『理屈の迷信』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

今日、迷信という事を非難し軽蔑するが、之は考えものである。それが特にインテリ人に多いのも困った事実である。然らば迷信は如何なる原因によって発生するかを、明かにする必要があろう。先ず現在の人間生活を見る時、此の世の中はあまりにも理屈に合わない事だらけだ。斯うしよう、彼(あ)アしよう、きっと斯うなる。彼アなると想っても、予期に反する結果のオビタダしい事は、誰も経験する所であろう。とすればきっと斯うなると予想する、その考え方が間違っているのではないか、理屈通りにならないという事は、結局理屈自体が間違っているからで、其点に気がつかなければならないのである。

勿論人間の不幸は、一切が理屈通りに行かないからとすれば・ 理屈通りにすれば幸福者たり得る事は当然な話である。

右の意味によって、今迄の考え方や、理屈を作る処の頭の切り替えが肝腎で、そこから出発しなくてはならない。事実世の中をみる時、その殆んどが失敗者といってもいい。とすれば、一般人が可とする理屈は反対であるから、その反対の其反対である理屈こそ、本当の理屈になる訳である。私が常にいう逆理とは此事で、それは理屈よりも事実の方を主とする以上、殆んど失敗はないのである。例えていえば、本教浄霊は理屈に合わないが不思議に治る、医学は理屈には合うがサッパリ治らない、という声もよく聞くのである。

又斯ういう事がある。世人は学校を出てから実社会に入るや、学校で習った理屈と、現実とあまりにも違う事を発見するであろう。之は全く理屈が主で、事実を従とする教育が禍いするからである。特に日本はそれが甚だしい。此頃漸くアメリカ教育の影響を受けて、よほど実際的にはなったが、未だまだ本当の自覚は前途遼遠の感がある。卑近な例ではあるが学校で理科を勉強し、卒業しても電気の故障一つ治せない事や、女学校を卒業しても、糠味噌の漬けかたすら知らない、というのは理屈の学問だけを教えて、実際の学問を教えないからである。

以上の如く、理屈に捉われて現実を無視する態度こそは、理屈の迷信にかかっているといっても否とは言えまい。