御教え『救世教とは何ぞや』

「天国の福音書 序文」昭和29(1954)年8月25日

この文をかくに当って、前もって断っておきたい事は、我救世教は純然たる宗教ではないのである。といっても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部でない事はもちろんである。ではなぜ救世教の名を付けたかというと何しろ有史以来夢想だもしなかったところの画期的救いの業(わざ)である以上、止むを得ずそう付けたまでであって、特殊の名前を付けるよりも、この方が分りやすく親しみやすいからでこれを率直にいって宗教以上の宗教、すなわち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。

そこでまず大体の輪郭(りんかく)をかいてみるが、そもそもこの世界は人類が原始時代から現在に到るまでの長い間、幾多の卓越せる有能者が現われ、力の限り遠大なる理想の下に苦心努力した事によって、今日見るがごとき絢爛(けんらん)たる文明世界が出来上ったのであるから、人間はその恩恵に対し、大いに感謝感激が湧くべきにかかわらず、事実はそうでないとしたら、実に不思議といってよかろう。しかしよく考えてみると、何よりも肝腎な幸福がそれに伴(ともな)わないからである。その原因は言うまでもなく現在文明のどこかに一大欠陥があるからであって、私はその欠陥を神から知らされたのである。それは何かというと現代文明は全面的進歩ではなく、半面である唯物分野のみの進歩であり、他の半面である唯心分野は全然顧(かえり)みられなかった事である。しかしこれにも理由がないわけではない。すなわち神の経綸上物質文化を発達させるためには、ある期間唯心文化の発達を阻止しなければならないからである。それによって物質文化は予定の線にまで発達した今日、ここに神は唯心文化を一挙に飛躍させ、両々相まって真の文明世界を創造されんとするのである。そうしてその使命の下に生まれたのが我救世教であるから、既成宗教とはすべてに渉って比べものにならない程の相違があるのである。

以上のごとくであるから、根本としては長い間眠っていた有神思想を呼醒(よびさま)すことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教に奇蹟の多いのもそのためである。もちろんこの力こそ主神から伝達される絶対力であるから、いかなる無神主義者といえども、有神思想に転向するのはもちろんであって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果跛行(はこう)的文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、そのため選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない。昔から幾多の聖者賢哲が予言されたところであり、ただその時期が到来したまでである。彼(か)のキリストの天国は近づけり、釈尊の弥勒下生、天理教教祖の甘露台の世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、ユダヤ教の救世主(メシヤ)降臨等々もそれであって、これについての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。しかるに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり各聖者の予言の裏付け者でもある。というとその言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかが窺(うかが)われるであろう。それというのも主神は私に対して目的達成に必要なあらゆる智慧と能力を付与せられ、しかも超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未(いま)だ嘗(かつ)てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故に一度本教信者となるや、いかなる人でも直ちにこの福音(ふくいん)に浴す事が出来るのである。

すなわち病める者は医(いや)され、貧なる者は裕(ゆた)かに、争いは霧消(むしょう)し、不幸は幸福に転化する等々、神の恩恵のいかに深遠なるかに感激するのである。そうして個人の集合体が社会であり、国家であり世界であるとしたら、本教発展に従いここに平和幸福なる地上天国は実現するのであって、かくして神の御目的は達成せられるのである。その境目が現在であるから、まずこの事を知り、幸福を掴む事こそ光栄の至りである。

故にこの著は宗教はじめ、あらゆる事象の真髄を神智を通じての解説書であって、今までかいた多くの中から、私の指示のまま弟子に選ばせ、編纂したものであるから、実に空前絶後の真理の開明であり、寸毫(すんごう)の誤りはないのである。それと共に今後も続々出るので、溜った都度刊行する予定である。すなわちこれこそ救世教の聖書であり、将来世界の宝典として子々孫々に伝えらるべきものであろう。