「小児麻痺より救はれて」

静岡県志多郡H.R

私は昭和二十二年七月入信させて頂きまして、夫の復員を待ちつつ、二人の子供の成長を祈りながら、感謝の日を送らせて頂いております母親で御座います。ここに拙い筆をとりまして、子供が小児麻痺より救われました御報告をさせて頂きます。

昨年御正月の松飾もとれて間もない九日の昼頃、突然表で「早く早く」と呼ぶ声に飛出して鬼ますと、お向の御主人に抱かれて、グッタリした長男隆(九歳) の姿を見た時は気も顛倒しそうでした。早速近所の熱心な信者さん森さんと、教導所から池ヶ谷先生にもおいでいただきました。夕方までに二回も引つけて目は つり、口は食い縛り、いくら呼んでも甲斐もなく、二日目の晩まで一進一退、変り果てた我子の姿にどうなるものかと心配しつつ念じ続けました。

三日目の夜明頃より口をきくようになり「お母ちゃんお母ちゃん」と呼び続けます。私が顔をさすり、口を耳許につけて「お母ちゃんはここにいるのだよ、隆 と一緒にいるよ」と幾度言っても判らず、目も見えず耳も聞えぬ我が子淋しい思いで、母を呼び泣き叫ぶ様は見る目もつらく、私の胸は張りさけんばかりでした。その時見舞に来てくれた叔父は、「隆が可愛ければこそ言うのだ。お観音様お観音様ってお観音様もいいけれど、良く考えた方がいい、早く医者を頼んで来い。もし父親の留守に医者にもかけず、殺して終ったら申訳が無いとは思わないのか」と言われた時私は途方にくれて終いましたが、この時こそお観音様にお縋りしようと思い直して、きっと解ってくれる時が来るからもう一度言って見ようと思い「叔父さんが心配して下さる御気持は充分解りますが、私はどこまでもお 観音様にお縋りします。もしこの子が死んでも、浄まって往ってくれれば本望です」と言うと「産の親がその気ならどうなったって仕方がない」と荒い言葉で立上りました。

私は夢中で「どうぞお観音様お救い下さい。せめて目か耳かどちらでも良いから一時も早く御救い下さい」とお念じ致しました。その中に少しずつこちらの言う事に、返事の出来るようになりました。その時の嬉しさは、何にたとえようもなくただただ有難さで一杯でした。それから間もなく目も見えるようになり笑顔さえ浮べ午後になったら、「リンゴ」を一つ食べました。しかし依然として左半身はききません。池ヶ谷先生から早く正会員になって、御先祖をお救いしなくてはと御注意を受けました。私も「本当にそうだった。もっと本気でお縋りしましょう」と思い四日目の朝池ヶ谷先生に手続のため教導所へ行って頂きました。それから一時間程経った頃、急に手足がきくように成りました。私は夢かとばかり驚きました。居合せた人々もまるで嘘のようだと言って、吃驚して色々話合っているところへ、池ヶ谷先生がお観音様を頂いて来て下さいました。先生の御話しをききますと、教導所で正会員の手続を終られて、お観音様を頂いて下さった時間と、病人の手足が自由に成った時間と、全く同じであった事が判り、今更ながら驚きました。すぐにお祭りさせて頂き、改めて御礼申し上げようと仏壇の前に座らせて頂いた時は、胸は一杯で何んとも言えず、ただ有難うございました有難うございましたと、言い続けたのみでございました。五日目にはもう外へ出て遊びたいと困らせましたが、漸くその日は家の中で遊ばせました。六日目からは近所の子供と遊び、九日目には学校へ通う吾子の姿を見送ってこれが四、五日前まで生死もわからず病んでいた子かと思いますと本当に夢のようでした。

あれ程反対した叔父もすっかりこの事実に驚き、早速教修を受けられ、現在共に安らかな信仰生活を送らせて頂いております。今年元気でお正月を迎えた吾子を見ますにつけ、一年前の哀れな姿を思い浮べて感慨無量でございます。

大先生様はじめ、中島先生、樋口先生に御礼の言葉さえなく、心の中を書き表す事も出来ない自分が情なく申訳ございません。この上は一人でも多くこの有難いお道にお救いさせて頂いて、御恩の万分の一なりとも御報いさせていただく外はないと、いつも心に念じております。