御教え『医診では病気は分らない』

「世界救世教奇蹟集」昭和28(1953)年9月10日発行

医学の診断が、如何に杜撰極まるものであるかは、左の体験者の御蔭話がよく物語っている。それはどういう訳かというと、医学の診察は機械だけで行われる以上、分る筈はないのである。何となれば人間は造物主即ち神様が造られたものであるから、病気の場合どんなに精巧な機械であっても、寸毫も分り得る筈はないのである。成程熱の上下、血沈の速い遅い、徴菌の有無などは機械で分るが、それは末梢的であって、病気の本体には触れていないのである。つまり医学は現われた症状を測定するだけで、根本は分らないものとしている。左の患者の如きは、幾人もの医師に診て貰っても、異口同音「貴女には病気はない」と日われるに拘らず、本人は日々非常な苦痛で困りぬいたところ、浄霊によって教われたからいいが、これによってみても医学は診断も満足には出来ないと共に、況んや治すに於てをやである。従ってこの患者の場合は斯ういうのが本当であろう。「貴女のように色々な苦痛があるのは、相当軽くない病気に罹っているに違いないが、併し現在の医学では未だそれを発見出来る迄に進歩していないから、先ず諦めて自然に任せるより仕方がないでしょう」というのが正直な言葉である。それに何ぞや、只病気がないとだけで済ましてるのは、盲目か欺瞞かどちらかであるから、医師諸君の苦しみも御察しするが、併し事は人間生命の問題であるとしたら、医学上分らないものは分らないと、正直に言うのが良心的であろう。さもなければ余計な治療費を患者に負担させて、効果は零としたら、一種の罪悪と言われても仕方がないであろう。

 

御蔭話 大分県K.S. (昭和二七年八月一日)

明主様、日々の御守護有難うございます。拙き文にて甚だ恐縮に存じますが、その一つを御報告申し上げます。

二人目の出産後、肥立ちが悪く何時までも身体がしっかり致しません。あちら、こちらとお医者さんを尋ねましたが「別に悪い所はありません」と聴診器をはずし乍ら言われる。今日も亦同じこと、やっぱり私に病気はないとの事、しおしおと診療所を出たものの、なんだか、ひどく足がだるい。バスに乗ろうと急いだら胸の動悸がなかなかおさまらない。バスにゆられて降りたとたんに目まいがする。数日後又異った病院へ診察を受けに行く。ここでも、おきまり通り、先ず検世界救世教奇蹟集温、それから血沈、ツベルクリン反応、そして子診が始まります。大変に身体がだるい、ひどい盗汗にくるしみます。ちょっとでも身体を動かすと軽い眩暈があります。急いで歩くと動悸がする。長時間の立仕事に足が重く思う様に足が動かない、腰がだるくなる、洗濯も一枚二枚洗ってはしばらく休んでは残りを洗う、火吹竹をなかなか吹けない、自分では一生懸命吹くのに火が起らない、やめて立上がると眩暈、動悸に倒れそうです。丁寧な診察を受けました結果は「何も病気はない」との事。その後他の医者で十二指腸虫の為だと分り、早速駆除致しました。しかし駆除の為に身体は衰弱し、以前にもまして息切れがひどくなりました。やっぱり私の病気は分りません。寝たり起きたりの生活を致して居りました。これが入信前の私なのです。

子供の病気が入信への動機となり、M支部のT先生始め、大分市U出張所のA先生、H出張所のB先生、諸先生方の誠に御親切なる御指導を戴きつつ信仰の道へ入りました。光明如来様、御明主様のどの様に有難いかは、とても私には言い表わす事も、書き表わすことも出来ません。唯日々を感謝の気持で過させて戴いて居ります。教会、支部、出張所の例祭にお参り致す度に、子供はずんずん快方へ向い、私方で先祖祭をして戴きます度に、子供は元気になりますのが目に見える様です。この子供の御浄化につきましては二五年四月に御礼申し上げましたが、その後の事を御報告申し上げたく存じますが、いずれ後の機会にさせて戴きます。

今になって気が付いて見れば、あらあら不思議、いつの間にやら私の身体も立派に治っているのです。子供と共に元気な身体に変えさして下さいまして有難うございます。今では朝から夕方まで動き続けても疲れを感じません。子供を背におんぶして炊事に、洗濯に、あかるく気持よく働かさして戴いて居ります。

御明主様有難うございます。