資料「節分と立春について」

「御教え集7号」 昭和27年2月5日(立春祭)

(前略)昨日は方々の神社仏閣で豆撒きをやつて、今日から立春で――丁度お天気の具合がそれを物語つている様な気がするんです。

節分の話は毎年話しているから、今更言つた処でしようがないけれども、兎に角神様の方から言うと重大な日なんです。特に一年一年節分が重大になつて来る訳なんです。あんまり深い事は言えませんけれども、一番誰にも解る事は〈之は信者ですけれども〉つまり浄化が旺盛になつて来る。強くなつて来る。それが節分と六月十五日ですね。そう言う様な節々(フシブシ)ですね。節々に浄化が強くなると言う訳なんで、唯節分と六月十五日の異いさはあるんです。六月十五日の節(フシ)と言うのは、霊界が明るくなるんですね。火素が増える。それから節分の方は、そう言つたのでなく、神様のお働き――それが異つて来る。節分が、夜の世界の罪穢れが清算される。すると、六月十五日の方は明るくなると言う様な――そんな様なものですね。(後略)

 

「教え集31号」  昭和29年2月4日

今日は立春と共に旧の正月の元日になるそうです。何時も、立春というが、早いように思うのです。とに角今年は大いに意味があるのです。まだ発表はできませんが、昨日、今日素晴しい事があったのです。いずれ話をしますが、それは神様の型です。それで、非常に目出度い事なのです。というのは、節分というものは“福は内、鬼は外”で、鬼の災いを避(ヨ)けるという、昔からの行事があるのです。そのために方々の神社仏閣で豆まきをやるのです。ところでこれは、前にも話した事がありますが、あべこべなのです。鬼というのは偉い神様なのです。艮の金神国常立尊という神様です。今日の御讃歌にも「常立の神」というのがありましたが、国常立尊の事を略して常立の神と詠(ヨ)んだのです。それからもう一つ「艮の神」という事も入れてありました。そういうようで、つまり事の起り始めは、これは神代となってますが、神代ではないのです。そう古いことでもないのです。尤も三千年という事になってますから、三千年前はやっぱり人間の世界です。この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。ところが非常に厳格な神様で、間違った事は許さないというために――大本教のお筆先などを見ると分りますが――つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういう喧(ヤカ)ましい神様は押込めなければ楽はできないというわけで、押込められたわけです。押込めた方の神様は天若彦神というのです。これはよく天邪鬼(アマノジヤク)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、何んでも横車を押すという性格の神様です。それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌(イ)み嫌(キラ)ったのです。尤も忌み嫌うわけです。人間の方が間違った事をすれば、そういう喧ましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。そうして鬼門除けと言って、いろんな事をやったのです。そういうわけで、三千年押込められたとしてあります。

そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口直子という方に憑られて非常に怒鳴ったのです。出口直子刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(シシク)です。それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。その艮の金神という神様は、押込められて肉体の方は無くなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁く御役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。それが、本当は至正至直(シセイシチヨク)の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。これは霊がそういう事を言ってました。それから心の善い人がゆくと非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。これは面白いです。

というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、“この世の閻魔”という事は、現界の審判をなされるという事です。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。“この世に現われて”というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、凡て現界的になるわけです。では、それは何時かと言いますと、大体明治二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄って来るのです。それでいよいよ最後の段を済まして直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。恐ろしいですが、しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持って居れば有難いのです。今まで悪い奴にいじめられたりしていた、それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。最近いろんな汚職事件が目茶々々(メチヤメチヤ)に現われて来ました。よくもそういった不正事件が出るという事は、今までに例がないように思います。これもいわゆる審判が近寄ったという事を現わしていると思います。

それで、艮の金神様が表に現われるという事は、艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。やっぱり霊界が明かるくなるのです。だから今まで隠(カク)していたり隠蔽(インペイ)していたものが現われるのです。目に見えるわけです。そこでいろんなそういう事が出て来るのです。それから今年から又一段と病気が多くなります。それと共に薬毒がだんだんはっきりして来るわけです。以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。そうなると救世教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。その段階に入って来たわけなのですから、大いに働き甲斐(ガイ)があるわけです。今まで押えつけられていたのが、その押えつける力が弱るわけです。今まで十回も二十回も話をしなくては分らなかったのが、今度は五、六回で分るというような意味になるわけです。そうかといって、神様の事は急に目に見えるようには現われないものなのです。つまり何んとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、それからはっきりもして来るのです。とに角今年から神様が表になったという事は確かなのですからして、そこで救世教というものは今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。言わば、いよいよ舞台に上ったわけです。今までは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので桧舞台に上るという事になるわけです。やっぱり芝居と同じですから、序幕です。これはお筆先にありますが、「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。お筆先というのは実によく書いてあります。(中略)

今言ったとおり、艮の金神様を押込める方の総大将が天若彦尊とすると、天若彦尊という神様は天邪鬼的で、非常に素直でないのです。いわゆるケツ曲りで、何んでも曲るのです。それで、その一派がずっと世界を支配して来たからして、人間の心というものが、みんなそういうふうに歪(ユガ)んで来たのです。だから、どうも逆になるのです。良いと言って奨められると、ちょっとあべこべになって、“あんまり奨めるから……そんなしつこく言わなくても、オレだって分らない事はない”と言って、逆に変に反対になるのです。そういう癖が非常にあるのです。特に日本人には多いです。という事は天若彦尊の系統が多いわけです。(中略)

ですから、これも――艮の金神様という最高の神様が下に落ちて、枝の神様が上にのさばって好き勝手な事をしている――「神も残念であるぞよ」という御言葉があります。それはそういう意味なのです。それがとに角現界で三千年続いたのが、いよいよ表に現われるという、その機関が救世教です。(後略)

 

「教え集31号」  昭和29年2月5日

昨日は立春で、一昨日は節分ですが、この節分というのは大本教に大変関係があるのです。最初大本教を開いた神様は国常立尊という神様です。この国常立尊という神様は、鬼門の金神と言って、鬼門に押込められたという事になってます。この神様について話してみます。この神様は元世界を支配していたのです。それで、あんまり喧ましい……と言うよりか、あんまり厳正で、厳しいので、とてもやりきれないというので、他の沢山の神様が艮(東北)に押込めたわけです。その神様は三千年の間隠退(インタイ)されて、その間霊界に居て閻魔大王(エンマダイオウ)となっていたのです。それが今度「艮の金神はこの世に閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」というお筆先があります。そういうわけです。

それについて、最初のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という事と「今度は炒豆(イリマメ)に花の咲く時節が参りたから、神も嬉しいぞよ」というお筆先があります。節分には豆をまきますが、これは、その時の邪神の総大将が天若彦尊という神様ですが、その時に“炒豆に花が咲いたら再び出て来い。それまでは出られないように押込める”という事なのです。ですからしてあの豆まきという事はそういう意味なのだそうです。これは信じられない事はないです。ところが、それに対してお筆先には“今度は炒豆に花の咲く時節が来るぞよ”というのですから、炒豆に花が咲いたわけです。それが何時かというと、明治二十五年に始めたのですが、私は一昨日の節分の日に大変な神秘、奇蹟があったのです。それは、これからいよいよ国常立尊様が表面に現われるというわけです。「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」という“艮の金神の世になりたぞよ”という事は、自分が世界の支配権を握るという事です。それが、今までは霊界だったが、これからは現界に現われるのです。それが一昨日その型があったのです。神様は凡て型でやり、型を見せるという事になってます。ですから一昨日現われた型というのは、私は三年も前から努力していたのです。それがだんだん延びていて、一昨日それがはっきり出たのです。それで私は非常に喜んでいるのと、大いに祝ってよいと思っているのです。では、その結果どういう事になるかというと、これは閻魔大王というのですから、審判の神様です。つまり善と悪とを立て分ける、善は栄え、悪は滅びるという御働きです。それがこれからはっきり現われて来るわけです。その点から大いに変るわけです。世界も、特に日本がそうです……霊界から言うと日本が元ですから……。

ですから、つまり霊界が明かるくなるわけです。明かるくなるという事は、勿論火素が増えるわけですから、今年あたりから病気がボツボツ増え始めるわけです。それからいろんな悪い事も秘密な事も浮かんで来るわけです。最近いろんな汚職事件があっちからもこっちからも出て来ますが、これも今まででは珍しい事です。これもソロソロその最初の現われのように思われるのです。そういうわけで、或る時期にゆくと、病気の増えるのも……これは一ぺんになりそうです。ですからそうなったら、何時も言うとおり、とても忙がしくなりますから、今からその覚悟をしていてよいです。その代り信者の人でも、少しボヤボヤしていたり、或いは神様の言われる事に違ったりすると、手厳(テキビ)しくやられる事になるのです。それもボツボツは出ているようです。これはあなた方もよく知っているでしょう。それで、お筆先に「神厳しくなると人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、これは非常に面白いです。そこで、人間が我を通して威張ったり、言う事を聞かなかったりするとやられる、という事がだんだんひどくなるわけです。そういうわけで、今までとは違って来ます。(後略)

 

「教え集31号」  昭和29年2月6日

今年の節分は非常に意味があるのです。私としても非常に大きな奇蹟があったのですが、それはまだ言うわけにはゆきませんが、いずれ話をします。この節分という意味は、大本教と非常に関係があるのです。ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠(クウバク)たるものでなくて、神格を得た人間が住んで居た時代で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違った事は許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様――八百万の神――から、その時分でも輿論が、どうもあんまり喧ましすぎてとてもやりきれない、だから押込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押込められたのです。それで艮(東と北の間)の或る地点に押込めたのです。

そうして、再び世の中に出て来られないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出て来てもよい”と……尤も、炒った豆が芽を出すはずがないのですから……それを条件のようにして押込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向って越したり、いろいろな事をすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それで何事も、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。ところが事実は反対で、大変な良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういう事になったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。

そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならない事になるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と……出るについてはいろいろな……お筆先には三千世界の大芝居という事になってます。この押込めた系統の神様……総大将は天若彦尊という神様で――これはよく天邪鬼という事を言いますが――その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。その押込められた時には僅かな部下を連れて隠退されたが、それから命が無くなって、死んで霊界に行って、三千年の間閻魔大王になったという事になっているのです。お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」とあります。という事は、審判をされるという事です。今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするという事です。つまりもう悪は許さないという事になるのです。そのために大本教というものをつくったのです。私が大本信者になって、そういう事をいろいろ……表面的の事も、裏面━霊的の事もすっかり分ったので、大本を脱退して、観音教から救世教というふうにつくったのです。(後略)

 

「教え集31号」  昭和29年2月7日

今年の節分について、もう少し詳しく話をしてみます。前にも言った事がありますが、節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が世界を支配していたという事になっているのですが、その時分の事だから、世界と言ったところで全部だかどうだか分りませんが、まず日本を中心にして相当広範囲に支配していたに違いないのです。それで神様と言ったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終りぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢(ケガ)れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。それでよく「天神七代、地神五代」という事がありますが、天神時代というのは、天の神様……神道の方で言うと「天津系」「国津系」或いは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。大体日本民族は天系なのです。その天系だった頃は天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。

それで、これは何時かも言いましたが、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、それよりか前に国常立尊という神様が支配されていたのです。その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しい事でないと許さない、というような事のために――これも神道の方にもありますが――大勢の神様が一致して押込めたのが節分の晩としてあるのです。その押込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押込めたとなっているのです。そうして、艮に押込めたからして艮の金神という御名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。そうして節分の晩に豆をまきますが、“炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押込めてしまう”というわけで、それから炒豆をまいたのです。それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様が再びこの世に現われるその機関として出来たのが大本教です。

ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」という事を教祖は獅子吼したわけです。最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違い扱いされて警察に留置された事がありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。それが明治二十五年の一月元日です。ですから“梅で開く”というが、梅というのは、花は五弁になってます。これは五大洲を形取(カタド)ってあるのだそうです。ですから“一度に開く梅の花”というのは、世界が一度に開くという事なのです。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。

ところが今度は現界がそうなる。という事になったのは、この節分にお知らせがあったのです。それはいずれ言いますが、今はまだ言う事はできません。一年ぐらいは言う事はできないのです。それはやはり梅に関した奇蹟なのです。それは私は三、四年前から準備していた事ですが、そういうようなわけで、いよいよ表になるという事と、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」という事があるのです。というのは、御隠退になっている時は、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。閻魔大王というのは要するに霊界における審判の……今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった……裁きの最高の地位です。ところが“この世の閻魔と現われた”というのですからして、今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。(中略)

そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌(キラ)って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様という事になるからして、実は、一番善い神様、一番立派な神様です。それで面白いのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまく時には「鬼は内、福は外」と言うのです。それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うという事は、人間が正しい人がなかったからです。大抵穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、若し方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。ですから他の宗教は、豆まきというと非常に盛んで、むしろ宣伝的にやりますが、救世教は絶対にやらないという事は、そういう根本的の理由があるからです。

 

「御光話録」 昭和23年5月8日

「夜の世界とは――」

『天照皇大神の岩戸隠れ以後の時代を言ふんです。伝説によれば国常立命は非常に厳格な神様で、そのためその支配にやり切れず八百万の神々が一致して御引退を願った。結局輿論に抗し兼て御引退になったといふ事になってますがね。此の点は大本教祖の「出口なほ」に国常立命が御憑りになっていろいろ物語られた、それを基にして私はお話するんです。艮に引退せられ北海道の芦別山に押し込められた。之は本当でせう。之が節分の日で、一般の者はそれから豆を煎って之をぶつける様になったんです。神々は此の煎豆に花が咲いたら出て来てもいゝといふことを言って節分の行事をしたんです。その時国常立命は綾部にも居られたんです。そのためか綾部地方は、鬼は内福は外と逆に言ふんです。ですから之は事実と思えるんですね。国常立命は霊界で閻魔大王になられた。之は非常に苛しい善悪審判の役目ですね。然し厳格一方のやり方では可哀相なので、命は現界で観音様になられた。之は私の解釈です。だから観音様は善悪無差別で慈悲を以て救はれるんです。絶対の慈悲ですね。そういふ訳と思って大差ない。天照皇大神と観音様とは全然違ふ。天照皇大神は太陽を表現してゐるんです。天に日月星辰があって地に之が写ってゐるんです。正月の「鏡餅」といふのは天が地に写る事を意味してるんです。だから又日月星辰が人間に写り、昔から偉い人を星といふんです。天に木火土金水の星があるから人間にも五人の偉い人がきっとある。天照皇大神は太陽神で、仏界では大日如来です。仏とは全部神様が化けたもんですから。こゝにいろいろと神秘があります。国常立命は神の中の頭梁で引退と同時に家来の神々も引退した。そのあとは邪神が支配することになり、天若彦命がその総大将です。天のじゃくとは之で、天の邪鬼のことですね。人類が邪神に苦しめられるから、一方でその害を防ぐため、国常立命や正神界の神々――正神の中には邪神の方についた神もある――が、出られる時になったんです。仏に化けられたのは皆偉い神々です。が後には仏の中にも邪神についたり負けて了ったのも沢山ありますがね。艮の金神の妻神豊雲野命は「未申(ヒツジサル)の金神」です。古い時代には世界的にいろいろな御経綸があったんです。』

 

「妙智の鍵(光明会会報)」 昭和24年6月号

「節分の意義につき御教へを御願ひ申し上げます。」

『国常立尊が厳格でありました為、他の神々から排斥されて押し込められた日を、節分といふのであります。冬から春に転換する、即ち節が分れるから節分といふのであります。』

 

「御光話録3号」昭和24(1949)年2月8日発行

「立春の意義について御伺ひ申し上げます。」

『節分は大体二月四日ですがね、その日で冬が終り、二月五日から春になるので立春といふのです。それから、昔、国常立尊といふ神様が輿論によって押し込められたのが節分の夜で、今度世に現れるのは立春の日だと云はれてます。之は大本教の方の説ですがこれは本当です。観音様の裏は国常立尊ですから。――といふのは、国常立尊は霊界で閻魔になったが、厳格一方の神様で善悪をきびしく分けられた。之では可哀想だといふ訳で仏に化けられたのが観音様なのです。だから観音様の御働きは大慈大悲で善悪を裁かず無差別に救はれるのです。御讃歌に「いかならん罪も赦(ユル)させいかならん罪も尤(トガ)むる天地の神」といふのはそれです。神様には半面がある。実篤の言葉に「神の如く強く、神の如く弱し」とありますがその通りで、神様には非常に強い面と、非常に弱い面とがあるのです。