『麹町時代』

自観叢書第9篇、昭和24(1949)年12月30日発行

前項のごとく、私は昭和三年から昭和九年まで六年間、霊的研究とあいまって、神霊療法による病気治療の確信を得るまでに至ったので、これを引揚げて世に問うべく決意した。そこで、その頃の東京市のなるべく中心を選ぼうとして、麹町平河町に、ピッタリ条件の叶った貸家があったので、そこを借りて、信仰的指圧療法という建前で治療所を開業した。そこを応神堂の名をつけ、五月一日から始めたのである。最初は一日数人くらいの患者でしかなかったが、漸次殖えるに従って段々手狭になって来たので、麹町半蔵門に私が経営した大本教の分所を利用する事となった。ちょうどその頃私は大本教を脱退し、右の分所は私の自由になったからで、そこを治療所とし、毎日通って治療に従事していたのである。

ところが、『奇蹟物語』にかいた霊写真の奇蹟が表われたのが十月十一日であった事と、病気が治った信者の卵のような人が相当出来たので、一つの新しい宗教団体を作るべく計画し、ようやく準備も出来たので、その年の十一月二十三日仮発会式を応神堂で執行し、翌十年正月元旦半蔵門の出張所で、正式の発会式を行ったのである。名称は大日本観音会といった。ここで大黒様に関する奇蹟を一つかいてみよう。 よく人に聞かれる事は、本教の信者は必ず大黒様を祀るが、観音様とどういう関係があるかと訊かれるが、これはもっともな話で、今日までそういうやり方は世間になかったからである。私が大黒様を祭り始めたのはこういう訳があった。確か昭和八年だと思う。数ケ月赤字が続いた事があったので、いささか心細かったところ、時々私のところへ来るある銀行員が古い大黒様を持っているが、差上げたいというから、私も快く貰って、観音様のお掛軸の前へ安置したところ、その月から赤字がなくなって、段々金が入るようになった。そこで、私もなるほど大黒様は確かに福の神だという訳で、それから大黒様を人に頼んだりして出来るだけ集めた。一時は五十幾つ集まったが、観音会が生れて間もなくある日部下の一人が、麻布〔青山〕高樹町のある道具屋に等身大の素晴しい大黒様があるとの報告で、早速私は見に行ったところ、なるほど時代といい、作といい実にいい、売るかと聞いたところ、これは売物ではない自分が信仰しているのだから勘弁してくれると言うのでやむなく帰った。それが十二月の半頃であった。するとおもしろい事には、大晦日の日、道具屋から電話がかかった。「先日の大黒様はお譲りしてもいいが、思召(おぼしめし)があればすぐにお届けをする」というので、私は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。その晩自動車で届けられ、早速御神前へ安置した。その時の道具屋の話がおもしろい。「先生が御覧になった数日後夢をみた。それは大黒様が紫の雲に乗って自分の家からお出かけになったので、眼がさめてから、これはもう自分との縁は切れたものと思ったが、いまだなかなか思い切れなかった。ところが今日の大晦日はどうしても追つかないので、手放す事になったのである」という。私は、「いくらか」と訊くと、「そういう訳だから幾らとはいえない。包金で結構だ」というので、私は物価の安いその頃であったから、三百円包んでやったのである。ところが彼は帰りがけに哀惜の情禁じ難いとみえ、大黒様にすがりついて、ボロボロ涙をこぼしていた。その事あって以来収人が俄然として増して来たという事実は、全く大黒様のおかげとしか思えないのである。お名前は、「みろく大黒天」とつけた。麹町時代、玉川時代来た人はよく知っている筈である。この大黒様を写真に写した事があるが、その際はっきり円光が表われたので、当時信者の乞いにより数百枚頒布したのである。これでみても普通の大黒様ではない事が分る。製作年代は豊臣時代と思われ実に名作である。