「紅蓮の直中より救はる」

静岡県熱海市Y.K

ここに述べますこよなくも尊い体験談は、かつて無神論者であった私の、その浅はかな常識や愚かしい理屈が一瞬にして崩れ去られた日の実録であります。

誤れる思想がいかに惨憺たる悲劇をもたらすかと言う事は、終戦五年目の今日に至ってなお私共の心に痛ましき迄に刻みついておりますが、なかんずく戦争中 における恐怖と嫌悪の情は今なお生々しく脳裏に蘇って参ります。それは四年前の今日三月九日のあの東京大空襲の日のことでありました。幾十幾百の焼夷弾の 落下に汚穢混乱の真中なる下町一帯は他愛なく一瞬にして燃え拡がり、遂には向いの家も隣家にも猛然と火の手は延びて参りました。危機を知って私は大急ぎで 御床間の御掛軸をはずし、御著書(明日の医術)を手にして家族七人と共にどこにか避難すべく外に出て驚愕してしまいました。外は火災にともなって起る猛烈 な竜巻が塵埃を吹きとばし、焔を巻き上げ巻き上げ憤怒に燃えていきり立っているのです。人々はまどい泣き叫び、しかも抗しきれぬ烈風にあおられるまにまに どこへともなく拉し去られるよう歩き行くのです。そうした炎の乱舞の中で私達は家を出て一町も行かぬ内に母と姉とを見失い、残る者は父と妹弟私の四人、私 達は大声で母を姉を呼び叫んでみましたが、突風の吹き荒びは人間の無能をせせら笑って執着の一瞬だにとどまるを許してはくれませんでした。

吹きとばされぬよう、四人はしっかりと腕を組んで漸く区役所の四ツ角に来ました時、行途一面火の海ではたと追いつめられました。慌てて振り返れば、ああ 紅蓮の炎は不気味な舌なめずりをして迫って来るではありませんか。左の道筋からも、右の道筋からも、死の恐怖に漂わされほとんど魂を喪失した人々が口々に 何かわめきながら逃げまどって来るのです。万事休す。しかしその時突如「前に進め」と私の心の絶体絶命的にその命のまま躊躇する三人を励まして炎々と燃え 狂う中を遮二無二突き進みました。熱火に頬はほてり、喉はしきりと渇きます。それはほとんど無我夢中でありました。

その時です。およそ液体という液体の存在を許さぬはずの焔のさ中に突如として爽やかなそれはちょうど狭霧にも似た冷水が降りそそぎ出しました、アア何と いう奇蹟でしょう。そしてその奇蹟の狭霧は私達四人の体を包み包み遂に炎の墜道より逃れさせてくれました。オオその時の私の感激炎のただ中にあることさえ 忘れて、私は半ば恍惚として走っておりました。第一の危機を逃れてやがて二町も走ったでしようか、その時既に猛り狂った火の手は八方に拡がり既に行くこと も帰ることも出来ない窮地に陥入ってしまいました。

そんな焦熱地獄の中に落ちて私は初めて吾が命の既に吾がものならざることを知りました。神への冒涜者共への苛責なき罰責は激烈な竜巻と成り、阿鼻叫喚を 尻目に一呑みにしてしまうぞと迫って来るのです。しかしどうした事か、私の心は不思議に何の悶えもありませんでした。その時父が近くの校舎に避難しようと 申しました。この学校は二百名余の防備兵のいる避難校でありましたが、私達は奇しくもこの地下室に導かれて、信じられぬ程物静かな一夜をすごすことが出来 ました。

暁を待って地下室より出た私達は思わずアッと声を立てました。オオあたりは見渡す限りの焼野原なのです。兵隊さん達の必死の防備はさしもの猛火よりかろ うじて逃れてここにたった一つ全形を留めてやけ残っていたのです。道には折重なり折重なり累々たる焼死者の山を築き上げ、みるものをして目を掩わしむる悲 惨極りなき光景でありました。何たる奇蹟何たる御守護、私は一言も発し得ず五体はただ限りもなくこみ上げる感激の涙に、わなわなと震えて「観音様、観音 様」と御名を呼び続けました。その朝は不気味なオレンジ色の太陽がまるで呪の瞳のようにのそりのそりと昇りました。風は依然として烈しくやきつくように熱 く、燃え残りはぶすぶすとくすぶっております。

妙に鼻につく焼跡の死臭に吐気を感じながら私達は家を出た時離れ離れになった母と姉を必死になって探し求めました。四人は各々手分けをしてあちこちと足 の続く限り、黒焦の人の間を縫っては声をからしてよび歩きましたが、どこにもそれらしき姿を見出すことは出来ませんでした。二日二晩尋ねあぐみ探し疲れて 遂に最後の望をかけて神奈川の伯母の家にたどり着きましたが、そこにも姿はなく最早やこの世では再び逢う事が出来ないと思うと精も根もつき果てて歎き合い ました。

それなのにしかも数日後、ある思いがけぬ所に母親の生存を知った時の私達の喜びは正に言語に絶するものがありました。母達はあの大火災の中でも最も凄惨 を極めたという平野町へ吹きさらわれ、絶体絶命の境地に彷いながら幾多の奇蹟に遭遇し、かろうじてこの世に生を許されたのであります。恐怖の一夜を過し暁 の薄明りにみたその場の光景は焦熱地獄さながら、将に十重二十重の焼死人の中にぼつねんと二つの命がうごめいていたのです。ホッとした瞬間名状しがたい緊 張から解放されて母はヒリヒリとした痛みを両手に感じました。みれば両手は非道い火傷のためにある指は真赤に焼ただれ、ある指は痛々しく引きつり、左手の 薬指と小指は崩れてべったりくっついてしまっているのです。母は大急ぎで交互に手を振って一心に御浄霊を致しました。半月後私達一家が再び懐しい夕げの膳 についた時当時の恐怖と感激に目をうるませて語る母の指は何の痕跡もなく美しく揃っておりました。

追憶をたどって語る者、聞く者は互に生死の境を彷徨して再び蘇らせて頂いたそれぞれの生命を祝福しひたすら神の御前に感謝の祈りを捧げました。しかし私 はもう一つの奇蹟を申さねばなりません。それは罹災後一カ月も経たある日、農林省の某官吏の方より焼跡に皮鞄が落ちていたことを知らせて下さったのです。 その鞄とはレザー製でかねて父が空襲に備えて預金帳、火災保険証書、その他重要書類を入れてあったもので、当日母が持ち出したものの、いつの間にかどこに か落してしまいました。

お互の生命を浸す歓び合う事のみであった当時において、皮カバンのことなど誰の念頭にもなかったのであります。あまつさえ家をやき人をやき果てはガラス 金属をさえ飴のようにドロドロに溶かしてしまったあの大火災に、レザーのカバンが焼けもせず、しかもあの混雑の中より無事に手元に届けられたのでありま す。夢よりもなお奇なる思いでした。

私は今静かにあの日を思う時、あの生々しい地獄絵巻の中にうごめいていた私が果して今の平和な私なのであろうかと、自ら信じられぬ程なのであります。当 時入信後日浅く、半ば嘲笑していた私がその日をして目の前に寛大無限なるしかも絶対厳正なる観世音の御心にふれ、御前にただただおそれひれ伏したのであり ました。今日新聞にラジオに特異なる存在として賛否交々、果ては心なき人の口さがない中傷に合うとしても、この団体にある一人一人が観音の絶対力をこの世 において、如実に体験された幸福者であってみれば、いかなる風波に遭遇しようとも、ますますその信念は確固として無限の発展をとぐることは否みがたきとこ ろでありましょう。