『観音力とは何ぞや』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

昔から、妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿弥陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、不思議であると共譲に、理由がなくてはならない筈である。之に就て、文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前鐵から此事に就て疑問を抱いていたが・ 信仰が進むにつれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。

それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性であられるかという点であるが、之こそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり、女であり、いわば両性を具備され給うておらるるのである。

そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処で、火水に分ければ、男は火で、女は水であり、火は経に燃え、水は緯に流れる。此経緯がいよいよ結ばるという時が来たのである。

又光とは、火と水の密合であって、火素の量が勝つ程、光は高度を増すのである。此理に由って、昼の世界は、火素の量が殖えるから光が強くなる。観世音菩薩の御働きが、光明如来と現ぜられる所以である。

次に最も重要なる点は、経緯の結合する事によって真の力が発生する。力という字は、経の棒と緯の棒と結んで曲り、その先端が撥ねる。之は結ぶ事によって、左進右退的回転力が発生躍動するという意味で、全く文字なるものの意義深きを思わしむるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力が生ずるそれで、特に観音力という所以である。

序いでに、今一つの重要事をかいてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、弥勒又はメシャの御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、此五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。

そうして如何に釈尊が大予言者と難も、実際の五十六億七千万年後というが如き天文学的数字の未来を予言し給う必要があろうか。それは何等の意味をもなさないからである。先ず予言の価値としては、精々数千年位が実際に即している。キリストの三千年後の予言などは、洵に適切な年数であろう。

観世音菩薩のミロクとは、応身弥勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後此応身弥勒の千変万化の御働きこそ、割目して見るべきである。

又五六七の数も三六九も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定っており、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。