御論文『公明選挙を嗤う』

『公明選挙について(1)』  ズル族が多すぎる

「東京日日新聞』」昭和28(1953)年4月7日発行

まだ半年経つか経たないうちに、またまた総選挙ときては、国民もやりきれたもんじゃない。たった半年の間に、政府は、国民の信任が減ったかどうかを試し てみるんだから、結局国民は試験台にされる訳だ。この原因は、なんといっても、例の馬鹿野郎問題だろう。仮にも総理大臣たるものが、こんな野卑な言をはく のは怪しからんと、反対党の連中が、鬼の首でも取ったようにワイワイ騒ぎ立てた事と、自由党は自由党で、按摩(あんま)の流儀じゃないが、内輪揉めは、吉 田流でも始末がつかないと見え“エー面倒臭え、政権は解散だけのことさ”と脅したが、一向埒(らち)があかないので、とうとう引込みがつかず、解散総選挙 となったわけだ。

こんどの総選挙の動機は、馬鹿野郎の一言なんだから、この馬鹿野郎の一言が政府を解散し、国民全部を動かすことになるから、政府を未だかつてない、大し た馬鹿野郎と思うのはこの私ばかりではあるまい。

さて、ここで私がいいたいことはいわゆる公明選挙の看板の事だ。前の選挙のとき、この看板を見たときこれははなはだ結構だ、この看板通り選挙をやってく れるなら、国全体が少しは良くなるだろうと思ったが、看板のなかった時よりも、更に悪いので全くアキレてしまった。だから今度の選挙でも当(あて)にはな らないから、まあただ見物をしているだけだ。こんなことをいうと、不思議に思うかも知れんが、つまり候補者も選挙民も、ズルイ奴が多すぎる。このズル族の 根性骨を叩き直さなきゃ駄目だ。いくら新聞やラジオで面白くもない御説教をやっても効果がないし、街中大声で名前を怒鳴ったり、またチンドン屋式の大風呂 敷宣伝をやってみたところで、うるさいだけの話で、なんにもなりゃしない。こんな総選挙の方法だから、今いったズル族がばっこすることになる。現ナマ御馳 走攻めの魔薬で、善良な選挙民をナマコにする。

 

『公明選挙について(2)』  食えない代物“運動員”お偉方には信心が足りぬ

「東京日日新聞」昭和28(1953)年4月8日発行

何故こんなことをするかというとズル族の根性は、麻薬を呑ましてもまた美味い汁を吸っても、巧くやりさえすれば、誰にも知れずに、済むと思うわけだ。更 にあの運動員と称する輩(やから)は酢でも蒟蒻(コンニャク)でも食えない代物なんだからまったく手に負えない。こんな例はまだたくさんあるが、この汚い ボロを隠すには、公明選挙の看板も、とんだところで役に立つらしい。つまり肥桶(こえおけ)の蓋(ふた)になる訳だから、全くお臍(へそ)が茶を沸かすと いいたい。とにかく今の世の中は、人の目さえゴマ化せば、いいと思う小利口者が多いから、この料簡(りょうけん)にヤキを入れない限り、公明選挙も蜂の頭 もない。

さてヤキを入れる急所はどこにあるかというとこの世の中には神様がチャンと御座るという事だ。このことを肚の底に叩きこんでやると、たとえ人間の目はゴ マ化せても、神様の目は御見通しだからゴマ化せないという事が、ハッキリ分るので、そこで始めて文字通り公明選挙となる。こんな解りきった事さえ理解出来 ないお偉方が、上に立って威張っているんだから“可哀想なのは正直末(ママ)法の善人達”という次第で、昔から上の好むところ、下これに習うという言葉通り上も下 もろくでもない人間共が、ウヨウヨしているこの娑婆だから、上は贈収賄、買収、ペテン、汚職等々、下は強盗、殺人、窃盗、詐欺、横領、空巣、掏摸(ス リ)、万引など数え切れない程毎日の新聞を賑やかにしている。しかもこれが氷山の一角なんだから唖然としてしまう。これももとはといえば無神、迷信の為な んだからこれに気が付かない限り、公明選挙も口先だけの御題目になる。

最後に一ついいたい事がある。アイゼンハウワー、トルーマン、マッカーサーなどの講演にしても、必ず神という言葉が入っている。ついこの前、アイゼンハ ウワー大統領就任式の際、大統領が聖書の上に左手を載せて誓った光景を見た時、何ともいえない感に打たれた。アメリカの繁栄と、平和維持のための、烈々た る気魄(きはく)はここから出たものに違いない。とすれば少くとも、この人達は、神のあることを認めているわけだ。これに比べ日本の御歴々は、いつの演説 でも神の言葉など薬にしたくもいったことがない。日本の政治家連も、神の言葉を口に出すようになれば、始めて公明選挙の実もあがるというものだ。

世界救世教々主 岡田茂吉