4.『固め方法と溶かす方法』

以上のごとく現在までの療法という療法は、ことごとく固め手段であるから、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事がよく分ったであろう。そうして薬剤以外の方法としては彼(か)の電気、レントゲン、種々の光線療法等、いずれも固め方法であり、氷冷、湿布、塗布薬等も同様であるが、ただ灸点、鍼(はり)、吸瓢(すいふくべ)だけは右と異(ちが)い、刺戟によって浄化中の毒素を患部へ誘引し、一時的苦痛緩和を狙ったもので、もちろん治るのではないから、灸など毎月というように定期的に据えるのはそのためである。このように今日までのあらゆる療法は浄化停止であるから、病を治すのではなく、結局治さない方法でしかないのである。

この理によって真の病を治す方法は、右とは反対に固結した毒素を溶かして体外へ排除させる事で、それ以外真の療法はないのである。それを理論と実際とによって、これから詳しく解説してみるが、それについて前もって知っておかねばならない事は、人間なるものの実体である。これを医学では一個の物質と見なしているが、もちろん医学は唯物科学から生れたものである以上、そう見るのも当然であるが、この見方こそ誤謬の根本である。というのは人間が単に物質のみであるとすれば理屈に合わない事になる。何となれば人間には意志想念という目にも見えず、手にも触れないものでありながら、確かに存在しているからで、こればかりはいかなる科学者といえども否定は出来ないであろう。とすればこの無なるものが、実は人間を自由自在に操っている本尊様という事になる。近来医学でも精神医学といって、精神的に治す方法を試みているが、これが案外奏効するので、漸次関心を持たれて来たという話である。してみると医師の中にも、人間は物質のみでない事を認識された訳である。以上のごとく人間は肉体以外見えざる心があり、心を包んでいるものを私は霊と名付けている。従って霊と肉体との両者併合によって成立っているのが人間である事は余りにも明らかである。ところが医学は右のごとき人間の本体である霊を無視し、体のみを研究して来たのであるから、一方的跛行的であって、言い換えれば肝腎な主人公たる魂を無視して、その配下共を対象とした訳である。つまり肉体は外殻で中身ではない。中身とは見えざる霊であるから、これを主としてこそ真の医学は成立つのである。医学がすべての病原を細胞〔菌〕のみに持ってゆくのもそのためである。ではなぜ科学は霊を認めなかったかというその原因こそ、霊は肉眼で見えず、機械でも測定出来なかったからである。というのは全く現代科学のレベルが低いにもかかわらず、それに盲目であったため科学を実価以上に信じ、科学で把握出来ないものは一切無と決めてしまった。つまり科学過信の結果である。従って将来科学が幾層倍進歩した暁、霊の確認はもちろんだが、ただそれまでにいかに誤った医学による多数の犠牲者が出るかを想う時、一日も早くこの迷盲を目覚めさせなければならないと痛感するのである。という訳でこの発見が現在科学の水準より余りに進み過ぎているため、容易に信じ難いのである。とはいうもののこの説こそ不滅の真理である以上、遅速はあろうが必ずや、全人類理解の時の来るのは、さまで遠くはないと思うのである。

ここで後〔前〕へ戻るが、病の根本である霊の病とは何かというと、これこそ霊へ発生した曇りであって、これを除去する方法を浄霊というのである。すなわち霊の曇りがなくなれば、体へ映って濁血は浄血となり、最も濃厚な分だけ種々の排泄物となって体外へ出て病は治るのである。そうして濁血の古くなったものが膿であるから、彼(か)の排泄物には膿と濁血と、両者混合のものとの三種あるのもそういう理由である。

以上のごとく濁血が霊の曇りの原因としたら、一体濁血は何によって作られるかというと、意外も意外これこそ薬剤であるから、初めて知った人は開いた口が窄(すぼま)らぬであろう。ところが今日までそれを知らないがため、薬剤をよいものとして使用して来たのである。しかし薬毒は医学でもある程度認めてはいたが徹底しなかった。すなわち医学では自然に排除されるとしていた事である。それについて次に説明してみるが、本来人間の食物としては五穀、野菜、魚鳥、獣肉等ことごとくは、人間の嗜好に適するように出来ており、その味を楽しんで食えばそれで必要なだけの栄養が摂(と)れ、生が養われるので、これが自然である。この点生殖と同様で、子を造る目的ではなく、他の目的によって自然に出来るのである。このように食うべき物は自ら決っており、体内の消化器〔機〕能もそれだけを完全に処理するようになっているので、他のいかなる物も処理されないのはもちろんであるから、薬は異物である以上処理されず、大部分は残ってしまう。しかも浄化を停止するだけの強い毒である以上、その毒分は残り血液中に吸収される。これが濁血である。この理を知って医師も患者も既往(きおう)を顧みれば必ず分る。この病気は何年前、何十年前に、アノ病気の時服(の)んだアノ薬、アノ注射のためであったと気が付くのである。というのは薬毒の執拗(しつよう)なる容易に解消するものではないからで、この例として私が五十二年前肋膜炎を患(わずら)った時の薬毒が今も残っており、数年前から私自身毎日のように溶かしており、近頃は大分減ったが、それでも少しはまだ残っている。今一つは三十七年前歯痛のため約一ケ年間、毎日のように薬を塗(つ)けたための痛みも今なお残っており、これも毎日浄霊しているくらいであるから、薬毒の恐ろしさは到底想像すらつかないものである。このように薬毒は一生涯の悩みの原因となるばかりか、全部の解消はまず困難といえよう。この理によって我浄霊法とは薬毒溶解排除の方法であって、現に薬毒が減っただけは快方に向うにみても判るであろう。