『地上天国』16号、昭和25(1950)年8月15日発行
この物を識るという言葉ほど、深遠微妙にして意味深長なものはあるまい。恐らくこの語は世界に誇っていい日本語といえよう。しかし簡単には判り難い言葉なので、今出来るだけ判りやすくかいてみよう。
物を識っているという言葉の意味を、解剖してみるとこういう事になる。それは世の中のあらゆるものを経験し、透徹し、実体を掴み何らかの形によって表現するという意味である。例えばある問題に対して、こうすればこうなるという唯一つの急所を発見する事である。それに引換え大人気ない小児病的議論を振廻したり、軽率な行動に出たり、人から非難され軽蔑される事に気が付かないで平気で行う事がつまり物が見えない、物を知らないという人である。世間よくいわれる、彼奴(あいつ)はまだ若いとか乳臭いとか、野暮天だとか言われるのがそういう人間である。また識者という言葉があるが、これは物を識っている人を文化的に言ったのである。
以上によってみても、今日の政治家などは物を知らない人が多過ぎる。大した問題でもないのに、無理に大きく採上げて騒ぎ立て、識者から顰蹙(ひんしゅく)される事に気がつかないのであって、自己の低級さを表白する以外の何物でもないのである。そうしてこういう人間に限って小乗的主観の亡者である。こういう小人物の行動によっていつも国会の能率は阻害され、国会の信用を傷つけられる。常に独りよがり的売名に一生懸命である。ゆえにこの物を識らない人を言い換えれば没分暁漢(わからずや)でもある。
今日政治の論議なども、長い時間を潰してもなかなか結論が得られないのは、右のようなわからずやが多過ぎるからであろう。判った人が多ければ容易に一致点を見出されるはずである。ところがここで困る事には、物の判った人はどうも出しゃ張りを嫌い、わからずやと争うのを避けようとし、つい温和しくなり、引込思案となる。ところがわからずや共はこれを好い事にして益々出しゃばる。ところが世の中は面白いもので、出しゃばると有名になる。有名になると選挙の時の当選率が高くなるので、その結果判った人はいつも少数となり、わからずやが多数を占めるという事になる。近頃のごとく問題の論議に徹夜までしなければ結論を得られないというのはよくそれを表わしている。
とはいうものの結局は判った人の意見が採用されるのも事実である。何よりも政界で頭角を顕わす程の人は出しゃばらないでいていつとはなしに人望を博し重用されるのである。今の吉田首相などは、現政治家中一番物の判った人といえるであろう。
ところがひとり政界のみならず、社会各面における有能者といわるる人は比較的物の判った人であるのは自然の成り行きであろう。以上は精神的方面をかいたのであるが、次に他の面すなわち物的の面をかいてみよう。
これを判りやすくかくには、芸術的方面が一番いい、というのは物を識ってる人は、偉人型が多いと共に審美眼においても優れているからである。
まず、最先に採り上げたい人は彼の聖徳太子である。彼が仏教文化特に芸術方面に優れていた事は論議の余地はあるまい。今なお法隆寺その他に残っておるもののいずれも燦(さん)として光を放っているに見ても明らかである。また有名な憲法十七条は、日本における法の基礎ともいえよう。次に挙げたいのは彼の足利義政である。彼が他の面ではとやかく言われるが、芸術方面に到っては立派な功績を遺した。彼の銀閣寺のごとき建造物はもとより、彼は支那美術を好み宋元時代の優秀なる芸術品を蒐(あつ)めた外、日本美術を奨励し、珍什名器を作らせた事で、東山御物(ぎょぶつ)として今もなお、吾らの鑑賞眼を満足させている功績は高く評価してよかろう。
ここで、吾々が最も最大級の讃辞を与えたい人物としては彼の豊太閤であろう。彼が桃山式絢爛たる芸術文化を生んだ半面侘(わび)の芸術としての茶の湯に力を注いだ事で、それまではなはだ微々たる存在であった茶の湯を、一世の鬼才千利休を援け、茶道大成の輝かしい功績を残した事も特筆大書すべきであろう。これらによって当時美術文化の勃興と共に名人巨匠続々輩出した。彼の小堀遠州や楽陶の名手長次郎のごときもそれである。彼はまた義政に習い、支那日本の美術はもとより朝鮮の名器までも蒐集し、日本の陶芸に新生命を与えたのも彼の業績である。ここで見逃し得ないのは彼の本阿弥光悦の生まれた事である。彼光悦は画を描き、書を能くし、蒔絵に新機軸を出し、楽陶を作る等、いずれも独創的のものでゆく所可ならざるなき多芸ぶりは、到底他の追随を許さないものがあった。しかも彼が予期しない一大功績を残した一事は、彼没後百年を経て、日本が生んだ最高峰の偉匠尾形光琳である。彼は既に亡き光悦を慕い、出藍(しゅつらん)の一大名人となった。その他陶王仁清(にんせい)、乾山も挿(さしはさ)まない訳にはゆくまい。そのまた流れを汲んだのが抱一(ほういつ)で、彼も凡手ではなかった。
しかも秀吉の傑出している点は、彼が百姓の子でありながら、若年にして既に美術の趣味を解し、早くから名器を蒐めたという一事はまことに驚嘆すべきものである。普通世間からいえば物を識るまでには相当の苦労を重ね、しかも中流以上の境遇を条件とするに対し、彼のごとき卑賤より出でてほとんど戦塵の巷(ちまた)を彷徨(ほうこう)し続け来ったにかかわらず、いつどこで習得したかは判らないが、あれ程物を知る人間となったという事は、実に稀世の偉人というべきである。
ここで、文芸の面を瞥見(べっけん)する時、何といっても歌人としては西行、俳人としては芭蕉であろう。この二聖の芸術は、物を識る人にしてはじめて成る作品であり、その代表作としていつも私の頭を去らないのは、
西行の
心なき身にもあわれは知られける 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮
と、
芭蕉の
閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声
である。
また今一人書落し難い物を知る人がある。それは不昧公(ふまいこう)の名で知られている彼の松平雲州公である。彼が多数の珍什名器を聚(あつ)め整理し、分散を防ぎ、萎靡(いび)せんとする茶道に活を入れたるその跡を見れば、彼もまた尊敬すべき人といっていい。
近代に至って物を識る人として、私は俳優故市川団十郎を挙げたい。これは『自観随談』に詳しく載せてあるからここでは略すが、とにかく大ザッパに代表的の数人をかいたが、物を識る人とは全く最高の文化人であって、彼らの業績がいかに後世の人々の魂の糧を与え、趣味を豊富にし、情操を高からしめたかは今更言うまでもあるまい。なるほど発明発見や学問の進歩も、人類文化に貢献する力は誰しも知っている事ではあるが、右に説いたごとく、物を識る人の業績が、いかに暗々裡に文化に貢献したかは、改めて見直す必要があろう。