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『私の告白』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

よく私が質(き)かれる事に、「大先生は、観音信仰がよほど熱烈であられたと想像される」というのは、ほとんど紋切型といってもいい。この想像は信者と しても大部分はそうであろう。いわんや第三者においてをやである。ところが驚くなかれ、私は観音信仰は全然なかったのである。ただ観音様はいかにも眉目秀麗、円満なる御容姿と、何宗でも祭られてあるその固着や、偏頗(へんぱ)のない点に好感を持っていたまでである。ところが前項の初めに書いたごとく、私の傍に観音様の霊が始終付いておられる事を知って驚くと共に、この時を契機として観音様に関しての奇蹟が起こり始めた。これらも追々(おいおい)発表するが、そのような訳で、ついには観音様の御本体は伊都能売(いずのめ)という神様である事を知り、いずれ時機が来れば、観世音菩薩はある期間救いのため化身されたのであるから、最後には元の神位に復帰さるるという事なども判ったのである。そうして昭和元年から観音様は始終私の肉体に懸られ、私に種々な事を教えられ、命じられ、自由自在に私の肉体を使われるのである。全く私を機関として一切衆生を救わせ給うのである。

以上のごとくであるから、私が観音を信仰して今日のようになったのではない。全く観音様の方で私を道具に使われるのである。このような訳で私というものは、観音様の身代りといってもよかろう。故に観音様という主人が思い通り使われるので、私としては全然自由がない。といって観音様が揮われる妙智力は自由無碍であるから、その点また別でもある。一言にしていえば普通人より自由がなく、普通人より大自由があるという訳で、この心境はなかなか説明がし難い。普通人には想像すら出来ないからである。今一つ私の変っていると思う事は、昔からの開祖や聖者等はすべて何事も神秘にする傾向があった。恐らく自分の心境を 赤裸々に述べた例はほとんどなかったであろう。もっともそうする方が有難味がよけいある事も考えられる。しかし私はそういうやり方はどうも好まない。もっとも時代の関係もあろう。何しろ今日は神でも信仰でも、科学的に究明されなければ承知しないのである。そういう智性人が社会を指導している現状だから、幽玄神秘的では一般を判らせる事は至難である。観音様もその点を鑑みられ、私のやり方のような方法をとられたものであろう。

それについてこういうおもしろい事がある。あまり古くはない頃、本教団をある種の目的のため、潰してしまうと宣言し、あの手この手を用いた人があった。 それをまた頻々(ひんぴん)と報(しら)せてくれる人もあった。その都度私は笑いが止まらなかった、というのは観音様を相手に喧嘩しようとするのだから、 実に大胆だか無謀だか馬鹿だか、批評の言葉はない。そこで、何でも自由におやりなさい、私は傍観者として眺めているからと、彼の使者に言った事もあった。

また本教団へ対して種々の野心を抱いたり、種々の誤解をする人などが数え切れない程あった。今日は余程減ったが、何しろ一時は本教が急激に世の中へ喧伝されるようになったので、うるさい程善悪共にいろいろな人が来てテンヤワンヤであったのは、止むを得ない過渡期の現象でもあった。しかし、その渦中に置かれた私は、いつも心は落ついている。何となれば観音様はどれもこれもどういう風に解決なさるかという事に深い興味をもっていたからである。

今一つおもしろい事は、世界の状勢や、社会の推移、個人の運命等、必要な事は前もって種々な形で知らされるので実におもしろいのである。その中の幾分かは発表する事があるが、これも露骨には言えない。なぜなれば政治に関した事や世界の偉い人の事、天災地変、既成宗教の運命等々であるから、種々の誤解を招くおそれがあるからである。

まだ種々かきたい事があるが、この項はこのくらいで筆をおく事にする。

『観世音菩薩と私』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

観世音菩薩と私との因縁について皆知りたがっているから、ここに開陳する事にする。忘れもしない大正八年私が大本教の信仰を始めたがある事情のため、 四、五年空白、十三年再信仰になってから半年くらい経った頃、ある人が訪ねて来て、その頃流行宗教であった大本教に関しての話を聞きたいというのである。 種々の話をしている最中、その人は、(地図の製作業者)私の顔をジッと見ながら、「大本教は観音様と関係があるのですか?」と訊くので、私は、「否、大本 教は神道であるし、観音様は仏であるから関係はない」と言うと、その人は、「しかし先生の座っておられる右の方に等身大の観音様が見える」という。つまりその人は、その時霊眼が開けたのである。ここで霊眼についてザッと説明してみるが、ある種の人で五感の外に霊感、霊能を有している人がある。そういう人は霊界の霊が見えるのである。この人も霊視能力があったと見えて、観音様が見えたのである。なおその人は言葉をついで、「先生が今便所へお立ちになると、観音様が後からついて行かれ、先生がお座りになると同時に観音様もお座りになった」またよく訊くと、「観音様は眼を閉じておられ、お顔やお身体は、画や彫刻にある通りです」――と言うのである。その後その人が私の家へ行こうと思うと、「眼の前にぱっと観音様が見える」――という事など聞き、私も不思議に思った。それまで私は、観音様の信仰は全然しようとも思わなかった。ところが右の事があって、「自分は観音様に何か因縁があるに違いない」と思った。それ以来、種々不思議な事が次々起こる。ある時は大本教信者の某氏が、「私の頭の上に渦巻が見え、その中心に観音様がおられ、背中に十の字が見える」というのである。私はその意味がはっきりは判らなかったが、その後信仰上一大迫害を蒙(こうむ)り、苦悩のドン底に落ちた事があったので、初めて判ったのはちょうど 右の霊視の通り、渦巻の真中に私が置かれ、十字架を負わされたという運命に逢着(ほうちゃく)したのである。その後暫くして私は三月ばかり神懸りになった事がある。その時は種々の神や仏が懸ったが、その中で、観音様の御本体である伊都能売(いずのめ)の神様が憑られ、私の使命を知らしてくれた。それは観音様が私の肉体を使って人類救済の大業をさせるという事や、二千六百年以前、釈迦出世の時代、観自在菩薩としてインド補陀落迦(ふだらく)山上に安住され、救道を垂れた事など、種々の因縁を明かされたが、それら非常に興味津々たるものではあるが、いずれ時が来たら説くつもりである。今はただ観世音菩薩の守護神である金龍神について、興味ある事実をかいてみよう。

忘れもしない昭和四年四月、私は大本教に熱心な信仰を続けている頃であった。大本教の年中行事である春季大祭が丹波の亀岡で執行された時の事で、たしか四月の十九日だったと思う。同教の教主出口王仁三郎師の出身地である曽我部郡穴太在にある、聖武天皇の王子が祭神である小幡神社に祭典があった。その祭典へ参列しようと思い亀岡から二里くらいあるので、自動車を傭い、信友「神守」というお守札みたいな名前の人と出掛けようとする刹那、その頃政友会の代議士であった志賀和多利氏夫人が、はるばる埼玉県から今着いたばかりで、自分も連れて行ってくれというから、ちょうどいいと同車させ、車は走り出した。その時私は、志賀という姓に何か神秘があるように思われたのであった。「ハハー、近江の琵琶湖は一名志賀の湖(滋賀県という名もこれによる)という名だ」と思った。すると、琵琶湖と今日の祭典と何かが関係があるのではないかと想ったのである。

出口師は祭典が済むや否や、直ちに琵琶湖に向かって車を駆った。その当時、名は忘れたが湖畔に有名な料理店があった。そこの料亭へ師は赴いたのである。 もちろん主人は大本教徒であったからで、翌二十日出口師は帰路につくべく同家を出発の際、「怒涛沖天」という字を書いたという事を後で聞いたのである。ところが不思議なるかな翌二十一日、琵琶湖の湖上に大暴風雨が起こり、漁船四十七隻が沈没したという椿事(ちんじ)で、その当時の各新聞に掲載されていたのである。それは何のためかというと、神示によれば、観世音菩薩の守護神である金龍神が、同湖底に数千年間潜んでいたのが、時来って昇天する際、遥かにこれを眺めていた赤龍(聖書にあるサタンは赤い辰なりという)が最も恐れていた金龍神出現を知って急遽来り、金龍神を斃(たお)さんとして、湖の上空において 大争闘を演じ、遂に敗北して北方へ逃げ去ったのであるが、その乱闘が暴風雨となったのである。その後一ケ月を経て、その当時私の住居は東京都大田区(当時大森八景園)に在ったが、正午頃住居の上空に大暴風雨雷鳴が起こったが、その時から金龍神は私の守護神となったのである。

その後三年を経た昭和七年春、月日は忘れたが、突如大本信徒である未知の青年が訪ねて来た。彼いわく、「今大本教内で、あなたのために大問題が起こっている。その訳は大本教で最も重要とされるお守やおひねりをあなたが作って信者に与えているそうだが、これは神に対し大不敬である。一信者たる者が作るとは怪しからぬ。そういう異端者を生かしておく訳にはゆかぬから、大本教団のため、神に対する反逆者を誅伐(ちゅうばつ)する。もし止めなければ自分は一身を犠牲にし、あなたの生命を貰う」と言い、懐中から短刀を出し畳に突刺したのである。見ると彼の顔面から喉首にかけ、普通人には見られない程の赤色に染っており、眼は炯々(けいけい)として血走っている。私は直感した。「ハハー赤龍がこの青年に憑って、私を亡(ほろぼ)そうとしに来たな」と思った。いよいよ金龍に対し、赤龍が人間を使って、雌雄を決せんとしに来たのだ。「よしサタンに負けては大変だ」と意を決し彼の要求を断乎拒絶した。すると彼の顔色はサッと変り、今や行動に移らんとする刹那、彼は突如として俯臥(うつぶ)せになると共に、苦悶に呻(うめ)くのである。訊いたところ、彼いわく、「腹が痛んで堪らない」という。「よし私が治してやるから横になれ」といい、浄霊をするやたちまち快くなった。それから彼の態度は一変し、穏やかになると共に出口師に面会のため、私と同道して大本教の本部である京都府下亀岡へ赴いてくれと云うので、私も快諾し翌朝出発、亀岡へ行ったのである。もっともお守やおひねりは出口師の諒解である事を私が語ったからで、彼はそれを確かめるためである。直に出口師に面会した。出口師いわく、「自分でさえお守は出来ない事になっている。これは三代直日(この婦人は出口師の長女で三代様と信徒は言っていた)だけが、神様から許されているのであるから、信者が造る事は出来ないのだが、岡田さんは特別の人だから、あまり目立たないように作ってくれ」といったので、彼も止むを得ず沈黙したのはもちろん、この問題もこれで一まず解決したのである。

『序文』

自観叢書第4篇、昭和24(1949)年10月5日発行

私が常に言う事は、宗教の真髄は奇蹟に在る。宗教即奇蹟といってもいいとする。何となればいか程深淵な理論を並べても、病気一つ治し得ないではなんらの価値がないからである。よく現当利益を非難する人があるが、これは大いに間違っている。はなはだ失礼だが、これは現当利益のない宗教が、その宗教を価値づ けるために作った説としか思われない。

本教に入信するもののほとんどといいたい程動機は現当利益からである。従って本教の唱える宗教理論の方は、入信してから初めて知るくらいである。とすればなぜ本教には奇蹟が多いかで、この事は皆知りたがっているところであるから、ここで簡単にかいてみよう。 続きを読む