『大乗宗教』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

宗教、特に仏教に、大乗、小乗の区別のあるのは遍く人の知る所であるが、どうも今日迄、徹底されない恨みがあったようである。之に就て私の見解を述べてみよう。

抑々大乗とは大自然という意味である。大自然とは、万有一切の生成化育のあり方をいう事は勿論で ある。故に大乗とは一切を包含して余す処がない。此意味に於て、今私の説く大乗は大乗仏教ではなく、大乗道である。即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。

右の如く、一切万有の活動を凝視する時、其処に自然の道が窺われる。勿論道に従う事によって順調に進むべき事の認識を得る人にして、真の人たるの価値があるのである。此理によって、道に外れる時は無理を生ずるから、必ず支障を及ぼし、結局停滞又は破壊される事になるのである。右の如く道に叶えば創造となり、道に外るれば破壊となるというのが、此世界の実相である。恰度汽車電車が軌道に外れなければ進行し、外るれば駄目と同様である。

故に一切は滅ぶるのも、滅ぶ理由があり、生れるのも、生れるべき理由があり、決して偶然はない。凡ては必然である。此意味に於て思想上に於ても、左に偏すれば右が生れ、右に偏すれば左が生れ、何れにも一方に偏する事なく軌道を進むべきで、恰度自動車を運転するのと同様である。此理によって資本主義も社会主義も、共産主義も、保守派も、進歩派も、積極主義も、消極主義も他の何々主義も必要があって生れ必要によって滅ぶのである。勿論宗教と雖もそうであって、出現するのは出現すべき理由があるからである。処が人間の多くは自己の居点に立って眺め、自己以外のものは兎角異端視するのである。それは自己という小さき眼孔から観るからで、諺に謂う、「葭(よし)のズイから天井覗く」という訳である。然し此大地を経綸し給う神の御眼からみれば、蝸牛角上に相争う人間の小ささに、苦笑し給うであろう。

凡ゆる物質は、人間に不必要であれば自然淘汰され、必要があれば如何に人間が淘汰しようとしても 駄目である。例えていえば、茲に新しい宗教や、新しい思想が生れる。それが人間の眼には迷信邪道と見えても、人類に必要があれば発展し、不必要であれば淘汰されるのであるから、或程度自然に任すべきである。

真に生命があり、価値がありとすれば、人力を以て弾圧すればする程、反って発展の度を高める事になるのである。何よりの例は彼のキリスト教である。教主キリストを断罪に処したに拘わらず、今日の隆盛をみれば何をか言わんやである。

現代人が一切をみる眼があまりに小さく、余りに短見である事の誤りに、反省を促すべく此文をかいたのである。