明輪中教会 ウルソー・照子(イタリヤ人の妻)
「地上天国」60号、昭和29(1954)年7月15日発行
夢に知らされ救われる奇蹟の数々
日々限りなき御守護の下に至福の身をかたじけのうし、あまつさえ、この度は神様の比類なき御恵みに浴し、このたとえようなき幸いを謹んで御報告申し上げ、かつ厚く御礼申し上げます。今年の三月に満十二歳を迎えようと致します長男多充哉は二年前入信の御恩寵をたまわり、その後半年目に、メシヤ様の御面会と御浄霊をかたじけのうし、子供ながらも生来の天国的な信仰深い性質が、いよいよ深まり行くように私には感じられて、ますます楽しみつつ見守り育てて参りました。その私の心にただ一つかすかながらも暗影を投げかけるもの。と申しますのは、この子がメシヤ様の御浄霊をたまわりました日より、何とも言いしれぬ全身的御浄化を戴き、特に朝の目覚め直後二、三時間は頭重を訴え、そのために通学も思うままにならず、この二年間は殆んど休学状態の止むなきままに過ごして参った事で御座います。とは申しますものの、十二歳までは学校教育は適当しないとのメシヤ様の御言葉にひたすらおすがりしつつ、かげる心をつとめて明るくひきたてて参りました。時には、もしやこの子には、メシヤ様から御浄霊を戴いた日に、特別の御神意が下されたのではなかろうか、などとさえ空想しつつ、この子の天性の清純さ、並々ならぬ心のやさしさ等に思いを廻らしては、あてもない夢想に心をあたためる事もあったので御座います。この多充哉が約一カ月前より、毎朝明け方に見た夢を、私に詳しく語り聞かせるようになりました。その夢がいつも霊界の夢であり、あまりに明白に覚えておりますので、不思議な思いはだんだんつのって二、三回目から急に一言半句聞き漏らさじと、書きとめる事に致したので御座います。思えば思う程この世にありとしも思えぬ昨今のこの体験を、おそれ多くもメシヤ様に御報告申し上げ、あわせてメシヤ様の御教示を仰ぎ奉る事が出来ますならば、この上なき幸いと存じ、ここに拙い筆を運ばせていただきたくお願い申し上げる次第で御座います。
最初の夢
ある朝、日常めたばかりの子供が怪訝そうな顔をして、多「お母さんの御先祖に、戦いに出て切腹して死んだ人がいるの?」と尋ねますので今から四百年前に太田美濃守に従って重臣七人が戦死したこと、その七人のお墓は今も同じお寺にある事を語り聞かせますと、子供は次のように今見た夢の話を致しました。多「現界の夕暮のような感じのする薄暗い所に、褐色の鎖をつけた立派な人がガックリと体を曲げ、首を上げずにそのままの形で言うのです。自分は戦場で切腹して相果てた、そして今もそのままでいる。どうか観音様を戴いてくれ。(その人は観音様と言いました)しかしどうしても戴けなけれは仕方がない。それも因縁だ。人助けをすれは私達は救われる。照子だけが私達の唯一のたよりだ。」
その日は過ぎて次の朝。朝方の眠りの中で子供が「痛い」と寝言を言うのを聞きとめ、善言讃詞をあげ御浄霊を致しますうちに、子供はすやすやと眠り続けました。やがて目が覚めると次の如く申しました。
多「腹を切った、腹を切ったという声と共に、昨日の人が昨日の姿のままで見えて来た。その時どこからともなく善言讃詞がいんいんと聞え来ると、僕は直にお母さんだと思いました。ガックリとうなだれていた御先祖の体は、その時急に真直に伸び、そして頭がうやうやしく下って静かに坐っておられました。お母さん、善言讃詞を唱えるお母さんの声はいつもはこんなに低いのに、霊界ではそれがすごい程強くひびき渡ります。そのひびきは何とも言えない程奥深いのです。その翌朝、同じ場所に同じ人が坐っていて、僕を見てニッコリ笑われ、やがてそれは消えました。きっと救われたのでしょう」すると又翌朝、目を覚ました子供は次のようなことを申して私を驚かしたので御座居ます。
多「お母さんは去年の春、御先祖の四百年祭に招かれて佐賀のお寺に行った時、うちのお墓とよそのお墓の間の道を善言讃詞を唱えながら歩いたのですってね。今日出て来たお侍がそう言いましたよ」
私はあまりの驚きに言葉も出ずにおりますと、子供はお構いなく話し続けました。
多「そしてその人が言うには、その時のお経の有無さ、有難さ、私はあなたのお母さんの後から思わずついて歩きました。私は三栗谷君の隣のお墓の先祖です。三栗谷君の子孫と夢で話が出来ると聞いて会いに来ました。私も切腹して死んだのです。しかし今は中有界にいます。教祖様の御名前は何とおおせられるのですか? お歳はお幾歳にならせられますか? お経が二つあるのは何という名前のお経ですか? ではその善言讃詞というお経はどのような時に唱えるのですか? 祝詞は? 御浄霊で病気がよくなることはわかりますが、それはどういうわけでそんな事になるのですか? などと聞くので、僕は知っている限りのことをお答えしました。それからメシヤ様がお書きになったお字を袋に入れて首にかけると、霊線が通じてそのお力で病気がよくなるのですと説明すると、霊線が切れたら駄目ですか? と聞かれましたので駄目だと思いますと答えました。それからその人は、あなたは一日に幾人御浄霊しますか? と言うので、時々近所の坊やを一人してあげますと言うと、そんな尊いお力を戴いていながら何と勿体ないことでしょう、と、それはそれは残念そうに言うので、僕は何だか叱られているような感じがして、今から三人ずつ致しますと言うと、それがいいですとうなずいて、あなたの顔には光が射しています、と僕の顔を眺めながら言いました。僕とその人は山間(やまあい)の道の傍らの石に腰かけてお話をしたのです」
この日の昼さがり、私はふと思い立って、四十四カ所の一つと言われる霊場穴弘法山に子供と登り、岩屋の中に坐って、善言讃詞を奉唱して帰りますと、その翌朝子供は次のような夢を物語りました。
多「弘法大師が、善言讃詞をお唱えしているお母さんの前に坐り、うやうやしく頭を垂れておられると、やがて狐が一匹出て来て弘法様のお耳を両手で抑えようとします。弘法様が肩をおゆすりになるとはね飛ばされますが、又もやお耳をふさごうとしてははね飛ばされ、何回もそうした後、今度はお母さんの口を抑えようとして近寄ろうとしましたけれど、どんなにもがいても三尺(一メートル)ばかり向うのある一点から近寄ることが出来ません。その内、僕と弘法様の間に立ち塞がって僕の視界をうばおうと致しました。僕が手をあげて狐を御浄霊したら、どこともなく逃げてしまいました」
老画家現わる
その翌朝、多「水の流れる音が始終聞えていました。和服姿のあまり背の高くない老人が薄暗いところに立っていて、丁寧にお辞儀をしてから言いました。多充哉君、私は清水村のほこらに住んでいた老人じゃ。あなた方が、この前ここを訪れた時に、私はどんなに救って戴きたかっただろう。あの時はもう既にあなた方はメシヤ教だったのだ。どうかもう一度ここに来て救って下さい。ここは非常に淋しいのです」この夢物語りを聞いた瞬間、私はある老人の事を思い浮かべて愕然と致しました。それはかつて佐賀新聞にも掲載され、当時他人の話題をさらい、今なお、佐賀の人々の記憶に甦る特殊な閲歴を持つある老人の事で御座います。それは、多充哉が七歳になるまでの四年間を私共一家が小城町の清水にある観音堂の側に疎開生活を送りました時、同じ庭のごま堂に住んでいた老画家がありまLた。かつての日近衛文麿公にも絵を教え、大いに公に愛されたというこの老人は、この時戦災のためすっかりおちぶれていて、何につけ私を非常にたよりにし、又子供達にも深く親しんでいたので御座います。かねがね観音様への信仰が非常に厚く、その後のある日、夢のお告げで金山の在りかを知らされ、唐津に金鉱脈を探しあてて、おとぎ噺の主人公のような不思議な身の上として、世人に騒がれる身となったのでありますが、私共一家がこの地を引揚げました直後、ある闇の夜にあやまって橋の上から深い川底へ落ち、脳天を打ちくだいて即死したので御座います。その後私共がこの思い出多い土地を再び訪れましたのは、私の入信半年前、子供達の入信一年二カ月前の事で、メシヤ教の事は夢にも知らない頃の事でありますので、この橋の上に立った時、故人の霊を弔らおうと思いましても方法を持たぬままに、両手を組んでキリスト教の祈りになり、ひたすら故人の冥福を天に祈ってここを立ち去ったので御座いました。それなのに、その時はもう既に私共はメシヤ教であったのだという事を聞きまして、全く意想外な思いがすると共に、霊界ではすべての事象が現界よりも先行することを今更のように知らされたので御座います。ごま堂をほこらと老人が言い変えているところにも、仏滅の世のうなずかれる節が見出されまして、私にとりましてはいろいろと教えられることが多々御座いました。次の朝は同じように、清水の近くのある橋の上から自転車で落ちて、即死したという少年が出て参りました。
救いを求むる色々の霊
多「ここの水は非常に冷くて堪えられないのです。それに自転車が上に乗っていて苦しい。それだけでなく、川上に老人が死んだのが私の上に重苦しく感じられるのです。この前あなた方が清水にいらっしゃった時救って戴きたかった。あなたは早くからこうして夢で会えるようになられる事がわかっていたので、ずっと前から私はあなたにすがって来て、今日やっとお話が出来ました。私の弟はずっと以前にあなたと遊んだ事があります。どうかもう一度ここに来て善言讃詞をあげて下さい」。以上の言葉でこの少年が落ちた橋というのを私は頭に画く事が出来ました。前記の老人が落ちた橋の川下によく人の落ちる危い橋がありました。この川は観音の滝の水の流れで春夏秋冬非常に冷いので御座います。この外に同地の霊ではもう二人同じような目的で現われたので御座いますが、私と子供は気の毒なこの人達の事を思い、いつか又行って善言讃詞をお唱えしてあげましょうと誓い合った事で御座いました。それに致しましても入信前のまだ何一つ知りもしない時に、田舎の風景を愛でつつ心のどかに通り過ぎた私共親子の一日の行楽が、はからずもこのように多くの苦しめる霊にとり囲まれ、とりすがられ、救いの彼岸への渡し舟として飢えかわくごとく仰ぎ求められる事になろうとは、人の身のどうして思い及び得らるる事で御座いましょうか! 神の御摂理のいと深く、いと測り難きを思い、ただただかしこききわみで御座います。この外子供が釣りや山登り、と足跡を残した名所の不幸な霊、あるいは目指す目的地から先まわりして頼みに来る霊等、色々御座いましたが、特殊なものと致しましては、長崎開港当初出島の岸壁で日本の役人から無体に突落されて溺死したオランダ人、キリシタン迫害時代に金毘羅山上で、ひそかに殺害された侍の霊、又もう一度佐賀のお墓に来て善言讃詞をお唱えしてくれと哀願する私の先祖達の霊、等々、不幸な霊のいかに多いか、その片鱗をうかがい知る事が出来まして暗澹となると同時に、御神業へのひたすらなる励みともなるので御座います。
天国に遊ぶ男女
ある朝のこと、子供は珍しくほんのりと桃色の寝顔をして楽しそうに夢をみておりましたが、やがて覚めるとこう申しました。
多「ああ、今日会いに来た人々は随分救われた人達のようでしたよ。きっと天国の人達だったのでしょう。僕が立っていた所は天国の人達が旅行する街道のようなところでした。なだらかな緑の野辺が起伏してその真中をこの道は通っていました。色とりどりの花、さえずる小鳥、そこは何ともいえない明るい長閑(のどか)な所でした。時々人々が楽しそうに行き交うておりました。二頭の馬の背にゆられて年をとった男の人と女の人が近づいて来ました。男の人が先に乗り片手を後にまわして女の人の手綱をひいておりました。僕の前まで来るとヒラリと下り女の人も腰かけている鞍から下りて、僕にお辞儀をすると鞍にしばりつけてある折畳式の椅子をほどいて僕にすすめました。男の人は静かに道端の石の上に腰を下しました。やがて女の人は僕に向って、教祖様の御名は何とおおせられますか? 善言讃詞はどのような時にお唱えするのですか? 祝詞はどんな時ですか? と尋ねました。僕が答えると、光明如来様のお光は、云々と尋ねかけました。すると例の男の人が何やら言って聞かせていました。この男の人はメシヤ教の事を知っているようでした。次に女の人は今度先生は何日にいらっしゃいますか? と聞くので十七日と答えると、その日に参りますと言って、私の主人は医者でしたと告げました。やがて二人は僕ににこやかに別れを告げると、又馬に乗りパカパカと去って行きました。男の人は静かな人で、僕に何も話しかけませんでした。お辞儀も別にしませんでした。たた別れて遠くに去りながら僕の方を何回も振向きました。男の人は僕と血のつながった人です。女の人は僕の誰かの奥さんです」
私「どうしてそれがあなたに分りますか?」
多「なぜともなく、はっきりと分るのです」
私はその人達のようすを色々聞き正すうちに縞の着物と茶の袴をはいた端然とした容姿、半眼開きの特徴をもった左の目、心もち内股の歩き振り等驚くべく微細に渡る説明によって、それはまがいもなく私の父だと判定され、そういえば父は乗馬が好きであったなどと思い起し、あまりの不思議さ、あまりのなつかしさに、飛上る程驚きました。私ははからずも子供を通して二十年前に、永別したなつかしい父と会う事が出来たので御座います。その昔、とわの別れに悲涙の袖をしぼったあの父は今も生きて霊界において、メシヤ様の救世の御偉業に参加させて戴いているらしい事を、それとなく知る事が出来たので御座います。もう一人の女の人は父の兄嫁である事が推定されました。この日一日、言語に絶する驚きと感動がからだ中を激しく馳けまわって、私はどうしている事も出来なかったので御座います。かくして感激未だ覚めやらぬうちに、今度は一年半前に神様を知らず、霊の存在も信じ得ずして不幸のうちに肺結核で亡くなった私の兄が出て参ったので御座います。
私の兄
「一本道の片側は美しい緑の山になり、片側は見はろかすなだらかな平原になっていて、蓮の花が幻のように池の面に浮かんでいました。何ともいえぬ気持のよい思いで僕がポカンと道の上に立っていると、右側の山の小道を、手の指に綺麗な柿色の小鳥を止らせて、タタタタッと男の人が下りて来ました。僕に軽くお辞儀をすると側の芝生の上にゴロリと寝ころびました。僕も側に行ってゴロリと寝ころぶとその人の真似をして腕を曲げて頭をのせ、じっと空を見上げました。クッキリと青い空には白雲がポカッポカッと浮かんでいてそれはちっとも動きません。夕方だって来るのだろうか? ここには時がちっとも流れていないと僕は感じました。男の人は半身を起すと僕に話しかけました。“お母さんにお礼を言っておくれ、私はお母さんのお蔭で助かった。私は引揚げて来て非常に苦労し、そしてそのまま死んだ。私は一度は地獄には行ったけれど、それは見物に行ったのも同然だった。お母さんの御浄霊と善言讃詞のお蔭で直にそこから出て中有界に上った。それまで私は神様を知らなかったのだ。けれど今はお蔭で極楽にいる。父も又ここにいる”と言いました。この間中小鳥はチチチと鳴きながら側の椿の枝に飛んで行っては又、その人の額の上に来て止ったりしました。その人はおしまいに、“お母さんによろしく”と言い、そして僕はいつの間にか帰って来たのです「聞き終った私は、思わず子供を抱きよせうれし涙に咽びました。ああ兄上!! あなたは望外のお恵みを受けてもう天国におられるのですか……死の前後、あのよき兄上を永久に失わなければならぬ限りない悲しみを、もはや最後の霊のお救いに祈りをこめて、善言讃詞と御浄霊にひたすら明け暮れたあの日の事を思い起すにつけても、あなたは日頃ほんとうに子供のような純真さと、正義を愛する心を持っておられたために、私を通して神様はこのあらたかなお救いの縁に特別にあずからせて下さったのです。無量無辺の大慈悲の御前に私は涙を流し通しで、言葉もいでず一日中なすすべをも失ったので御座います。
お断り
従来「明主様」と御呼び讃えて参りました御名は、六月十五日より「メシヤ様」と申し上げる事になりましたので、本号より既提出分の寄書、御蔭話中の「明主様」の御名も、謹んで「メシヤ様」と御訂正させて頂きます。