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『信仰の種類』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

単に信仰といってもいろいろ種類がある。ざっと書いてみるが、(一)お蔭信心。(二)景場信心。(三) 有難信心。(四)利用信心。(五)神憑信心。(六)身欲信心。(七)たがる信心。(八)御無沙汰信心。(九)浮気信心。(十)気紛れ信心。(十)鰹節信心。(十二)贋信心。――等々ある。

之等を一つ一つ解説してみるが――

(一)お蔭信心は――。

ただお蔭さえ貰えばいい、神様の為とか世の中の為とか、そういう事は第二義的で、自分さえょければ可いという利己的信心で、之等は多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に感謝し報恩する事を知らないのである。そうして信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、此お蔭信心は、反ってお蔭を無くする訳で永続きしないものである。

(二)景場信心は――。

その宗教が世の中に埋っている間は甚だ不熱心であるが、一度世の中へ知れ渡り、世間から何や彼や言われるようになると、急に思出したように神様に接近し、働きたがる。

(三)有難信心は――。

之はただ有難い有難いで、客観的には洵に立派な信仰者のように見えるが、神様の大目的たる人類救済というような大きな考えはない。極めて小乗的だから、さっぱり働きがないから、枯木も山の賑やかし程度である。

(四)利用信心は――。

その宗教を利用して一儲けしまうとしたり、何等かの野心を包蔵しているなかなか狡い信仰である。斯ういう人は利用不可能と知るやサッサと逃げてゆく。

(五)神憑信心は――。

やたらに神憑りが好きで、神憑りを扱うのをよいとし、霊界の事を知りたがるのである。之はさほど悪くもないが本筋ではない。何故なれば心霊研究会のやる仕事で、低級霊の御託宣を信じ易く、外れるような苦駄(くだ)らない予言を有難がるので、先ず邪道である。

(六)身欲信心は――。

欲一方で信心する。世間によくある○○様や○○稲荷等へ月詣りしたり、金銭や供物を上げて御利益目当に信仰し、社会や人間の不幸などはテンデ思った事もないという。先ず最もありふれた種類のものである。

(七)たがる信心は――。

威張りたがる、貰いたがる、人からよく思われたがる、よく言われたがる、褒められたがるというように、自己愛から放れ切れない洵に浅はかな信仰で、之等も先ず低級信仰の部類である。

(八)御無沙汰信心は――。

忘れた時分にやってくる。あまり御無沙汰だから、信仰をやめたのかと思うとそうでもない。何を思い出したのか、亡霊のように、フラフラやって来る。之等は寧ろ信仰をやめた方がよいと思う。

(九)浮気信心は――。

一つの信仰を守れない、種々の信仰をやってみたがる。今日は向うの岸に咲く浮草式、だから本当の御利益などは決して戴けない。といって何か信仰がなければ淋しい。迷いが多過ぎる、人から一寸話を聞くとすぐ其気になる、之は寧ろ不幸な人である。

(十)気紛れ信心は――。

甚だ気紛れで、浮気信心と同様、一つの信仰へ熱中する事は出来ない。次々換える。つまり宗教遍歴者である。此種の人は割合インテリに多い傾向がある。

(十一)鰹節信心――。

神様や信仰をダシにして自分の欲を満そうとする。身欲信心と同じで、宗教団体にはよくある型で、指導者学者等のエラ方に多い。

(十二)贋信心は――。

表面信仰者らしく見せかけて、壯の底は全然神を認めない。そして此種の信者に限って非常に口がうまいから、最初は大抵騙される。然し永くは神様が許さないから、遂に尻尾がバして逃げだして了う。

右の中、どれにも該当しない信仰でありとすればそれは正しい信仰である。

 

『第三宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

本教が宗教として、既成宗教並に見られているのは致し方ないとしても、実は既存宗教とは比較にないちじるちがらない程の著しい異いさのある事である。第一本数には、神道も仏教もキリスト教も、哲学も科学も芸術も包含されて居り、又左派も右派も、資本主義も社会主義も共産主義も勿論包含されている。之等はなんびと 本数が発行する書籍、雑誌、新聞等をみれば何人も肯くであろう。

本教の礼拝する御神体と称するものは、光明如来の文字である。如来という以上仏名であるに拘らず、しかそれを御神体と呼ぶ。而も祝詞にして且つ経文である善言讃詞と称するものを奉諦するが、之は私が作ったもので、観音経を出来るだけ圧縮し、祝詞の形式にしたものである。どういう訳かというと、観音経を奏げるには、三十分以上を要し、日本の今日の社会生活には適合しない。どうしても毎朝の礼拝は五分以内で済ませなければ、電車事故などあった場合、勤先が疎かになるという懸念もあるからである。

又私の幾多の説には、凡ゆる宗教の滋味、天文、地文、言霊、易経、哲学、文学、政治、経済、芸術、霊界談義から演劇映画に渉ってまで書くので、人は驚くのである。特に神示の霊医学や、神霊の発揮に至っては、古往今来世界に類例をみないと言われてる。之は本数に限って信徒に病者の極めて少い事実によってみても明かである。其他人事百般に渉って、如何なる難問疑問でも氷解され得るのである。

そうして本教に於ては戒律があって無きが如く、善悪無差別的救済であると共に、半面善悪は厳として犯すべからざる建前となっている。又本教は大乗道であるから、資本主義によって産業は興隆され、社会主義によって分配の偏頗は是正され、共産主義によって人民の大多数を占める労働階級の福祉は増進され、民主主義によって特権階級の発生は防遏されるとしており、徳望によってのみ自然的に階級が出来、一切は世界的、人類愛的の思想が根幹をなし、人類共栄の大理想を活動の主体としているのである。勿論本教に於ては、深遠なる宗教哲学も説くと共に大衆にアッピールして、宗教即生活を唱え、実生活を信仰化する事に力を尽している。従而本教には既存宗教の如き窮屈さもなく、宗教的形式はあまり重きを置かない。実に自由主義的民主的で明朗そのものといえよう。勿論祭典の如きも頗る簡素で、現代生活によく適合しているのである。

特に一言したきは、本教に於ては奇蹟が断然多い事である。恐らく此様な宗教は歴史上其比を見ないであろう。

以上は極概略の説明であるが、要するに従来の宗教史観では到底理解なし得ない事で、本教を称して第三宗教という所以である。

 

『低気圧は人災なり』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

昔から台風や、暴雨、洪水等はすべて天災と言い不可避の現象として諦めていた事は誰も知る処であるが、吾等から言えば実は天災ではなく人災である。それを之から解説してみよう。今日之等の災害を少しでも軽減しょうとして、科学は気象学の研究進歩に努力している。勿論日本に於ても年々多額の費用を投じ、出来るだけの施設をしているが、果して幾分の成果を挙げているか、なかなか所期の目的は達し得られないようである。視よ!年々右の為に蒙る災害は実に巨額に上るのである。近い話が、今回のキティ台風にしろ、数字に表われただけでも米の減収二百十四万石、家屋の倒壊流失四千二百二十九戸、死者行方不明を合せて百四十四名に及び、負傷者の数は数万に達している。其他畑作の損害や道路護岸の荒廃、家屋や諸施設等の被害を総計すれば、当局の発表は八百七十億に上るとされており、如何に被害の甚大なるかが知らるるのである。而も年に数回に亘る大小暴風雨の被害をも加える時、有形無形の損失は蓋し計上出来ない程の巨額に上るであろう。

とすれば、之等の災害を絶無にされないまでも、出来得る限り被害を最少眼に喰止むべく努力しなければなるまい。勿論官民共に能う限りの方法は講じているが、予算の不足等もあり予定の何分の一にも足りない程の成果である以上、この儘では済まされないのである。とすれば、僅かに気象の研究だけを頼りにする現状としては、急の間に合う訳にはゆかない。先ず百年河清を待つに等しいものであろう。という事は科学的研究は形而下的で、恰度物の表皮だけを観て其内面を発見する事が出来ないからである。どうしてもその内面の奥にある根源をつかむより外に、絶対的方法はないのである。

然らば、そのような根本原因を知り得るには如何すればよいかで、吾等は今其事を告げたいのである。

抑々、低気圧とは何かというと、それは地上の空間即ち吾等が言う処の霊界の清掃作用である。何となれば霊界と難も常に汚濁が堆積する。恰度物質的にいえば町や個人の家屋に塵埃が溜るようなものである。ただ霊界は眼に見えない為、汚濁の堆積が人間には判らないだけで、今日迄気が付き得なかったのである。勿論、現在迄の学問が唯物のみに偏し、唯心的研究を等閑視していた罪でもある。之が人類の最大欠陥である事は、吾等が常に唱える処で、どうしても霊界の存在を認識し研究しなければ、低気圧の原理は容易に知り得る筈がない。

以上の如き、否認の霊界の実在を認識せしむる事こそ、宗教本来の使命であるのに拘わらず、今日迄既成宗教に於てはその点洵に微温的というよりも、無関心とさえ思われる程であって、不思議とさえ思えるのである。

余談はさておき前述の如く、霊界に汚濁が堆積する以上、その清掃作用が自然に発生するのは当然である。即ち風で吹き払い、水で洗うのでそれが低気圧である。全く現実界の清掃作用と何等異る所はない。故に此汚濁の根源を突止める事こそ絶対解決の鍵である。然らば一体汚濁とは何であるかというと、それは人間の想念と言葉と行為によって作られる曇りである。即ち人間の悪の心、言行が、眼に見えない霊界に影響する、その結果霊界に曇りが発生するのである。此理によって今日大暴風が頻繁に襲来するという事は、如何に人心が悪化し、悪言悪行為が多いかが判るのである。然し乍ら右の曇りを消滅させる方法があるかというに、それは至極容易である。即ち右の反対の方法をとればいいのである。言う迄もなく人心が善化し善の言行である。即ち悪によって曇らされたる霊界を、善によって晴らすのである。此場合善は光となって曇りを解消する。例えばキリスト教に於ての讃美歌の合唱も、仏教に於る読経も、神道の祝詞も何れも善言讃詞であるから、霊界清掃に幾分かは役立つのである。故にもし右の如き善言讃詞がないとしたら、今よりも一層大きな低気圧が発生する訳である。

以上の如くであるから、低気圧は人間が作って人間が苦しむというのが真理で、自然は実によく出来ている。恰度人体に汚穢が溜れば、病気という浄化作用が発生するのと同様である。

以上によってみても、低気圧の防止手段としては右の原理を自覚し、悪を改め善を行えばいいので、それ以外根本的解決は絶対ない事を知るべきである。

 

『智慧の光』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある。それ等に就て解説してみよう。

智慧の中でも神智、善智、叡智は最上のもので此等の智慧を磨くべく大いに信仰を励むべきである。何となれば斯様な智慧は神を認め、正しい誠心からでなくては湧起しないからである。故に善智によって行動の規範とし努力すれば、決して失敗はなく真の幸福を獲得し得られるのである。

右に引換え、悪から発生する智慧は好智、才智、邪智等で凡ゆる犯罪者は之等の智慧の持主である。特に詐欺の如き智能犯は、此最も優れた者である。此意味に於て昔から英雄や一時的成功者等も実は此悪智慧の輪廓が大きいというに過ぎないのである。

処が面白い事には、善智である程深く、悪智は浅いという事実である。之は昔から今に至る迄の悪人の経路を見ればよく表われている。非常に巧妙に仕組んだようでも、どこかに抜けてる処がある。その隙が破綻の因となり暴露失敗するのである。此理によって一時的でなく、永遠の栄を望むとすれば、深い智慧が働かなくてはならない。そうして深い智慧程誠の強さから湧くのであるから、どうしても正しい信仰人でなくて〔は〕駄目という結論になる。

今日の社会悪も、右の理が判れば何でもない。全く現代人の考え方の浅い為である。それは各面に表われている。例えば、政治家にしてもただ目先ばかりを考え、問題が起ってから周章ててその対策を講ずる。此点医学の対症療法とよく似ている。処が問題の起るのは起るべき原因があって起るので、決して偶然に起るものではない。又浅智慧では将来の見透がつかないから、本当の政策は立てられない。恰度、碁、将棋と同じようなもので、達人は五手も十手も先が見えるから勝つが、ヘボは二手か三手先がやっとという訳で負けるに決っている。

以上の意味に於て、人間は大いに善智を養い叡智が働かなければ何事もうまくゆく筈がない事を知るべきで、それには信仰によるより外に方法のない事を知るであろう。

『自然無視の文化』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

今日、日本に於ける文化が進歩しつつあるに拘わらず、或面には種々の行詰りが生じ、予期の如くにゆかないのは何故であろうか。私の見る処によれば・ その根本に一大誤謬のある事で、世間はあまりそれに気がつかないようである。

例えば政治の面であるが、どうも今迄政府が立案し、議会が協賛したものであってもイザ実行となると、その政策の十中八九は失敗に帰する事で常に新聞紙を賑わしている。だから新聞の政治欄は、殆んど政策失敗の記録といっても過言ではなかろう。然らば斯様に絶えざる失敗は何が故であろうか?私の観る処では一言にして言えば自然無視の結果である。之は政治のみには限らないが、現代人は凡ゆる方面に於て何でも人為的にする方が可いとしている事で、それが文化的進歩的と固く信じているのであるから困ったものである。其為政治面に於ても、必要のない否反って弊害さえ生ずるような政策を立案実行する。その表われとして何でも彼んでも規則を作る、規則ずくめにする、今日誰もが自由主義を云云するが、吾人の経験によれば明治、大正時代の方が国民はどれ程自由であったかしれなかった。それに引換え、今日は実に窮屈である。それは前述の如く規則ずくめであるからで、規則の縄に縛られて人民は身動きも出来ない。処が面白い事にはひとり人民ばかりではない、官吏そのものが規則の縄に縛られて困っている事がある。何よりの証拠は何かの問題にぶつかるや、常識や人情からいえば別に咎むる程ではないが、規則だからそういう訳にはゆかない、僕等と雖も規則には困るのだ、という歎声を役人が漏す事は屢々聞く処である。恐らく法規の多い事は、日本は世界一であると誰かが言った事があるが、全くそうである。「法益々滋くして罪弥よ多し」という言葉があるが、それは今の日本に当嵌るような気がする。

然らば何故斯様になったかという事を検討してみると、種々の原因もあろうが、其中の有力なるものとしては彼の大戦である。当時人民を機械化する事に骨折った。機械は一定の場所に置き、一定の運転をさせればいい。機械に自由などはない、時々油をさし歯車を廻せば足りる。恰度人間が此機械のように扱われた。言いたい事は何も言えない、行動の自由もない食いたい物も食えない、――という人間機械が出来上った。人間を機械化する為には鋳型が必要である。それが所謂規則である。未だ残っている統制経済もその鋳型の一つである。

そうして人民を機械化するには多くの役人が要る。戦時中何々庁、何々院の役所が次々出来、官吏の数も平常の何倍に激増したのも其為であった。その増加した官吏が今日迄引続いて残っている。何しろ官吏の給料だけで一ケ年三百億というのだから驚くべきである。処がそれだけなら未だいいが、其他に一寸気のつかない大問題がある。それは官吏の多い結果として人間が余る。人間が余る結果、サボる訳にもゆかないから、何か仕事を見付けなければならない。其場合役人の眼をつける処は、規則の改正である。之が甚だ困りものなのだ。何故かというと、一旦法規が新しく施行せられると、今まで身に着いて来た仕事は零になる。新法規に対応すべき方法や、手段が生れ、漸く熟練し、凡てがスムーズにゆくようになると、一週間かかる仕事が三日で済むようになるから官吏が閑になる。それが規則改正の考えを起すという訳である。故に此点に覚醒を促し、官吏を減らさなくてはならない。それには一大英断を以て、行政整理を実行する外はないであろう。

以上述べた様な事は、直接間接に国家に与える損失は蓋し甚大なるものがあろう。よく聞く話だが、英米に於ては同一職業を数十年も続けているものが多数あるそうであるが日本には余りきかない、というのは日本位凡ゆるものが目まぐるしく変る国は世界にあるまい。私は此根本理念を一言にしていえば、今日の日本人は余りに自然を無視する結果である。何でも彼でも人為的にする事が文化の進歩と思っている。

以上は主に政治の面であるが、其他の面にも言いたい事が沢山ある。例えば私が提唱し好成績を挙げている農作物の無肥料栽培である。之は本紙創刊号に続いて毎号実際効果のある報告を掲げているが、土の成分と堆肥だけで驚くべき好成績を挙げている。此根本理論は自然順応にあるので、それに気付かない農業者は永い間、人為的肥料を可として、多額の肥料代と多くの労力を費し、土を殺し害虫を発生させ、それ等の労苦に憂身をやつし、成績不良という結果に悩んでいるのであるから、其愚及ぶべからずである。全く自然無視の結果であって、我等の農耕法が堆肥を重視するのは、落葉や枯草は自然であるからである。今一つ自然無視の害として医療に就て述べてみるが、人間に病気発生するのは、種々の原因によって滞溜せる毒素の浄化作用であるから、病気とは自然の生理作用で、甚だ必要事である。其際の発熱、咳嗽、喀痰、鼻汁、盗汗等の排泄物はそれによって身体が清浄化し、健康を増すのであるから、病気とは健康増進の摂理であって、実に神の大なる恩恵である、に拘わらずそれを反対に解釈した今日の医療は、毒素排泄作用を、停止するのを可としているのであるから、その誤りの如何に甚だしいかである。そうして毒素排泄作用の最も簡単なるものが、感冒である。感冒に罹る事によって肺炎も肺結核も免れ得るのであるから、感冒を奨励するとしたら、結核や肺炎は何分の一に減ずるかは火を見るよりも瞭かである。然るに之に気のつかない医学は逆理によって、感冒の場合毒素排泄の停止手段を行う結果、結核や肺炎は更に減少する処か、反って増加の傾向さえ見らるるのは何よりの証拠である。之等も自然無視の為であることは言うまでもない。