『低気圧は人災なり』

自観叢書第12篇、昭和25(1949)年1月30日発行

昔から台風や、暴雨、洪水等はすべて天災と言い不可避の現象として諦めていた事は誰も知る処であるが、吾等から言えば実は天災ではなく人災である。それを之から解説してみよう。今日之等の災害を少しでも軽減しょうとして、科学は気象学の研究進歩に努力している。勿論日本に於ても年々多額の費用を投じ、出来るだけの施設をしているが、果して幾分の成果を挙げているか、なかなか所期の目的は達し得られないようである。視よ!年々右の為に蒙る災害は実に巨額に上るのである。近い話が、今回のキティ台風にしろ、数字に表われただけでも米の減収二百十四万石、家屋の倒壊流失四千二百二十九戸、死者行方不明を合せて百四十四名に及び、負傷者の数は数万に達している。其他畑作の損害や道路護岸の荒廃、家屋や諸施設等の被害を総計すれば、当局の発表は八百七十億に上るとされており、如何に被害の甚大なるかが知らるるのである。而も年に数回に亘る大小暴風雨の被害をも加える時、有形無形の損失は蓋し計上出来ない程の巨額に上るであろう。

とすれば、之等の災害を絶無にされないまでも、出来得る限り被害を最少眼に喰止むべく努力しなければなるまい。勿論官民共に能う限りの方法は講じているが、予算の不足等もあり予定の何分の一にも足りない程の成果である以上、この儘では済まされないのである。とすれば、僅かに気象の研究だけを頼りにする現状としては、急の間に合う訳にはゆかない。先ず百年河清を待つに等しいものであろう。という事は科学的研究は形而下的で、恰度物の表皮だけを観て其内面を発見する事が出来ないからである。どうしてもその内面の奥にある根源をつかむより外に、絶対的方法はないのである。

然らば、そのような根本原因を知り得るには如何すればよいかで、吾等は今其事を告げたいのである。

抑々、低気圧とは何かというと、それは地上の空間即ち吾等が言う処の霊界の清掃作用である。何となれば霊界と難も常に汚濁が堆積する。恰度物質的にいえば町や個人の家屋に塵埃が溜るようなものである。ただ霊界は眼に見えない為、汚濁の堆積が人間には判らないだけで、今日迄気が付き得なかったのである。勿論、現在迄の学問が唯物のみに偏し、唯心的研究を等閑視していた罪でもある。之が人類の最大欠陥である事は、吾等が常に唱える処で、どうしても霊界の存在を認識し研究しなければ、低気圧の原理は容易に知り得る筈がない。

以上の如き、否認の霊界の実在を認識せしむる事こそ、宗教本来の使命であるのに拘わらず、今日迄既成宗教に於てはその点洵に微温的というよりも、無関心とさえ思われる程であって、不思議とさえ思えるのである。

余談はさておき前述の如く、霊界に汚濁が堆積する以上、その清掃作用が自然に発生するのは当然である。即ち風で吹き払い、水で洗うのでそれが低気圧である。全く現実界の清掃作用と何等異る所はない。故に此汚濁の根源を突止める事こそ絶対解決の鍵である。然らば一体汚濁とは何であるかというと、それは人間の想念と言葉と行為によって作られる曇りである。即ち人間の悪の心、言行が、眼に見えない霊界に影響する、その結果霊界に曇りが発生するのである。此理によって今日大暴風が頻繁に襲来するという事は、如何に人心が悪化し、悪言悪行為が多いかが判るのである。然し乍ら右の曇りを消滅させる方法があるかというに、それは至極容易である。即ち右の反対の方法をとればいいのである。言う迄もなく人心が善化し善の言行である。即ち悪によって曇らされたる霊界を、善によって晴らすのである。此場合善は光となって曇りを解消する。例えばキリスト教に於ての讃美歌の合唱も、仏教に於る読経も、神道の祝詞も何れも善言讃詞であるから、霊界清掃に幾分かは役立つのである。故にもし右の如き善言讃詞がないとしたら、今よりも一層大きな低気圧が発生する訳である。

以上の如くであるから、低気圧は人間が作って人間が苦しむというのが真理で、自然は実によく出来ている。恰度人体に汚穢が溜れば、病気という浄化作用が発生するのと同様である。

以上によってみても、低気圧の防止手段としては右の原理を自覚し、悪を改め善を行えばいいので、それ以外根本的解決は絶対ない事を知るべきである。