悲惨事に対し、吾々は何かはっきり教えられたような気が致します。私達は一層の敬虔な心をもって、神の御旨に副わねばならないと心を新にいたすのであります。