御教え『苦集滅道道法礼節』 

「栄光102号」昭和26(1951)年5月2日発行

右の題目は、勿論仏語であるが、此意味は現在に於てもよく当嵌まるから、それを解説してみよう、苦集滅道とは読んで字の如く、苦が集まる、即ち苦しみが多いと道が失われるという、人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか背に腹は変えられない式で、道に外れる事をするようになるものである、よく曰われる事だが、泥棒にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも、苦し紛れにやる者とがある、又闇の女でもそんな事をせずともよいのに、好んでする者と、切羽詰って嫌々やるものとの二種があるのも同じである。

此弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である、従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らないようにする、それが犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である、恒産あれば恒心ありという言葉も、よくそれを表わしている、本教の理想である病貧争を無くすという事も、それ以外の何物でもない、としたら何よりも先ず健康が原であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。

次の道法礼節であるが此事も現代によく当嵌っている、道法とはいう迄もなく道であり法であって、道とは道理に叶う事で、道理に外れる為に人間同志の悶着や、家庭の不和、社会秩序の紊乱となるのである、法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあって之は目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、人間諸々の災は、悉く神の律法を犯す為の刑罰である事を知らねばならない、実は此刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである、勿論、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等凡て神律を犯した為の刑罰死である、そうして凡ゆる物にも法がある、即ち法とは一切の規準であり、秩序である、判り易く言えば、人間の為すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、如何なる人間でも、為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。昔から法を越えるなというのもその意味である。

次の礼節であるが、之こそ現代人には最も適切な言葉である、特に此点昔の人よりも大いに低下している、私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁えているものは十人に一人もないといってよかろう、然し何と言っても信者諸君は一般人とは区別がつく程よいには良いが、只信者同志接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。

然し現在のような煩雑な社会生活では、思う通りの礼儀は行われないから、或程度は致し方がないとしても、注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には、上、中、下、無差別式の考え方の者がよくあるが、之は困ったものである、成程昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている、特に遺憾でならないのは学校教育の行り方である、余りに自由主義の為、放縦に流れ、師弟の差別さへないのをよく見受けるが、此点教師たる人も大いに考慮の余地があろう、勿論昔の軍隊式も困るが今のズンダラでも困るのである、要は偏らないでよく程を守り、中性が肝腎で、教育の方針も茲にもってゆかなければならない事は言う迄もない、礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破しているのであるから、現代人としてもそれに愧じないようにすべきである。