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おかげばなし

自観叢書第4篇、奇蹟物語『おかげばなし改題』

昭和24(1949)年10月5日発行

紅蓮の直中より救はる

屋根から落ちても無事

九死に一生を得て

列車に激突――微傷一つ負わず救はる――

軒先迄燃え焼失を免る

水禍より逃れて

震禍を免る

交通事故の奇蹟、自動車に轢れてカスリ傷一つ

漁の不思議

瓦カマドに浄霊――等外品なしの上成績得る――

林産物の御利益――素人で三十八俵の炭焼に成功――

病貧の御救い――今は明るく感謝の生活――

斯んな事までも

盗難品が出た御利益

観音心と盗心

感謝の毎日

返ったリヤカー

危機一髪盗難を救はる

反抗の力空しく

死線を超える事幾度

カリエスが治る――現代医学を超えた御力――

六年間のカリエス救はる

精神病が全快す――人生を取戻した復員者――

小児麻痺より救はれて

御力に死者蘇る

萬人に一人の病――リチャード氏病がなほる――

御教えに深き感謝――病名不明の「けいれん」より救はる――

 

※責任者:

「おかげばなし」中の筆者のお名前はイニシャル表記にし、住所は地域のみの表記にしました。

 

『黄泉比良坂の戦』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

この標題について、時々たずねられるから概略解説してみよう。これはもちろん古事記にあるものでそれを如実に私が体験した経緯をかくのである。

今からちょうど二十年くらい前、ある日青山から明治神宮参道から神宮の入口に向かって二、三丁行ったところのちょうど参道ダラダラ坂の三分の二くらいの地点で、一番低いところのその横町にその頃某子爵がいた。そこへ私は招かれたのである。その子爵というのは大分落ちぶれて、生活にも窮しているような有様で、一種の神道的信仰を始めて間もない頃であった。まだ少数の信者で、なかなか経費をまかなう程には行っていないようであった。神様は国常立尊(くにとこたちのみこと)を中心としていたので、この時私は何か神秘がありそうな気がすると共に、種々信仰談に花を咲かせ、私も相当の援助をすべく約束した。その時霊感によって知り得た事はその家が黄泉比良坂(よもつひらさか)になるという事である。黄泉とは世を持つすなわち天皇である。しかも世を持っていた幕府が倒壊し、それを継承したのが明治天皇であるから、明治神宮の参道は平らな坂で、世もつ平坂という事になる。おもしろい事には右の子爵と懇意になってから互いに数回の往き来をして、最後には私は彼を晩餐に招いたので夫婦揃って来た。その時土産にもって来たものが、実に神秘極まるもので、子爵の家の宝物となっていたものである。またその時までの間に彼と私と一種の争いが起こった。それははなはだ複雑しているのでここでは略すが、とにかく争いの結果和解の形に なったため招いたのであった。

最初から最後までの経路を考えると、どうしても黄泉比良坂の戦の小さな型であったとしか思えない。しかもその晩戦に勝って、敵は賠償金か貢物のような意味で、右の宝物を持って来たものであろう。

以上のごとく、最初から最後までの経路を考える時、どうしても黄泉比良坂の戦の型としか思えない。

その後数年を経た昭和十三年不思議な事があった。その起こりというのはこういう訳だ。私は昭和九年に麹町平河町に信仰的民間治療の営業所を借り、開業したが、それが一年経つか経たない中に非常に発展した結果、宗教専門にすべく、玉川上野毛の今の宝山荘の土地家屋が売物に出たので買入れたのであった。というと馬鹿に景気がいいが、実は先方の言い値十万円というのに、私は五千円しか金がないのでどうしようもないが、しかし欲しくて堪らない。売主へありのまま話をすると、おもしろい事には売主は借金だらけで、一日も早く逃げ出したいのであるが、今と違ってその頃は買手がほとんどない。借金取りには責められるという訳で、とにかく一万円の金を入れてくれればすぐ立退くとの事、後金は分割払でいいというので、私も他から五千円借り都合一万円の金を入れ、昭和十年十月一日引っ越したのである。

引っ越したとはいうものの、それからが大変だ。何しろ十万円の買物に一万円しか払ってないので、三月後第二回の払二万数千円を七所(ななところ)借りしてやっと払ったという訳である。ところがその土地家屋は勧銀に担保に入っていたが、右の売主はほとんど年賦金一文も入れなかった。先方はそれを秘密にしていたので、買ってから判ったのである。私もあまりの軽率に後悔したが今更仕方がない。そのうち勧銀は競売の挙に出でた。負債は元利積って五万円くらいあったと思う。まず第一回の競売の時、勧銀の指定値は五万五千円で、札の入れ手がなかった。第二回が四万五千円であったが、私としては第三回はもっと安くなるから、その時札を入れようと少し欲張りすぎたのである。ところが思いきや第二回の四万五千円の時入札者が現われたのでそれへ落ちてしまった。その通知を受けた私は愕然としたが、もう取返しがつかない。弁護士に相談すると、競売決定までに一週間あるから、その間に異議の申立をすればいいというので一縷の望みが出来た。ここで奇蹟が起こったのである。それは右の一週間目の期日に弁護士が私の家へ来た帰りがけ某所へ寄った。ところがその人いわく、「岡田さんの競売決定の期日は一週間とすると、今日あたりではないか」との事で弁護士も気がつき、「コレは大変だ、確かに今日が期日だ」という訳で、急速事務所へ帰り、書類を作り裁判所へ持って行ったが、その晩の十一時であった。後一時間過ぎれば右の不動産は永遠に先方の所有に帰するのである。何と重大な一時間ではないか。本教の基礎を造ったのはこの家であるから、その時失敗したら今の発展はあり得なかったであろう。その時思った事は競売異議申立に要する保証金は相当の額であったが、奇蹟的に間に合った。もちろん百円札であったから、百はモモと読む、すなわち百円札は桃の実になる。黄泉比良坂の戦いに一旦は破れた神軍が、伊邪諾尊(いざなぎのみこと)から下されて桃の実を魔軍へぶっつけたので、勝いくさに転換したというその意味であろう。

『霊写真』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

私はさきにかいたごとく、昭和三年二月の四日の節分の日、それまで従事していた仕事を全部放擲(ほうてき)し信仰生活に入った記念日でもある。もちろん神示によって私の使命を覚り、幾多の奇蹟によって確信を得たからで、全身全霊を打込まざるを得ない事になったからである。この時から昭和九年五月一日東京市麹町区平河町に一小家屋を借り民間治療所を開業するまで六年三ケ月の間、あらゆる霊的研究とあいまって神幽現三界の実相を把握し、人間の病気と健康に関する一大発見等によって、神霊治療こそ、病無き世界を出現し得べき絶対的方法である確信を得たからである。ところがこの年一つの大奇蹟が顕われた。それをこれからかいてみるのである。忘れもしないこの年の十月十一日東光男という名刺をもって初めて来訪した男があった。東光男という文字に興味を引かれ私は会う事にしたが、彼の話はこうである。

「自分は約二十年前支那内地を旅行した。その時支那の有力な古い宗教である道教の信者となり、ある時私は神憑りとなった。その時の御託宣には、「今より二十年後日本に観音力を持った人が現われる」という事である。その後日本へ帰国したが右の御託宣を信じ、それとなく待っていたところ、今年の春自分の家より 東の方に観音力を持った人が既に現われているというのである。自分の家は渋谷であったから東といえば赤坂から麹町方面なので探していたが、たまたま麹町に知人がありその話をしたところ、それは最近平河町に観音様で病気を治す人が出来たから訪ねてみよ――と言われ、来訪した」というのである。私はそれを聞いて、「それは多分私でしょうよ」と言って二、三時間おもに宗教的な話をやり、帰りがけに、「写真を映さしてくれ」というのである。私は承知したところ、彼は、「床の間へ座ってくれ」というので、私は座り写さしたところ、翌日彼は、「こんな不思議な写真が出来た」と乾板を持って来た。私も見て驚いた。私の横腹の方から白色雲煙のようなものが天井の近くまで噴出状に出ていて、頭上一、二尺辺に千手観音の姿が見える。私はあまりの不思議さに眼を瞠った。昨日写さした時何か不思議なものが写るような予感はしたが、観音様が写るなどとは想いもよらなかった。よく見ると立派な画である。多分どこかにある絵を、マグネシ ウムを焚いた瞬間、空間を超越し、電光石火画面に表わしたものに違いない。それまで外国のも日本のも種々な霊写真をみたが、それ等は人間の死霊がおもで、外国写真などでキリストの写ったのをみたが、これはトリックである事がマザマザと判るのである。外にそう大した霊写真は見なかった。ところが右の私の霊写真の何という素晴しさだ。のみならず間髪を容れない一瞬に、無論遠方にある画を写真に表わすという。その不思議な力こそ観音力でなくて何であろう。この観音力の素晴しさを考える時、今にどんな力を発揮されるが想像もつかない。鳴呼、恵まれた吾なるかなと、自ら湧く希望感に酔ったのである。

これより先、赤坂の某所に住んでいた某夫人の病気を私が治したので、その婦人は感激の余り三階に観音様の部屋という六畳敷の一間を作った。その部屋は私のかいた観音像や、種々の書体をかけた。私も夫人の感謝の気持に嬉しく思ったのである。その部屋の出来上る頃、私は千手観音の像が描きたくて仕方がない。それから巾五尺長さ六尺という大きな紙に描くべく構図にとり掛った。しかし描く部屋が長四畳の座敷なので狭いとは思ったが、外に適当な部屋がない。それを婦人が見兼ねて、「今度出来た私の家の三階の観音様の部屋ではいかがです」という。私は気がついて、それは結構だ――という訳で、いよいよ右の観音の間で筆を執る事となった。

ちょうど三分の一くらい出来た時である、その夫人の主人というのが大酒家で、非常に酔って帰った晩、何思ったか書きかけの千手観音の画をナイフで滅茶滅茶に切り刻んでしまった。それを電話で知らされ、驚いて行ってみると、なる程余りの無残さで、一時私は茫然として泣きたいくらいであった。その時ふと浮んだ事は二、三日前に出来た、千手観音の霊写真である。そこでよく考えてみると、観音様は初めのではいけない、このようにかけと霊写真によって見せてくれたに違いない。とすれば切られたのは、観音様がなされたのだ。そうだむしろ感謝すべきだと思ったのである。早速新規蒔直しに書いたのが五六七(ミロク)教会小田原本部にある千手観音のお姿で、仏壇へ祀る御屏風観音でもある。そうして右は最初の構図と違う点が三つある。最初のは円光がお顔の周囲だけであったの が全身的になった事と、最初のは髯(ひげ)があったのが、今度のは全然ない。いわば若いお姿で、また最初のは雲の上であったのが、今度のは巌の上という訳で、つまり円光が大きくなった点、お年が若くなった点、雲上から降られて地上で救いの業をなされるという訳で、私はなる程とうなずいたのである。

右の霊写真から十日後の十月二十一日また素晴しい霊写真が出来た。この日観音様の鎮座祭をしたいというので、私は右の三階観音様の部屋へ招かれた。いまだ何か霊写真が出来るような気がしたので東光男に写さした。彼は今度も床の間に座ってくれといい、前へ香炉が欲しいというがないので、白磁の水盤を香炉代りに置いた。そうして私に端座合掌してくれというのでその通りにした。この時写ったのが空前絶後ともいうべき霊写真で、それは室内が朦朧(もうろう)として中央に鮮やかに日光が強い白色で表われ、その円光の中央に私の顔がかすかに表われ、合掌した手も見える。座蒲団と水盤は微かながら鮮明に表われたが、その外は何も写らない、右はその時円光から強力な光波が放射し室内に充満したため、物体が妨げられたのである。その時疑惑を避けんがため、座にいた七、八人の人を立合わせた。というのは前の霊写真の時は、立合人は、例の夫人一人であったからである。次いでその晩今一枚の霊写真が出来た。

それは、私がしきりに睡気を催すので、前にあったテーブルへ顔をうつ伏せにして居睡りをした。そこを東光男が、前二回はマグネシウムを発いたが、この時は私が動かないためか、電灯の光で写した。出来上ったのをみると、これはまた驚いた。うつぶせになっていたので、頭だけ写った。ところが頭の上に龍神が首をもたげ身体は螺旋(らせん)状に巻いており、すこぶる長身である。龍神の身体からは、幾条もの光を発している。数えると五条の光で、これは金色であるから金龍である事に間違いはない。私の守護神は金龍である事の裏付といってもいい。ここで東光男について少しかいてみるが、この男は時々平静な神憑りになる。その時は冥目して何か自問自答している。インスピレーションが時々来るらしい。この時の事も彼がいうには、先生には龍神さんが守護しておられる。なぜなれば、いつも先生と面接する時は必ず小雨が降る。これは龍神が守護している証拠だ。今晩も先程、雨が降って来たので、キット龍神が写るかもしれないと思ってとったのである、との事で私もうなずいたのである。

本書冒頭の霊写真は右三種の中の千手観音様のものである。

 

『入信後の神懸り』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

私は入信後、出来るだけ信仰の知識を得ようとして、間さえあれば大本教の出版物の読破に努めた。当時大本教では教祖出口直子刀自(とじ)の書かれたお筆先を、唯一の聖典としていたので、一般信者はもちろん私としても専心読み耽(ふけ)った事はいうまでもない。元来お筆先というのは、明治二十五年一月元旦 教祖出口直子刀自五十五歳の時、祖神である国常立尊(くにとこたちのみこと)という神様が教祖に憑られ、帰幽時まで約二十年間書かれたものである。もちろん神霊現象の一種である自動書記で、大抵一回の御筆先は半紙数枚くらいとして、およそ一万冊というのであるから実に浩瀚(こうかん)なものである。文字は 全部いろはで、判読しなければ判らない程の変態文字で、普通人は半分の意味さえ読みとれないくらいである。もっとも教祖は眼に一丁字もない婦人であると共に、この不思議な文字に反って価値を見出すのである。そのお筆先の要所のみを集録したのが教祖の跡を継いだ出口王仁三郎氏であった。もちろん漢字と混ぜて普通文としたので、誰にも読みやすいものとなった。ちょうど和訳書と同様である。

お筆先の内容に至っては過、現、未にわたる神界の真相や教義、予言、道徳、人生観等、人事百般にわたっており、文意は幼稚であるが、人間の作品とは受とれない程の神秘幽玄なものがある。

その予言に至っては驚く程的中している。それは明治二十五年から三十年頃の予言中には、日本対世界の戦争や、極度の食糧難、天皇初め特権階級の転落、財閥の没落、封建性の解消、日本の民主化、平和世界の実現等々そのほとんどが的中しているといってもいい。私はあえて大本教を宣伝するものではないが、事実をまげる事も出来ない。公平にみて日本の当局者が早くこの筆先に注目するとしたら、あるいはあのような無謀な戦は避けられたかも知れないと想うのである。 しかし筆先の中にも難点はある。これは教祖の自我意識が相当織込まれている点で、それは余りに独善的であり、国粋的であり、よく神道家が言うところの神国思想を高潮している事である。しかし予言の大部分は既に出尽してしまって、今後に残るものとしては、恒久平和の理想世界が生まれるという事のみであろう。

ここでちょっと出口師の事もかく必要があるが、師は超人間的傑出した点はあるが、惜しいかな宗教家としての資格に欠けていた。というのはあまりに奔放無軌道的なため、発展するに委(まか)せて道義を無視するようになり、内部の紊乱(びんらん)を防ぎ得なかった。それのみではない、当時の国情として最も危険である不敬の言動が相当濃厚であったため、あのような法難を受ける事になったのであろう。私は一時氏を師と仰いだ事もあるので非難の筆は執りたくないが、後世の宗教家に対し頂門(ちょうもん)の一針としてかくので、これがいささかでも稗益(ひえき)する事となれば、霊界における師もまた満足すると思う からである。

まず大本教批判はこれくらいにして再び私の事に筆を転ずるが、忘れもしない大正十五年すなわち昭和元年十二月ある夜十二時頃、いまだかつて経験した事のない不思議な感じが心に起こった。それは何ともいえない壮快感を催すと共に、何かしら喋舌(しゃべ)らずにはいられない気がする。止めようとしても止められない、口を突いて出てくる力はどうしようもない。止むなく出るがままに任せたところ、「紙と筆を用意しろ」という言葉が最初であった。私は家内にそうさせたところ、それから滾々(こんこん)と尽きぬ言葉は思いもよらない事ばかりである。まず日本の原始時代史ともいうべきもので、五十万年以前の日本の創成記であった。その時代における人間生活がおもなるもので、例えば猛獣毒蛇が横行し、人間はそれと日夜戦っていて、それを防ぐための仕事が重要な日課であっ た。ほとんど穴居生活で火を燃し続け、絶えず敵襲に備えたのである。武器としては弓矢が一番先に出来た。もちろん竹に藤弦を絡めたもので、大蛇に対してはその目を射る事を練習した。今日蛇の目というのは、それから起こった事である。言葉も手真似から漸次舌の運転となり、火の利用は割合早く、木を擦り合したり、石と石との衝撃で発火したのである。最初の草木は種類も少なく、土壌も現在より余程柔らかく沼地が多かった。米なども最初は数粒くらいしかならず、時の進むに従って十数粒から数十粒くらいとなって今日のごとく数百粒生えるようになったのである。この点人口の増加と正比例している。その時代の人間は非常に巨大で、普通十尺以上あり、最も高いのは十八尺もあったそうである。

やや進んでから食物も種類が殖え、衣服なども出来るようになった。衣服の初めは木の葉を種々な蔓で繋ぎ合せ、僅かに寒気を防いたのである。

その後、漸次人口も殖えるに従って猛獣毒蛇の害も減少したのはもちろんであるが、それに替って今度は人間と人間との争いが発生し始めた。それは各所に部落や邑(むら)が出来たので、土地の争奪戦はもとより、婦女子の奪い合い等も発生した。武器も益々発達し、簡単な家屋も漸次数を増す事となった。

いまだくわしくかけば限りがないが、その中の興味ある二、三の話をかいてみるが、それは日本の大地震である。その頃の人口は数万人に過ぎなかったが、その大地震のため大陥没を起こし、それがため人口は百分の一くらいに激減した。その陥没地震が今日の日本海を作り、太平洋岸もほとんど陥没した結果、その時以来日本国土は約三分の一に縮小されたのである。その際天上から見た神は地震の光景をかかされたが、まずその壮観は到底形容は出来ない。特に富士山がそれ まで数万尺あったのが一挙に陥没し、何分の一になって、今日のごとき大きさとなったのであるから、その地殻変動の大規模さは想像の外である。その大地震で日本国土は全く肉が落ちて骨ばかりとなったようなものである。そうして右の地震は約十万年以前という事である。

今一つおもしろい事をかいてみるが、それは数万年以前インドが盛んな頃、日本へ大軍をもって征服に来た事がある。九州の一角から上陸し段々征め上って、山陽道の半分くらいまで攻略した頃、今で言えば国家総動員という訳で、全力を挙げて対戦し、遂に敵は敗北し海を渡って遁走した。途中暴風雨に遭い、その一 部が台湾に上陸したので、その子孫が彼の生蕃(せいばん)で、今日の高砂族である。

インドが日本へ征服に来たという事は、恐らく誰も知らないであろう。

この神憑りは七千年以前まで出たが、そこでピタリと止まってしまった。約三ケ月くらいであった。その記述は便箋にかいて約三、四百枚はあったであろう。もちろん大事に保存していたが、その後当局から度々弾圧され、その都度家宅捜索を受けたので、ブリキ缶へ入れ土へ埋めたりしていたが、まだ安心が出来ないので、ついに焼却してしまった。なぜなれば皇室に関する事が割合多くあったので、その頃としてはこれが一番危険であったからである。

その記録の中、未来に関したものも相当あったが、これは今日発表する事はいまだ時期の関係上困難である。満州事変も太平洋戦争も、現在の世界情勢も、知らされた通り表われたと共に、今後の世界の未来記も知らされているが、発表出来ないのは実に遺憾である。

この事によって私というものは、いかに重大なる使命をもって生まれたかという事を知り得たので、ここに心気の大転換が起こった。これは安閑としてはいられない。よし全身全霊をこの大聖業に没入しなければならないと覚悟をすると共に、昭和三年二月四日節分の日を期して、それまでの職業を支配人に無償で譲り、信仰生活に入る事となったのである。

『本教救いの特異性』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

本教の使命は地獄で苦しんでいる人達を、天国へ救うので、それによって社会を天国化そうとするのである。この意味において、人を天国へ救うには、まず自分が天国に上って天国人となり、大衆を救い上げるのである。つまり地獄から天国へ梯子をかけて、手を延ばして一段一段登らしてやるという訳である。これが今日までのあらゆる宗教と異なる点で、それはむしろ反対でさえある。

周知のごとく、昔から宗教人といえば、粗衣粗食、最低生活に甘んじ、難行苦行を重ね、自分は地獄的状態にありながら衆生を救おうとするのであるから、梯子を逆に用いる訳である。すなわち、救う者が救われるものを押し上げてやるのであるから、上から引っ張るよりも押し上げる方が、どのくらい骨が折れるかは、推察さるるであろう。

ところが、その当時としては、実は天国は出来ていないから止むを得なかったのである。もちろんそれは時期尚早のためで、霊界が夜であったからである。しかるに、昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。否、人間が造るのではない、神様が造るのであるから、自然に時の進むに従い進捗(しんちょく)するので、人間はただ神のまにまに動けばいいのである。すなわち、神が設計し、監督し、多数の人間を自由自在に使役するので、私としての役目はまず現場監督と思えば間違いないのである。もちろんその一部として現在天国の模型も造っているので、信者諸君はよく知るところである。

右のごとくであるから、土地にしても予期もしない時期に、予期もしない位置に、売りたい人が出る、すると私はハハー神様がここを買えというのだなと思うが否や、それだけの金額は別に苦労しないで集ってくる。それに準じて、最も適した設計者も土木建築家も、材料も思う通り必要なだけは、判で捺したように入手する。庭木一本でも突如として誰かが持ってくる。それがちゃんと当て嵌まるような場所がある。時には、庭木が数本も数十本も一時に入手するので、私は戸惑いするが、これは神様がなさる事と思うから庭を睨みながら、順々に植えて行くと、過不足なく、きっちり当て嵌まってしまう。その度毎に、一切は神様がやられる事が実によく判るのである。ある位置にこういう石や木が欲しいと思うと、一日か二日でちゃんと来る。これが奇蹟でなくて何であろう。こういう事をかけば限りのない程で、追々かく事にするが今はただ片鱗だけをかいたのである。

この文はすべて人間がやっているのではない。神様の経綸のままに、人間がやらされるという事を、判らせるためにかいたのである。これらによってみても、 神意は地上天国建設の第一歩として、その模型を造られるという事があまりに明らかである。しかしながら、模型ばかりではない、人間、個人が天国人とならなければならない。否、なり得る時期が来ているのである。もちろん、家庭も天国化し、天国的生活者となるのである。それで初めて、大衆が苦しんでいる地獄から救い上げ得るのである。故に信者に対し、私は常に出来るだけ苦のない生活環境を作るべきで、それが神意に叶うゆえんであるというのである。すなわち、病 貧争の三苦が除去されなければ本当に人を救う事は出来ない。しかしそのような事は、夜の世界では不可能であったが、今日はもはや可能となったのである事を知らなければならない。彼の釈尊の唱えた苦の娑婆の時機は最早終ったのである。この事の真諦(しんたい)が判ったとしたら、その歓喜は人類の経験にない程絶大なものがあろう。