『入信以前の私』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

私が信仰生活に入ったのは、前述のごとく、大正九年夏三十九歳の時であった。私の性格と入信の原因について述べてみるが、それまで私というものは無神論者のカンカンで、神も仏もそんなものはある筈がない。そういう見えざるものを信ずるのは迷信以外の何物でもないとしていた。といっても不正な事は嫌だ。善い事はしたいという信念は常に燃えていた。こういう事もあった。明治神宮を代々木へ建立する時、全国民から寄付金を募集した。私も町内の役員からその勧誘を受けた。その頃私は小資産家の部に入っていたので、町会役員の方では三百円ないし五百円くらいの推定をしていた事は後で判ったのである。ところが私は金五十円也を寄付をしたので、意外の少額に驚いたらしかった。それについて私の理由はこうである。「世界のあらゆる国家を見渡した時、神社仏閣の多い国程、その国家は振わない。例えばイタリア、ギリシャ、インド、ビルマ、中国等であり、新進のアメリカやイギリス、その頃のドイツ等のごときは、宗教的建造物は余りない。という訳で、明治神宮のごとき大きな神社が一つ殖えるという事ははなはだおもしろくない」という解釈によったためである。

そういうくらいだから、その頃の私は神社の前を通っても、決して頭を下げない。何となればお宮とは、職人が木の箱と屋根を造り、扉があり、その中へ鉄製の鏡か石塊、文字のかいた紙片のようなものが入ってるだけであるし、寺院の方は阿弥陀様や観音様など彫刻師が木を刻み、または鋳物師が金属でもって、金箔や鍍金できらびやかに見せ、それらをいとももったいらしく厨子(ずし)へ入れたり、須弥壇(しゅみだん)の上高く飾ったりして拝ませる。また神主や坊主が衣冠束帯や袈裟衣を美々しく着飾り、さもさも有難そうに、うやうやしく祝詞やお経を奏げ礼拝するというのであるから、実に馬鹿馬鹿しい限りである。こういうものはことごとく偶像崇拝であって、単に人間の気安め以外の何物でもないのであるから、社会のため、あらゆる迷信はよろしく打破しなければならない。という訳で、たまたま法事などで、寺の本堂に参列する場合、いつも私は居睡りの連続である。

ところが私には一面また妙な考えの下に、慈善的行為が好きであった。人を助ける事が愉快でならなかった。私は信仰生活へ入るまでの数年間、救世軍へ毎月一定の寄付をしていた。そのため、牧師が時々来ては信仰を勧めた。いわく、「救世軍へ寄付する人はほとんどがクリスチャンであるのに、あなたは珍しい人だ。しかしそういう心の人は必ず信仰へ入れるから是非教会へ来てくれろ」といわれたが、どうしても私は行く気になれなかった。その理由はこうである。当時救世軍は免囚保護事業をしておったので私は考えた。

「もし救世軍が救ってくれなかったら、出獄した囚人の誰かが私の家へ入り、被害を受けたかもしれない。それを逃れ得たとしたら救世軍の御蔭であるから、その事業を援助すべき義務がある」という。すこぶる合理的観念が私をそうさせたのである。

こういう事もあった。私の家に備われていた一家婢があった。この女は肺病になって郷里へ帰ったが、家が貧しいため邪魔にされ、進退きわまって私に救いを求めに来た。私は憐憫(れんびん)の情制え難く、彼女の食費、医療費等、必要な費用は何程でも送金してやるといったので、彼女は喜んで郷里へ帰った。それは房州のある村で、その村の人々は不思議な慈善家もあるといって評判になったとの事で、私は本人を助ける事よりも村の人々に良い感化を与えた事の方が大きいと思い、僅かな金で功徳をしたと喜んだのであった。ところが私の周囲の者は、肺病なんか死ぬに決っている。それを助けてやっても詰らないではないかというので、私はこう答えた。「治って御恩返しを期待する事は本当の慈善ではない。恩を施して徳を酬いさせるという一種の取引だ。故に報恩を期待しないで人を助ける。これが真の慈善ではないか」といった事もある。