『智慧の光』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある。それ等に就て解説してみよう。

智慧の中でも神智、善智、叡智は最上のもので此等の智慧を磨くべく大いに信仰を励むべきである。何となれば斯様な智慧は神を認め、正しい誠心からでなくては湧起しないからである。故に善智によって行動の規範とし努力すれば、決して失敗はなく真の幸福を獲得し得られるのである。

右に引換え、悪から発生する智慧は好智、才智、邪智等で凡ゆる犯罪者は之等の智慧の持主である。特に詐欺の如き智能犯は、此最も優れた者である。此意味に於て昔から英雄や一時的成功者等も実は此悪智慧の輪廓が大きいというに過ぎないのである。

処が面白い事には、善智である程深く、悪智は浅いという事実である。之は昔から今に至る迄の悪人の経路を見ればよく表われている。非常に巧妙に仕組んだようでも、どこかに抜けてる処がある。その隙が破綻の因となり暴露失敗するのである。此理によって一時的でなく、永遠の栄を望むとすれば、深い智慧が働かなくてはならない。そうして深い智慧程誠の強さから湧くのであるから、どうしても正しい信仰人でなくて〔は〕駄目という結論になる。

今日の社会悪も、右の理が判れば何でもない。全く現代人の考え方の浅い為である。それは各面に表われている。例えば、政治家にしてもただ目先ばかりを考え、問題が起ってから周章ててその対策を講ずる。此点医学の対症療法とよく似ている。処が問題の起るのは起るべき原因があって起るので、決して偶然に起るものではない。又浅智慧では将来の見透がつかないから、本当の政策は立てられない。恰度、碁、将棋と同じようなもので、達人は五手も十手も先が見えるから勝つが、ヘボは二手か三手先がやっとという訳で負けるに決っている。

以上の意味に於て、人間は大いに善智を養い叡智が働かなければ何事もうまくゆく筈がない事を知るべきで、それには信仰によるより外に方法のない事を知るであろう。