『入信の動機』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

私の若い頃は不正を憎む心が旺盛で困る事がある。特に政治家の不正や、指導階級の悪徳ぶり等を、新聞や雑誌でみたり、人から聞かされたりすると、憤激が起こってどうにも仕様がない事がある。全く信仰上からいえば厄介な小乗的人間であった。このような性格が私をして不正を行わしめないどころではなく、何か社会人類のため、役立つ事をしたい。社会悪を少しでも軽減したいという気持が一杯で、それにはどういう事をしたら一番効果的であるかを考え抜いた末、まず新聞を経営し、新聞によって大いに社会悪を矯正しようと考えた。それがちょうど大正七、八年頃でその頃大新聞でなくとも中新聞くらいを経営するにもまず百万円の金を用意しなくてはならないという事を知ったので、よし一つその百万円の金を儲けようと決意した。その当時私は小間物問屋を経営していたが、とにかく二十五歳の時の私が商業には素人で、親から貰った資金が三千五百円くらいでそれで開業したのであるが、うまく当って十年間で十五万円くらいの資産が出来たので、いささか自惚(うぬぼ)れも手伝って一日も早く百万の金を得ようとしたのだから大いに無理があった。ところが世の中の裏を知らない私は、世間を甘くみて、資本金二百万円の株式会社を作り、私は社長に納まって、大いに発展しようとした。それが大正九年の二月であった。右のような訳で一時は商品も充実さした。ところへ翌三月十五日彼の有名なバニック襲来が始まった。株は大ガラとなり、商品は一挙何分の一に下落したのだから、生れたばかりの株式会社岡田商店は一たまりもなく転落、二ッチも三ッチもゆかない事になった。それでも何糞と社運挽回に大努力をし、十年、十一年、十二年頃はようやく瘡痍(そうい)も癒えかかり、これからという時、天は飽くまで無情であった。同年九月一日、彼の関東大震災に遭い、店舗も商品も全部烏有(うゆう)に帰し、貸倒れも莫大な額に上り、もはや再起不可能の運命に陥ったのである。

これより先、大正六年頃より例の百万円獲得のため某の勧めに従い、その頃景気の好かった株式仲買店に対し、金融業を始めた。それが高利なので仲々馬鹿に出来ない程の収益があったので、段々拡張して、当時日本橋蛎殻町にあった倉庫銀行に私もいささか信用が出来たので、手形や小切手の割引をし、金を貸し、その利鞘をとっていたのである。ところが八年春右の銀行は、突如支払停止となり、破産にまで転落した。それが影響を受けて私も一大苦境に陥り、かてて加えて、妻の死に遭った。しかも妻は三人目の妊娠五ケ月にして逝いたのである。前の二人の子は死産と流産で、今度で三人目もまた駄目となったので実に内憂外患悲観のドン底に陥った揚句、苦しい時の神頼みで、無神論者のコチコチの私も、種々の宗教を漁り始めた。どれもこれもおもしろくない。ところが当時華やかであった彼の大本教に少なからず魅力を感じたので入信するにはしたが、あまり熱が出なく一年くらいで忘れたようになってしまった。というのは事業を建直して再興する見込がついたからで、それが信仰熱冷却の原因でもあった。また先に述べた株式会社の、陣容を新たにすべき意味からでもあった。それが不幸にして大震災に遇い、致命的打撃を受けたのだからどうしようもないという訳で、いよいよ決心し、再び大本教に接近し、今度はすこぶる熱烈な信仰者となったのである。

そうして漸次信仰生活の時を閲(けみ)するに従ってこういう事を悟ったのである。それは私の失敗の原因であった社会悪減少のために、志した新聞などはまだ効果が薄い。どうしても神霊に目醒めさせる――これだ。これでなくては駄目だ。どうしても人間の魂をゆり動かし目覚めさせなければ、悪の根を断つ事は不可能である事を知ったので、それからというものは、寝食を忘れ、神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦等の研究に没頭したのである。と共に次から次へと奇蹟が表われる。例えば私が知りたいと思う事は、なんらかの形や方法によって必ず示されるのである。そうだ確かに神はある。それもすこぶる身近に神はおられる。否私自身の中におられるかも知れないと思う程、奇蹟の連続である。それどころではない。私の前生も、祖先も神との因縁も、私のこの世に生れた大使命もはっきり判って来たのである。これは一大事だ。一大決心をしなくてはならない――という訳で、営業は全部支配人に任せ(後に全部無償で譲渡した)それからは全身全霊を打込んで信仰生活に入ったのである。それは忘れもしない昭和三年二月四日節分の日であった。