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『霊層界』

自観叢書第3編、昭和24(1949)年8月25日発行

霊界の構成はさきに述べたごとく、天国、中有、地獄の三段階が三分されて九段階となっており、一段はまた二十に分かれ、一段階二三ンが六十段となり、三六(さぶろく)十八すなわち総計百八十段となる。私は名づけて霊層界という。その上宇宙の主宰者たる主神が坐(ましま)すのである。主神の主の字は一二三本の横線を縦の棒一本を通し、上にヽが載っている事はおもしろいと思う。そうして人間と霊の関係を詳しく説明してみるが、人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂があるという具合に、大中小の三段否三重となっているが、その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。この魂の故郷すなわち本籍地ともいうべき根源が、右の百八十段階のいずれかに属しており、これを名付けて私は幽魂という。この幽魂と人間の現魂とは霊線によって繋がれており、絶えず人間の思想行動は幽魂に伝達され、それが神に通じており、また神よりの命令は幽魂を経、霊線を通じて人間に伝達さるるのである。この例として人間が種々の企図計画をなし、目的を達成せんと努力するも事志と違い、思わぬ方向に赴いたり、意外な運命に突当ったりする場合つくづく顧みる時、何等か自分に対し見えざる支配者があって、自分を操っているように想われる事を大抵の人は経験するであろう。すなわちこの支配者なるものが右の幽魂から伝達さるる神の意志である。故に神意に反する場合何程努力するといえども、努力すればする程逆効果になるものであるから、人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察しなければならない。しかしながらこの場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、ついには必ず失敗するものである。この理によってなんらかの計画を立てる場合、よくよく自己を省み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。ここでおもしろい事は、邪念のため神意に添わずために失敗苦境に陥る場合、その苦難によって、邪念の原因である罪滅が滅減する事になるから、そのため魂が磨かれる結果となり、今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。世間よく一度失敗しその後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理によるのである。

以上のごとくであるから霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。元来霊魂の位置は一定してはいないもので常に昇降している。なぜかというと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、この軽重の原因はいかなる訳かというと、人間の行為の善悪によるもので、善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。故に善悪の心言行そのままが霊線によって神へ直通するのであるから、この理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。

前述のごとく人間は神の命によって、運命は疎か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なきためであるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。

霊層界の上位へ行く程病貧争のごとき苦はなく、溌剌たる健康と、饒(ゆた)かであり善美である衣食住を与えられ、歓喜の生活を営まれるから、そこにいる幽魂の幸福は、霊線によって現界の人間に直通し幸福になるのである。その反対に霊層界の下位にある幽魂は、霊通〔線〕によってその人間に反映し、常に地獄的生活に喘ぎつつ一生不幸におわるのである。

世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然良方位、良家相に移住する事になり、反対に霊層界の下位にある者はいかに努力するといえども、悪方位悪家相に移住する事になるのである。また結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、これは霊体一致の原則による以上、この絶対力はいかなる人間といえども抗する事は不可能である。

ここで宿命と運命について一言するが、宿命とは生れながらに決定せるもので、それは霊層界の上中下三段のどれかの一段の圏内に限定され、それ以外に出づる事は不可能であるが、運命は右の宿命圏内の最上位に行くも最下位に行くも努力次第であるから、宿命の不変であるに対し、運命はある程度の自由を得られるのである。

したがって人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が幽魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者たり得る道は決してない事を知るべきである。

( 岡田自観)(「霊界叢談」了)

『神霊と仏霊・人霊』

自観叢書第3編、昭和24(1949)年8月25日発行

私はここで日本における神界仏界の、種々相をかいてみよう。まず神霊は高級なる程巨大であって、人間と同じ御姿である。ただ御位により相違はある。普通は衣冠束帯で、最高級の神は紫の上衣に紅色の下袴、冠は纓(えい)を垂らしている。模様も花鳥模様、雲形、龍等を主なるものとし、あらゆる種類があり、中位の神は青竹色の上衣、緋の下袴、纓のない冠であり、下位の神は白の上衣白の下袴であり、冠は烏帽子型である。女神は十二単衣のごときもので限りない美わしさである。しかし右は公式の場合で平常は想念のまま種々の服装をする。そうして家屋は日本においては檜(ひのき)材を用い、神殿造りにて居間は簾(すだれ)を垂れ、大神の居所へ行くには数段の階(きざはし)を昇り、幾部屋の前を長廊下を伝い通り抜けるが、臣下は縁側から行くのである。縁側の外側は高欄を廻(めぐ)らし、総体が清々しき様相で、庭も宏く樹草の外石水をあしらい、清楚にして善美である。

仏霊は開祖教主等の居所は数百人または数千人を容るる大伽藍の高き所に美々しき御座を設け、きらびやかな袈裟衣を纏(まと)い、時々説教さるるのである。仏界に往く霊はことごとく男女共剃髪するのはもちろんである。常に詩歌、管絃、碁、将棋、音楽、舞踊等を娯しみ、戸外に出づれば大池がありそこに蓮の葉が浮いており、ちょうど二人乗る位の大きさで、意のままの方向に行けるのである。そうして極楽と浄土はいささか異なっている。極楽は白色の光線にて明るいが、地域も狭く仏霊も少数であるに反し、浄土は金色の軟き光線にて、極楽が朝なら浄土は夕方に相当する光である。寂光の浄土というがその通りである。そうして神仏の霊が他に転移する時は玉のごとく円形となって、空間を非常な速度をもって反射的に移行する。しかも高級霊程光は強く、速力が迅(はや)いため、人間の眼には映ずるどころではない。しかるに人霊においては光は薄く朦朧(もうろう)たる灰白色で速力も遅いから、人間の眼に映ずるのでこれが人魂である。すべて霊は伸縮自在にて針の穴からでも出入自在である。そうして低級霊程小型で、地獄の霊などは普通五、六寸から一尺位までである。よく肩の辺に立っている人霊写真を私は数回見た事がある。

『龍神界』

自観叢書第3編、昭和24(1949)年8月25日発行

龍神界などというと現代人は荒唐無稽(こうとうむけい)の説としか思われまいが、実は立派に実在しているのである。それについて私の体験から先に書いてみるが、私が宗教や霊の研究に入った初めの頃である。ある日精神統一をしていると、突然異様の状態となった。それは口を大きく開くと共に、口が耳の辺まで裂けてるような感じがし、眼(まなこ)爛々(らんらん)として前額部の両方に角の隆起せるごとく思われ、猛獣の吼えるがごとき物凄い唸り声が自然に発するのである。私は驚くと共に、予(か)ねて霊の憑依という事を聞いていたので、これだなと思ったので私は、この霊は虎か豹かライオンのごときものではないかとも思ってみたが、右の獣は無角獣であるからそうではない。そこで当時先輩であったある指導者格の人に質(き)いてみたところ、それは正(まさ)しく龍神の霊であると言うのである。その頃の私は龍神などというものは実際あるかどうか判らないと思っていたが、そう聞くとなる程と思った。しかも神憑りの場合、脊柱上方部の骨が隆起するような感じがしたのも龍の特徴である。そのような事が何回もあったが、その中に私以外のものが私の身体の中で喋舌(しゃべ)るのである。それは右の龍の霊であって、私に憑依した事によって人語を操れるようになったと感謝し、種々の物語りをした。その話によれば「自分は富士山に鎮まりいます木之花咲爺姫命(このはなさくやひめのみこと)の守護神であって、クスシの宮に鎮まりいる九頭龍権現(くずりゅうごんげん)である。」と言うのである。しかるにその後数年を経て、私は初めて富士登山を試みたが、それまでは龍神から聞いたクスシの宮は山麓であると思い、尋ねたが見当らない。遂に富士山頂へ登った。頂上の登口右側に大きな神社がある。見ると久須志神社と書いてある。あヽこれだな、全く龍神の言は偽りでない事が判った。

右の龍神については種々神秘があるがいずれ他の著書で発表しようと思う。この事よって私は龍神の存在をまず知り得たのである。私は種々の点から考察するにこの大地構成の初め、泥海のごとき脆弱な土壌を固め締めたのは、無数の龍神群であったが、龍神が体を失った後、その霊が天文その他人間社会のあらゆる部面にわたって今もなお活動し続けつつある事も知ったのである。龍神がこの大地を固めた。次が科学者の唱えるマンモス時代で、これは巨大なる象群が、大地を馳駆し固めたものであろう。今日満州の奥地からたまたま発見される恐龍の骨などは最後の龍と想う。

また龍には種類がすこぶる多く、おもなるものを挙げてみれば、天龍、金龍、銀龍、蛟龍、白龍、地龍、山龍、海龍、水龍、火龍、赤龍、黄龍、青龍、黒龍、木龍等である。伝説によれば、観世音菩薩の守護神は金龍となっている。浅草の観音様を金龍山浅草寺というのもそのためであろう。また白龍は弁財天ともいい、赤龍は聖書中にある、「サタンは赤い辰なり」という言葉があるが、それであろう。黄龍及び青龍は支那の龍であり、黒龍は海の王となっている。木龍は樹木に憑依している龍である。そもそも龍神なるものはいかなる必要あって存在するかというに、皆それぞれの職責を分担的に管掌の神から命ぜられ、それによって不断の活動を続けているのである。なかんずく天文現象すなわち風雨雷霆(らいてい)等はそれぞれの龍神が、祓戸(はらいど)四柱の神の指揮に従い担掌するので、天地間の浄化作用が主である。その他一定域の海洋湖沼河川や、小にしては池、井戸に至るまで、大中小それぞれの龍神が住み、守っているのである。従って、池、沼、井戸等を埋める場合、その後不思議な災厄が次々起こる事は人の識る所である。

龍神の性質は非常に怒りやすく、自己の住居を全滅せられた場合非常に怒るのである。それは人間に気を付かせ、代りの住居を得んとするのである。故に初めから小さくとも代りを与え、転移の手続をすればよく、龍神は水がなくてはいられないから小さい池か甕のごときものに水を入れてもよい。元来龍神は霊となっても腹中熱するため非常に水を欲しがるのである。人間の死後龍神に化するという事は既説の通り執着心によるので、これらは霊界における修行によって再び人間に生まれ替るのである。彼の菅原道真が死後、生前自己を苦しめた藤原時平はじめ讒者(ざんしゃ)等に対し、復讐の執着から火龍となり、雷火によって次々殺傷し、ついには紫宸殿(ししんでん)にまで落雷し、その災禍天皇にまで及ばんとしたので急遽神に祭る事となった。それが今日の天満宮である。それ以来何事もなかったという事で、これらは歴史上有名な話であって科学ではちょっと歯が立たない代物であろう。次に明治から大正へかけての話であるが、今の霞ケ関にある大蔵省の邸内に彼の平将門(たいらのまさかど)の墓があった。それに気の付かなかったため、大蔵省関係者に不思議な災厄が次々起こるので、種々調査の結果、将門の霊のためではないかという事になり、盛大なる祭典を行ったところ、それ以来何事もなくなったという事で、これらも将門の霊が龍神となって祟ったものである。そうして龍神に限らずあらゆる霊は祭典や供養を非常に欲するものである。何となればそれによって執着心が軽減され霊界における地位が向上するからである。

龍神は大体画や彫刻にあるごとき形体であるが、有角と無角とあって、高級の龍神はすこぶる巨大でその身長数里または数十里に及ぶものさえある。彼の有名な八大龍王は古事記にある八人男女(やたりおとめ)すなわち五男三女神である。伝説によれば彼の釈尊が八大龍王を海洋に封じ込め、ある時期まで待てと申渡したということである。私の考察によればその時期とは夜の世界が昼の世界に転換する時までである。ちなみに八大龍王は人間に再生し光明世界建設のため、現在活動しつつある事になっている。

昔から龍神の修行は海に千年、山に千年、里に千年という事になっている。これらも相当根拠はあるようである。しかしながらこれも関係者の供養や善行等によって期間は短縮されるのである。龍神は修行が済むと昇天するが、その場合雲を呼び暴風を起し、いわゆる龍巻といって海水湖水等を随分高く上げ、天に昇るので、これを見た人は世間に数多くある。それについて私は一弟子から聞いた話であるが、ある時松の木に霊ではない本物の蛇が絡んでいる。じっと見ていると蛇は段々木の頂上に昇り、ついに木から離れて空中へ舞上った――と見る間にずんずん上昇し、ついに見えなくなったというのである。これは実物であるからおもしろいと思うと共に、有り得べからざる話のようで、またあり得べき話でもある。

龍神が再生した人間はその面貌によっても判るのである。龍神型としては顴骨(かんこつ)高く、額部は角型で、こめかみ部に青筋が隆起しており、眼は窪んだものが多く、顎も角張っており、特徴としてはよく水を飲みたがる。性質は気位が高く人に屈する事を嫌い、覇気に富むから割合出世する者が多い。龍系型を熟視すれば、龍という感じがよく表われているから、何人も注意すれば発見する事は容易である。

『天狗界』

自観叢書第3編、昭和24(1949)年8月25日発行

霊界における特殊存在として天狗界と龍神界とがあるからかいてみよう。

まず天狗界とは、各地の山嶽地帯の霊界にあって、天狗なるものはそれぞれ山の守護としての役を掌(つかさど)っている。天狗界にも上中下の階級があり、主宰神としては鞍馬山に鎮座まします猿田彦命である。

天狗には人天及び鳥天の二種があり、人天とは人間の霊であって、現世における学者、文士、弁護士、教育家、神官、僧侶、昔は武士、等で、死後天狗界に入るのである。また鳥天とは鳥の霊で、鳥は死後ことごく天狗界に入り、人天の命に従って活動するのである。

鳥天の中、鷲や鷹のような猛鳥は、天狗界においても非常な偉力を発揮している。以前私は小田原の道了権現の本尊がある婦人に憑依したのを審神(しんしん)した事があったが、それは何千年前の巨大な鷲であって、鷲の語る所によると「昔は大いに活躍したが、近年扁翼(へんよく)を傷め、思うように活動出来ぬ。」と歎声を漏らしていた。

烏天狗はもちろん烏の霊で、天狗界では主に神的行事を行い、特に神聖なる階級とされている。また木ッ葉天狗といわれるものは小鳥の霊で通信、伝令や使者の役目をしている。

昔から天狗は鼻高と唱え、絵画や面など非常に鼻を高く表わしているが、これは事実である。また赤い顔になっているが、天狗は酒が好きだからである。

次に天狗の生活であるが、彼等が最も好む行事としては議論を闘わす事で、それは論戦に勝てば地位が向上するからである。従って現世において代議士、弁護士等の業務に携わるものは天狗の再生または天狗の憑霊者である。議論の次に好むものは碁将棋で、私は天狗から天狗界の将棋を教わった事があるが、現界のそれとはよほど異(ちが)っている。また書画、詩文等も好むが、何といっても飲酒は彼等にとって無上の楽しみである。天狗界の言葉は、現界の言語とは余程異りサシスセソの音が主で、その長短抑揚の変化によって意志を交換するのである。天狗の語る所を見ると口唇を最も動かし、舌端を尖らせ、音声をほとんど出さず、上下の口唇の盛んに活動させて意志を交換するので見ていると面白いものである。

また天狗の空中飛翔は独特のもので、よく子供等を拉(らつ)し、空中飛翔によって遠方へ連れ行く事がある。彼の平田篤胤の名著「寅吉物語」中の寅吉の空中飛翔は奇抜極まるもので、また秋葉神社の三尺坊天狗の事跡もおもしろい記録である。天狗は人に憑依する事を好み、人を驚かす事を得意とする。彼の牛若丸が五条の橋上で弁慶を翻弄したり、義経となってから壇の浦合戦の時、船から船へ飛鳥のごとく乗り移ったという事跡なども全く天狗の憑依したもので、彼が鞍馬山において修行の際、猿田彦命より優秀なる天狗を守護神として与えられたものであろう。その他武芸者などが山嶽に籠り修行の結果天狗飛切の術などを得たり、宮本武蔵の転身の早業などはいずれも天狗の憑依によるのである。

次に修験者などが山へ籠り、断食、水行等の荒行をなし、神通力または治病力など種々の霊力を得るという話がよくあるが、それらも天狗が憑依するのである。こういう天狗は一種の野心を持ち、その人間を傀儡(かいらい)として現世において名誉または物質を得て、大いに時めく事を望むのであるが、これらは正しい意味の神憑りではないから、一時は相当の通力を表わし社会に喧伝(けんでん)せらるる事もあるが、時を経るに従い通力が鈍り、元の木阿弥となるものである。そうして人間が断食や病気等によって心身共に衰弱する場合霊は憑りやすくなるものである。

また目に一丁字ない者が突如として神憑りとなり、詩文や書など達筆に書くという例なども天狗の憑依である。

天狗の霊について私の体験をかいてみよう。以前私は武州の三峰山に登った事がある。その夜山頂の寺院に一泊したが、翌朝祝詞奏上の際私に憑った霊があるので訊いてみると、二百年位前天狗界に入った霊で、駿河国三保神社の神官であったそうである。なぜ私に憑依したかと訊くと、その頃私が愛読していたある宗教のお筆先を読んでもらいたいと言うのである。そこで私は出来るだけ読んでやったが、約半年位いて彼は厚く礼を叙(の)べ帰山したのであった。天狗の性格は、理屈っぽく慢心をしたがり、下座が嫌いで、人の上に立つ事を好み、言い出した事は飽くまで通したがり、人の話を聞くより自分の話を聞かせたがるものである。また鳥天の憑依者は鳥の特色を表わしており、口が尖り声は鳥のごとき単調音で、性質は柔軟で争を好まないから人に好かれる。また空中飛翔の夢を見る人がよくあるが。これは鳥天の憑依者である。

『地獄界の続き』

自観叢書第3編、昭和24(1949)年8月25日発行

次に他の地獄界は総括的に書く事にする。

修羅道は、俗に修羅を燃やすという苦悩で例えば闘争に負け、復讐しようとして焦慮したり、自己の欲望が満足を得られないために煩悶したりする心中の苦しみが生前からあったまま持続し、修羅道界に陥るのである。これらは現界でも霊界でも信仰によって割合早く救われるものである。

色欲道は読んで字のごとく色欲の餓鬼となったもので、男子にあっては多くの婦人を玩弄物視し、貞操を蹂躙する事を何とも思わず、多数の婦人を不幸に陥れた罪によって陥るのである。このため地獄においては生前騙され、酷い目に遇った女性群が責めたてる。その苦痛は恐ろしく、いかなる者といえども悔悟せざるを得ないのである。そうしてこの苦痛たるや、生前罪を造っただけの女の数と、その罪の量とを償うのであるから容易ではないのである。これによってみても世の男子たるもの、自己の享楽のため女性を不幸に陥らしむるごとき行為は大に慎しまなければならないのである。右に述べたごとき罪は男子に多い事はもちろんであるが、稀には女性にもあるので、自己の享楽または欲望のため貞操を売ったり、姦通をしたり、男性を悩ましたりする事を平気で行なう女性があるが、これらももちろん色欲道に堕ち苦しむのである。

焦熱地獄は放火をしたり、不注意のため大火災を起こし、多くの人命財産を犠牲に供する等の罪によって落ちる地獄である。

蛇地獄は無数の蛇が集って来るので、その苦痛たるや名状すべからざるものがある。この罪は自己の利欲のため、多くの人間に被害を与える。例えば大会社の社長、銀行の頭取等が自己利欲のため不正を行い、多数者に損害を与えたり、政治家が悪政によって人民を塗炭の苦しみに陥したりする怨みや、戦争を起こした張本人に対する犠牲者の怨み等々が蛇となり復讐をするのである。

蟻地獄は殺生の罪であって、例えば虫、鳥、小獣等を理由なきに殺生する。それが蟻となって苦しめるのである。それについてこういう話がある。その目撃者から聞いた事であるがある時木の上に蛇が巻き着いていた。見ていると数羽の雀が来て、その蛇を突っつき始めた。遂に蛇は木から落下して死んでしまった。そのままにしておいたところ数日を経て、蛇の全身が無数の蟻になったのである。その蟻が群をなして幹を這い上り、その巣の中のまだ飛べない何羽かの雀の子を襲撃した。もちろん雀の子は全部死んだのであるが、実に蛇の執念の恐ろしさを知ったと語った事がある。

蜂室地獄は無数の蜂に刺される苦しみで、その例として左のごとき話がある。以前私の弟子であった髪結の婦人があったが、その友達がある時霊憑りになったので、ある宗教家の先生を頼んで霊査をして貰ったところ、こういう事が判った。その友達の御得意であるある芸者が死んで蜂室地獄に落ちて苦しんでおり、救って貰いたいため憑ったというのである。その霊媒にされた婦人は、その頃某教の信者であったからでそれに縋ったのである。霊の話によれば人間一人入れる位の小屋に入れられ、その中に何百という蜂群が、全身所嫌わず襲撃するのだそうで、その苦痛に堪えられないから助けてくれというのである。この罪は芸者として多くの男子を悩まし、大勢の妻君が霊界に入ってから嫉妬のため蜂となって復讐したのである。

次に地獄界は伝説にあるごとく、獄卒として赤鬼青鬼がおり、トゲトゲの付いた鉄の棒を持って、規則に違反したり反抗したりする霊を殴るのであるが、これは肉体の時打たれるより痛いそうである、何となれば肉体は皮膚や肉によって神経が包まれておるからで霊ばかりとなると直接神経に当たるからで実に堪らないそうである。そうして地獄の幾多の霊がよく言う事に、何程苦痛であっても自殺する事が出来ないので困るそうである。なる程自分達は既に死んでいる以上、この上死にようがないからである。この点霊界は厄介な訳である。また地獄界を亡者が往来する場合火の車に乗るのだそうである。地獄界の霊は自身の苦行または子孫の供養によって漸次向上するのであるから、子孫たるもの供養を怠ってはならないのである。

私がある霊を救い鎮祭してやると、間もなく私に憑って来た。その霊いわく。「今日御礼と御願いに参りました。御蔭で極楽へ救われ嬉しくてなりません。私の嬉しい気持はよくお判りでしょう」という。なる程その霊が憑依するや、私は何とも言えない嬉しさが込み上げて来る感じである。次いで霊の御願というのは、「どうか再び人間に生れて来ないように神様に御願して頂きたい」と言うので、私は不思議な事を言うものかと思いその理由を質(たず)ねると、「極楽は生活の心配がなく実に歓喜の世界であるに反し、娑婆は稼いでも稼いでも思うように食う事さえ出来ずコリゴリしたこと言うのである。これによってみると、霊界行も満更悪いものではないらしく、死ぬのも楽しみという事になるが、それには生きている中に善根を積み天国行の資格を作っておかなければならないという訳である。

次に人霊以外の他の霊の状態を概略書いてみよう。