自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行
それから私は、信仰に関してどこまでも深く究めなければならない、という覚悟をもって大本教に関する書籍、特にお筆先は繰返し、繰返し熟読したものである。もっとも大本教においてもお筆先を唯一の聖典として、拝読を奨励したからでもある。ところがお筆先というものは、身魂相応にとれるといい、判りそうでなかなか判らない。それを判ろうとする努力、つまり神秘を暴こうとする意欲から熱が出るのである。ここで神秘について少しかいてみるが、人間の意欲の中で、この神秘を探りあてようとする事程魅力あるものはあるまい。信仰に熱が増すのは神秘探究心からである。従って昔から神秘の多い宗教程発展するのである。もっとも神秘の表現化が奇蹟であるから、神秘と奇蹟とは切っても切れない関係にある。本教の異常の発展もこれがためであると共に、既成宗教不振の原因もこれにあるのである。
おもしろい事には宗教と恋愛と相通ずるものがある。宗教の神秘に憧がるる点と、恋人に憧がるる点とがよく似ている。従って信仰の極致は神への恋愛である。この点恋愛と異(ちが)うところは、誰かが言ったように、恋愛は結婚が終極点であるとの通り、結婚が成立すると大抵は魅力の大半を失うものである。ところが神への恋愛は、その点大いに異う。というのは、一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程いよいよその奥を究めようとする、そこに信仰の妙味があるのである。
以上のような意味で、その頃の意欲は、神秘を探るには神人合一の境地に到らなければならないと思って、大本教が応用した古代に行われた鎮魂帰神法という一種の修行法があり、仏教の禅とよく似ている。それによって身魂を磨こうと一生懸命したものである。それと共に、自己ばかりではない、他人に向かってこれは帰神を抜いた鎮魂のみの法がある、ところが実際は他人に向かう場合、鎮魂ではなく浮魂である。鎮めるのではなく浮かせるのである、浮かせて口を切らせる、それは憑霊に喋舌(しゃべ)らせる事であって、一時は随分喋舌らしたものである。それによって霊界の実相と憑霊現象を知りたいからである。これは『霊界叢談』の著書に出ているから参照されたいが、この方法も霊界を知るためには、幾分の効果はあるが、弊害もまた少なくないので、初心者は触れないように私は注意している。